タイ語の勉強 & 山と旅と俳句

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5月4日、ウドンタニ

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5月4日(木)、ウドンタニ   (v6fiTkou)

ゲストハウス隣のレストランで朝食、最後に又フランスパンを食べ、半分英語、半分タイ語で宿の主人と別れの挨拶をし、チェックアウト。彼にとってもタイ語は外国語、丁度当方程度のタイ語の方が相手にし易いのか色々と話してくる。当方もお世辞ではなく半ば本音で「チャーマーラオ イーククラン・クラップ!
0t,k [k; vud8iyh: 8iy@!(ラオスへ又来るよ!)」と言って宿を後にする。                                           
今日はここビエンチャンからウドンタニまでの200キロにも満たない行程。時間は充分ある。入国の時に友好橋から市内まで300バーツもふんだくられた思いが強く、今日は時間もあることだし、一旦ツクツクに乗り30バーツ支払って「タラート・サオ(朝の市場)」まで行き、そこの隣にある大きなバス・ターミナルからは市内循環のミニバスで友好橋まで行く。僅かに10バーツ。随分と得をした気分だ。

出国の通関を済まし、3日間のラオスを後にして、再び国境の橋をシャトルバスで通過し、これから又左側通行の国に戻り、数日前に通ったノーンカイのバス・ターミナルでウドンタニ行きのバスに乗り換え、約2時間、昼前にはウドンタニ、ターミナルに着く。さあこれからは後半の旅、一挙バンコクを目指す、一抹の寂しさも無くはない。

今日のこの町では日本でのホテル予約はしてなく、どこか適当なホテルを探さなければならない。しかしタイのバス・ターミナルではどこでもインフォーメイションの窓口があり、言葉が充分通じるか通じないかは別にして、ホテル探しで困ることはない。リュック姿の当方を見て、こちらから安いホテルのリクエストを出す前に、係りの方から適宜ホテルを指定し、当方の同意を得る前にツクツクを呼び、そこへ運ぶよう指示を出す。処が着いたそのホテルは現在休業中。この辺がタイ人のおっとりしたところと言うか、杜撰というか、信頼性に欠ける部分でもある。マイペンライ、気にしない。してもしょうがない。

やむを得ず、付近の通行人にどこか宿泊するところ、「ローン・レーム」(旅館)を聞くと、直ぐ近くの歩いて行ける距離に、最近出来たらしいペンション風のホテルがあり、1泊480バーツ。部屋もツインで広くて清潔で、長期滞在者用に作られているようでもある。しかしシャワーはあってもバスタブが無いのは、お風呂に入る習慣の無いタイではスタンダードなのだろう。取り敢えずは部屋にリュックを置き、お昼を食べに街に出る。

このウドンタニ及びこれから訪問する予定のコンケーンは、ベトナム戦争華やかなりし頃、米国空軍基地が置かれ、それまで寒村に過ぎなかったこの二つの町はB52の発進基地ともなり、一大発展を遂げたとガイドブックに出ていたが、それももう40年も前の話し。当時は金ピカであったろう街も今では煤けた色合いの、40年間停滞し続けた外観の街になっている。米軍が街から去った後、繁栄はストップしたかの様なうらぶれた外観になっている。

タイはどこの国とも軍事同盟を結ばず、東洋のスイスと目されなくもないが、当時強大な米国のプレゼンスの前に、国の方途として米軍に基地を提供し、ベトナム、ラオス、カンボジアへの米軍爆撃機の出撃前線基地とならざるを得ない国際情勢であった。それは丁度60年前、日本軍の前に中立の立場をとりつつも、泰緬鉄道(タイ−ビルマ間鉄道)建設を黙認せざるを得なかった、更には協力せざるを得なかった弱小中立国の当時の状況と相通じるものがある。

中立を維持することの難しさ、国際政治の中でのPower of Balanceを見極め、国の処し方を方向づける、それは大陸国の一国として長い年月培われてきたものだろうし、それを評してバルカン的対応と批難すべきではない。

現在世界最長の在位を継続しているプミポン国王(天皇陛下の在位64年を抜いて現在68年を継続中)は当時既に国王の地位にあり、時の首相は多分チャチャイ氏だったと思うが、彼はしばしば日本の新聞にも登場し、時のベトナム方面軍司令長官、後の統合参謀本部議長Westmoreland陸軍大将との連日の折衝の中で、米国との軍事同盟を結ばずして、名分と実利を克ち得た類希な政治家だった。しかしこれ等の事ももう既に40年以上も前の話になる。遥か遠い昔の話になってしまった。当時の軍事政治ジャーナリストのメインプレイヤーはプミポン国王を除いて、大半は冥界に旅立って行ってしまった。この古ぼけた町並みのみ当時の歴史的事実の証人として今も尚ここに現存していた。

