徒然なるままの言霊・言魂

オレたちは強い。日本を制すまで一気に突っ走るぞ!!

教育

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]

4歳のときに本をたくさん読んだ子は、のちのち頭が良くなるということがアメリカの研究により明らかになったそうです。小さいお子さんがいるお母さん、結婚も子育てもこれからという独身のあなた、ぜひ読んでみてくださいね!

なんでも、4歳の子どもに10冊の本を与えると、言語脳といわれる左脳の成長が促されるそうです。また、4歳のときに知育玩具を与えたり、動物園や遊園地などへ連れて行ったりすることも左脳の発達を促進するようですよ。

しかしながら子どもが8歳のときに前述のことを行ったとしても、同様の結果は得られなかったとか。以下、英「デイリーメール」電子版よりご紹介します。

米ペンシルベニア大学の研究者らが、同じような生活レベルの家庭で育った64人の子どもを対象にリサーチを行いました。子どもが4歳のとき、8歳のとき、さらに18・19歳になったときの脳の成長具合を見るというものです。

実験開始から15年後、18・19歳に成長した被験者の脳スキャンを行いました。4歳のときに本や知育玩具を与えられていた被験者は、これらの行為を行っていなかった被験者と比べ脳の成長スピードに違いが表れたということです。また、本や知育玩具を与えられなかった被験者たちよりも言語テストの得点が高かったそうです。

この研究結果を踏まえ、ブライアン・アバンツ研究員は「幼い子の脳は環境に敏感だということが改めて分かりました。今回の研究では、ほんの少しの家庭環境の違いが脳の成長に影響を及ぼすということを裏付ける大きな証拠となりました」と話しています。

え、自分が4歳の時に本を読んだ記憶がない? としても、読書で世界観が広がることは間違いありませんよ! 読書はいつになっても大切。みなさんも、今日からぜひ読書を習慣づけてみてはいかがでしょう。

“褒めて伸ばす”は本当だった

 運動トレーニングを行った際に他人から褒められると、運動技能が高まることを、自然科学研究機構 生理学研究所の定藤規弘教授や名古屋工業大学の田中悟志・テニュアトラック准教授、東京大学先端科学技術研究センターの渡邊克巳准教授などの研究チームが証明した。

研究チームは、右利きの成人の男女48人に、30秒間のうちにできるだけ速く、順番通りにキーボードを打つといった、連続的な指の動かし方を覚えてもらった。そのトレーニングの直後に48人を「自分の技能が褒められたグループ」「他人の技能が褒められるのを見たグループ」「自分の技能の成績グラフだけを見せられたグループ」に分けた。翌日に、覚えた技能を披露するテスト(30秒間のうちにある順番で何回打てるか)を行ったところ、自分が褒められたグループの成績(回数)は20.0%伸びた。他人が褒められたグループの伸びは14.4%、自分の成績を見たグループの伸びは13.1%にとどまった。

定藤教授は「褒められることは、脳にとっては金銭的報酬にも匹敵する社会的報酬だ。この社会的報酬を得ることで、運動技能の取得がより上手に促されることを証明した。“褒めて伸ばす”ことの科学的な妥当性を示すものであり、教育やリハビリテーションにおいて、より効果的な“褒め”の方略につながる可能性がある」と話している。

なお今回の研究は、文部科学省科学研究費補助金の補助を受けて行われた。研究結果は7日、米オンライン科学誌「PLoS ONE」に発表された。

本能寺の変


本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日)、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。暗殺事件との解釈もなされる。

当時、天下人の地位に最も近かった織田信長を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという、日本史上においても最重要事件の一つである。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている。


天正10年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、天正10年3月に武田氏を滅ぼした。関東の後北条氏、東北の伊達氏、九州地方の大友氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目下の敵は、中国の毛利氏、四国の長宗我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏となった。
信長包囲網の一翼を担い一時期信長を苦しめた毛利氏は、織田軍の将・羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退で勢力を失いつつあった。また上杉氏は上杉謙信亡き後、家督争い(御館の乱)と相次ぐ家臣の反逆によって疲弊しており、かつて関東・越後国から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた神戸信孝が長宗我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田氏が有利な情勢であった。九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。
安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気で、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。

明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、句の解釈は種々ある。これは西坊威徳院で詠まれ、発句を詠んだのが明智光秀であるから光秀が主客である。主催者は行祐が脇句を詠んでいるのでこの座の亭主、つまり主催者である。(明智軍記)光秀は元来、土岐の末裔である明智であるので、苗字を時節にかけ、この度本望を達したれば、私が天下を知る(治める)との心情を含めた大事の前の心境を吐露した物と解釈するのが一般的である。(明智軍記)

また、秀吉応援のために中国地方に出陣するのであれば、丹波亀山城から本能寺は全くの逆方向であり、1万3000もの軍勢を全く無駄に往復させるという、軍事上考えられない矛盾があるとの指摘がある。明智光秀は重臣斉藤利光等に命じ本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるためと称して老ノ坂を下り左の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斉藤利光勢およそ3000を渡河させ洛中に向けた。(当代記)家臣たちは御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると思っていた。(本城惣右衛門覚書)

