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当時の原始的な航海では玄界灘の大海を渡るのは至難の技だった。 順風、季節風を待って、一気に渡りきるのだが、失敗も多かった。 この「巡礼行記」は6月13日、博多湾にて第1舶に乗り込むときから始まる。当時、遣唐使船は4艘一団で出発するが、この時既に2度の出航が直後に失敗に終わっていて、3度目の正直の出航であった。従って2艘は既に航行不能になっていて、この時、大師は第1舶、遣唐大使と一緒の船に乗船した。 尚、遣唐使はご存知のように、第1回遣唐大使、小野妹子が607年に聖徳太子の書「日出る処の天子」で始まる国書を携え、隋の煬帝に柵封に行ったのが始まりだったが、その後の朝鮮半島の騒乱、日本・百済連合軍と唐・新羅軍との戦い、等もあり、一旦は中止されていたが、それでも飛び飛びに継続され、この時、円仁さんが行ったのは第14回遣唐使節であり、実に100数十年振りのことだった。今から見ると、丁度幕末の頃、咸臨丸に乗って福沢諭吉が訪米してから100数十年振りに次の使節団が訪米するような時間的スパンである。 しかし、その後は中国国内の混乱等もあって、以後の遣唐使は打ち切られることになり、円仁さんは最後の遣唐使船で入唐したものである。 当時 博多には大宰府政庁もあり、鴻臚館もあったりして、外に開けた国際都市でもあった。白村江で大敗し、博多も一時は唐の将軍郭ムソウに占領されたりしていたが、その時から既に150年は経っていた。 街は既に交易港としても現状に服していた。前年、摂津住之江を出航した4艘の遣唐使船は、博多津を出た途端暴風に見舞われ、散り散りになって難破したが、3度目の今回はもう失敗は許されない。その3度目の出航の初日、6月13日からこの「巡礼行記」は始まっているのである。 博多湾で3日間風待ちし、漸く出発はしたが、博多湾口直ぐのところにある志賀島で再び5日間の風待ちをすることになった。当時はもう既に朝鮮半島沿いの航路は使えず、季節風を頼りに、玄界灘を一気に大陸まで直行する航路しかなかったのである。そんな近くの島で又5日間も風待ちしなければならないという、頼りない航海でもあった。 当時の航海は、月ロケットで月へ行くほどではないにしても、宇宙船に乗るくらい大変な航海だった。 838年(承和5年・開成3年)6月、いよいよ出航となる。慈覚大師御年44歳。 当方ブログへのご訪問、どうも有難う御座いました。
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これは大したものです。44歳で決死の留学ですか、これだけで円仁さん並みの人ではないですね?
チャオさんも凄い、しっかりこの本を紹介してくれている。私は面倒くさいからまる写しで紹介している( ̄ー ̄)ニヤリッ
2009/7/23(木) 午後 4:33
竜司さん、本当に驚きの連続ですね。
この本の紹介は、皆さんに「ブログ村」をクリックして頂くための大サービスなんですよ。
竜司さんは当然クリックは済んでいますね!
2009/7/23(木) 午後 4:39 [ ciaocommodore ]
この円仁の3度に渡る挑戦で最期の遣唐使を成功させるのは、逆の立場の鑑真の6度にわたる渡航の挑戦の挙句に成功させた来日にも共通した執念深い使命感の在り方が見て取れますね。昔の人はその点偉大でしたね。
2009/7/23(木) 午後 8:23 [ dandyboy ]
Dandyさん、全くその通りですよ。昔の人の精神力の強さ。命もものとせずに突き進む情熱。我々日本人は、江戸期以降、平和になり過ぎて、みんな忘れてしまっていますね。
2009/7/23(木) 午後 8:39 [ ciaocommodore ]
朴の木さんからのメール:
お疲れ様です。入唐求法巡礼行記。読ませていただいてます。もう忘れてしまったうえ。今のところよみかえせないので,ちゃおさんのブログを楽しみにしています。
五台山へ行かれるのですね。日本人にも,円仁様のちょっとまえ,三蔵法師がおりました。ご存知かとは思いますが,霊仙三蔵です。円仁様の著書があります。読んだことはありませんが。滋賀の石山寺(紫式部のいたらしいです。へやがありました)に碑があります。皇帝の寵愛をうけ,自ら手のこうをはぎ,最終的に二度と日本の地を踏めなかった霊仙三蔵。
ずっと惹かれていたのですが,12年調べていません。五台山は由縁の地だそうですね。ご報告楽しみにしています。おきをつけていってらしてください。
2009/7/24(金) 午前 11:00 [ ciaocommodore ]
いやー、スーさんは感心するくらいに何でもよく知ってますね。
霊仙三蔵など僕は、別の「五台山」を読みまでは名前すら知りませんでした。
何か興福寺のお坊さんのようですね。
2009/7/24(金) 午前 11:02 [ ciaocommodore ]
この様な本を読まれるのですか、私は、あまり本を読みません、この本のことは、解りません、・・チャコ
2009/7/25(土) 午前 11:32 [ チャコ ]
うんーん、チャコさん、面白い内容ですが、難しいです。皆さんにも分り易いように解説して行きたいと思います。
2009/7/25(土) 午後 0:07 [ ciaocommodore ]
寛平の韓寇
寛平5年(893年)5月11日大宰府は新羅の賊を発見。「新羅の賊、肥後国飽田郡に於いて人宅を焼亡す。又た、肥前国松浦郡に於いて逃げ去る」。
翌寛平6年(894年)4月、対馬島を襲ったとの報せを受ける。沿岸国に警固を命じ、この知らせを受けた朝廷は、政治の中枢の人間である参議の藤原国経を大宰権帥として派遣するなどの対策を定めたが、賊は逃げていった。この間遣唐使が定められたが、一説に唐の関与を窺うためであったともいう。
寛平6年(894年)、唐人も交えた新羅の船大小100艘に乗った2500人にのぼる新羅の賊の大軍が襲来し、対馬に侵攻を始めた。
9月5日の朝、45艘でやってきた。
捕虜の証言では新羅政府による襲撃略奪であった。捕虜曰く、新羅は不作で餓えに苦しみ、倉も尽きて王城も例外ではなく、「王、仰せて、穀絹を取らんが為に帆を飛ばして参り来たる」という。
同年9月19日、遣唐使も中止された。
2018/3/21(水) 午後 4:29 [ 元寇を学び日本を護る ]