その遺物の中で眠っているがごときのこの街で、街と同じ位に古ぼけた食堂で昼飯を食べる。中国人の血を引いているらしいマスターは、年の頃40歳前後で、当然ベトナム戦争も知らないし、その後のことも余り知らないだろう。

当方を日本人と見て取ってか、如何にも愛想良くメニューを勧め、当方もそれに従う。中国人の作る料理は何を食べても美味しい。ラーメンから始まって、間違いが無い。中国人料理人はお客さんを喜ばすように作っているようだ。

さてこの町での観光目的はなく、ビエンチャンからコンケーンまで一日で南下するのは距離があり過ぎ、1泊ストップオーバーしただけのことだから、どこへ行くとの宛ても無い。処でこの街は一体に中国名での商店名、看板が多く、ベトナム戦争時、米軍と一緒に随いてきた中国人が米軍が引き上げた後も、ひとり残って定着し、華僑の道を歩んでいるのだろうか。

街を歩いていて、突然日本語で呼び止められた。50年配のおばさんで、床屋をやっているとのこと。店舗の中に入ってみると、うなぎの寝床みたいな細長い作りの建物になっていて、1坪位の小部屋が5−6部屋並んでいて、中には散髪用の椅子とかハサミ等もある。従って床屋には違いないが、何かそれ以外のサービスも提供するような感じの店で、今日のところは散髪を遠慮した。聞いてみると、若い頃、日本に居たこともあると言う。若かりし頃、タイ芸能人の一人として、どこぞの田舎クラブで働いてでもいたのだろう。

更に街を歩いていると、この町には大きな刑務所があり、英文表示の看板を見ると、どこにも「Prison」との記載はなく、英訳では「教育・矯正センター」となっていて、又漸く解読できたタイ文字での「ローンリーエン」、学校との表示は、日本にある様な厳めしく、入りづらい刑務所の雰囲気はどこにも感じられなかった。日本よりタイの方が民主的なのだろうか? 確かに高い壁の四周のコーナーにはガラス張りの見張塔が立っていて、塔の中から監視している様子が見えるので刑務所には間違いないが、それをその様に表現しないで、「教育・矯正センター」と表示しているのは随分進んだ考え方だと感心した。
 
この町は市内の中ほどにある噴水を間にして当方の今晩泊まるホテルがある古い町並みと、この10年の間に開発された新市街に分かれていて、歩いて新市街まで行ってみる。新市街には先刻の古ぼけた町並みとは違って、近代的なホテル、ショッピングセンターなどもあり、その4階にはレストラン街などもあって、ファーストフードの店、日本式のソバ屋なども入っている。東京、バンコクにいるのと余り変わらない。ただ違うのは客の数で、東京のデパートは大概が閑古鳥の巣になっているが、上海でも台湾でもフィリピンでもアジアの都市ではどこでも盛況だ。年の瀬のアメ横程の人出はないが、混雑度70%と言ったところ。この地区には旧市街では全く見られなかった外人の数も多い。

外人の性向は良く分らないが、意識の中に階層分化の伝統があり、地元民の集まるような所には、積極的に行こうとしないのか。そう言えば、戦前の日本人も旧満州国に於いては、日本人の生活エリアとそれ以外の国人を峻別し、往来を制限していたが、特権階級になると言うのはそういう事かも知れない。

この町にはサムロー、即ち人力自転車も多く、日本のタクシーの様に通りを流しているが、新市街からホテルに戻るのに物は試しに乗ってみる。時代が50年逆戻りしたか、戦前まで戻ったか、一生懸命自転車を漕ぐサムローの背中を見て、一抹の同情は沸くとしても、後部座席に踏ん反り返っていると、知らず特権意識が芽生えるものだ。高級人種が下僕を下に置いて、毎日雲の上の生活をしていると、下層階級に対しては人間というより道具の一つとしてしか見なくなるに違いなく、今前を漕ぐサムローも人力機械の一部としか見えなくなる。酷い話し、戦前の満州人を「丸太」と評し、生きたままの生体実験に駆り立てたのも、この様な人種間差別の延長上にあったものだろう。サムローがいること自体、タイはまだ貧しい国なのか、或いは、人種間差別が残っている象徴なのかは当方には分らないが、日本での「人力車」が既に100年以上も前の大正時代には廃止されていることを思うと、タイの近代化はまだまだこれからかも知れない。

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