一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長は安土で朝廷よりの任官要請(関白、征夷大将軍、太政大臣)をいずれも拒否しており朝廷は不安に満ちていた。つまり巨大な武力を持つ朝廷の家臣でもない者がこの時入洛してきたのである。
本能寺は無防備な寺ではなく、天正8年(1580年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている。

同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという(元禄年間の『明智軍記』にある「敵は四条本能寺・二条城にあり」が初出だが、同書は信憑性が低いとされている)。江戸時代の頼山陽の『日本外史』では、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとあるが、実際には一部の重臣しか知らなかったとの見解が有力である。なお大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う説もある。またルイス・フロイスの『日本史』や、変に従軍した光秀配下の武士が江戸時代に書いたという『本城惣右衛門覚書』によれば、下級武士には徳川家康を討つものと伝えられていたことが窺い知れる。

6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。


本能寺跡

馬の嘶きや物音に目覚めた信長が蘭丸(乱丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と蘭丸(乱丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。信長は「是非に及ばず[7]と言い、を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる。信長の遺骸は発見されなかった。

信長が帰依していたとする阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。しかし本能寺には堀と土居があり、この説は疑問である。また、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので、史料価値は低い。未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられないという指摘がある。
一方、本能寺から200mの近辺に教会のあったルイス・フロイスの『日本史』では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。
光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとしたが、既に事態は決したから逃げるように側近に諭された。実際は包囲は十分でなく、織田長益など逃げおおせていた。しかし信忠は明智軍は包囲検問をしているだろうからと逃亡をあきらめて、守りに向かない妙覚寺を離れ、京の行政担当者である村井貞勝らと共に二条御所(二条新造御所)に移った。そして信忠は何箇所もの傷を負いながら2人を切り倒し、少人数ながら抵抗を見せて三度も明智軍を退却させた。時間の経過とともに、京に別泊していた馬廻りたちも少しずつ駆けつけ、反乱の去就が危うくなってきた。明智軍は最後の手段で隣接の近衛前久邸の屋根から丸見えの二条御所を銃矢で狙い打ち、側近を殆ど倒した。こうして信忠は自刃し、二条御所は落城した(『信長公記』、『當代記』)。
妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。
また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。
一部施設の児童は小学校に入ってもランドセルを買ってもらえません。

多くの施設は経営がとても厳しくランドセルを買う余裕がありません。

そこで施設の児童は安い手提げカバンやリュックで通学します。

子供手当ても支給されないからです。

一目で施設の児童だと分かり、いじめなどの原因にもなっています。

養護施設の子が使ってる手提げカバン兼用リュック
イメージ 1
 

ランドセルをもらった児童。いい顔。
イメージ 2

子供手当ても支給されないからです。

外国人には配るけど孤児には配りません。


投票権が無いからか?

でも自民党も置き去りにしてきたからな。。。
日本の殻をぶち壊したペリー来航。
日本人が知っているアメリカ人で1、2を争う有名な人。

イメージ 2
マシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)
(1794年4月10日 - 1858年3月4日)

アメリカ海軍の軍人。エリー湖の戦いにおけるアメリカ海軍の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーの弟。日本の江戸時代に艦隊を率いて鎖国をしていた日本へ来航し、開国させたことで知られる。
来航当時の文書には「ペルリ(漢字では彼理)」と表記されていた。

豆知識:
ちなみに蒸気船は2隻。
「太平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たった四杯(しはい)で夜も眠れず」と狂歌に詠まれたような、四杯(4隻)すべてが蒸気船という表現は誤り。
詳細は下記のとおり。
●旗艦:サスケハナ(USS Susquehanna) 1850年12月24日フィラデルフィア海軍工廠で竣工
 外輪式フリゲート:水線長76メートル、満載排水量3,824トン、乗員300名。
 装備 10インチ砲3門、8インチ砲6門

ミシシッピ(USS Mississippi)
外輪式フリゲート:水線長70メートル、満載排水量3,230トン
装備 10インチ砲2門、8インチ砲8門

「プリマス」USS Plymouth
帆船:水線長45メートル、満載排水量889トン
装備 8インチ砲8門、32ポンド砲18門

「サラトガ」USS Saratoga
帆船:水線長45メートル、満載排水量896トン
装備 8インチ砲4門、32ポンド砲18門


イメージ 1
ミシシッピ号


ちなみに有名な狂歌の意味は、
「天下泰平が続き、すっかり眠りこけていた役人どもが、たった4杯の上等なお茶を飲んだだけで夜も眠れなくなった」、と、普段の威厳はどこへやら、わずかな外国船の来航にすら慌てふためく江戸幕府を庶民が揶揄したもの。「上喜撰」とは高級日本茶「喜撰」の上物のことで、「蒸気船」と、「四杯」は湯飲みのお茶と船の数え方が同じであること、それぞれの掛詞(駄洒落)。高級茶は安物に比べ、覚醒効果が高いと言われていた。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 次のページ ]


.
検索 検索
ちゅう♪
ちゅう♪
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事