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「三陸の思い出」(3)
八戸に最初に来たのは、もう40年も前のことになる。当時は上野を夕方出る寝台特急で、翌朝八戸に着いた。夕鶴とか銀河、と言ったような列車名だったと思った。不確かだが。
その後、三沢に飛んだり、青森まで飛んで、電車で八戸に来たりもしたが、来るたびに年々スマートな街に変身してきた。特に新幹線が開通してからの八戸は、駅ビルから始め、駅前の大通り、商店街、等、活気を取り戻した感じだ。
その大通りを真っ直ぐ海の方に歩いていくと、左手に市役所があり、その前の街路樹はナナカマド。市の樹木であるが、幹も細く、枝だけは良く繁っているが、まだ9月というのに赤い実を付けて、東北地方の冬の訪れの早さを思わせた。その市役所前の真っ直ぐの通りを真っ直ぐ海に向かって歩いていくと、港の倉庫、加工所、船会社などが並んでいる港湾施設の上の段丘上に出る。丁度道路の下にそれら工場の屋根が見えるほどの段差になっている。
段差は4−5m程もあり、道路は一旦九の字を描いて港湾の岸壁に出るが、当時、ここを歩いていて、海と住民の住む市街地との間にこれだけの段差があれば、津波など押し寄せてきても、この断崖の壁でもって潮を食い止めることができるに違いない、と思っていたが、今回の津波は、この断崖も乗り越えて、市街地まで押し寄せてきたようだ。八戸の歴史の中で、嘗て無かったことに違いない。
この港に来たのは、港湾の端に蕪島というウミネコの自生地があって、昔は離れ小島だったのが、今は埋め立てられて陸と繋がり、この島の上の神社に登り、ウミネコを見るためだった。
誰もいない初秋の午後、島に通じる陸橋を渡っている間にも多くのウミネコが島の周辺を舞い、本当に猫が鳴いているような叫び声を出している。神社正面の石段を登り、神社に礼拝し、裏に回って自生地を見ると、数えきれないほどのウミネコが岩の上に乗ったり、歩いたり、群舞している。岩の上など糞で真っ白になっている。又、けたたましい鳴き声だ。
ヒッチコックの映画「鳥」のように人を襲うこともなく、群れに近づくと、パッと避けて、3−4m先に退くか、飛び去って行ってしまうが、それを数回繰り返したが、しまいには飽きてしまった。そうっと後ろから近づいて捕まえようとしたが、結局一羽も捕まえることは出来なかった。
南の島のアホウドリが集まると言うボーキサイトの島。その島も鳥の糞で、岩や地面が真っ白になっているという。そんなことも思い出しつつ、この島を後にしたが、今回の津波では、ここも大変な被害を受けたに違いない。あの蕪島神社は無事だったろうか・・。ウミネコの巣など、どうなっただろうか・・。今回の大震災は人間以外にも、動植物にも大きな被害を与えているに違いない。
八戸ではもう一か所、思い出深い場所がある。それは市街地から内陸の方へ3−4キロ歩いた田園地帯の中の、森と静まり返った深い杉木立の中にその御堂がぽつんと立っていた。それは自覚大師の創建と伝えられる清水寺観音堂で、青森最古の木造建造物。分厚い藁屋根に押しかぶさるように背の高い杉の大木が御堂を取り囲んでいたが、普段誰も訪れることのないこの観音堂、湿気を帯びた空気の中に静まり返っていた。数百年の風雪に耐え忍んできたこの御堂。今回のM9の大地震であったとしても、何ら毀損せず、従前と同じように、深い木立の中に、森厳と佇んでいることであろう。
蕪島も観音堂も、リアス線に乗って久慈まで行った海岸線も、もう一度行き、この目で見てみたい。自然の猛威、又、それに耐える別の自然、人の営み。鎮魂の海。浄土ヶ浜。一切合財をないまぜにし、過去に押しやり過ぎ去って行ったその爪痕をこの目で見、合掌したい。
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旅と俳句
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「三陸の思い出」(2)
「登米」は古い地名である。仙北平野のほぼ真ん中に広がるこの邨は、奥州藤原氏が平泉に興る以前からここにあり、名前の示す通り、米作りが盛んだった。今から約300年ほど前の元禄の頃、奥の細道を旅した松尾芭蕉は、釜石神社に参拝し、和泉三郎・藤原忠衡が奉納した大きな鉄灯篭のその碑文を撫でて、ここから小舟に乗って松島に渡り、瑞巌寺に参拝した後、この「登米」を通り、平泉に向かった。
「奥の細道」にもこの邨は「登米」として出ているが、その当時は「とよま」と呼ばれていた。芭蕉も丁度今頃の季節、この仙北平野を通り抜け、田畑のあちこちに聞こえる田植え歌、早苗取る早乙女の姿に暫し歩を休めたであろうか。
いずれにしても今もなお「ささにしき」と呼ばれている良質米の主産地であり、10年前の秋の夕方、この平野を車で駆け抜けた時、一面に広がる田圃の稲が、刈り入れを前に黄金色に輝いていたのを思い出す。そして今はこの内陸の集落にも地割れ、崩落等の大きな被害が出ているに違いない。
登米を含む松島湾には過去3回旅行した。最初は随分前で、仙台から電車で来て、松島、瑞巌寺を見て、バスで帰った。2回目は車で、その時だったか、別の時だったか、芭蕉も訪れた「壺のいしぶみ(碑)」を見に多賀城へ行き、一説には坂上田村麻呂が書かせたと言われている、分厚い、大きな御影石に、「京を去ること1500里、去靺鞨国界、3000里」と記された石碑に感動したものだったが、芭蕉が訪ねた時は草むらに打ち捨てられ、苔むした石碑に過ぎなかった石碑も、当時訪問した時は小さな御堂の中に納まっていて、薄暗い外光の元、目を透かして刻印を読んだものだった。
ここから歩いて数分の場所に、当時の最北の政庁、多賀城址があって、往時には栄えていたであろうこの付近も今は人家も殆どなく、鬱蒼とした夏木立の中に、尋ねる人もなく、静まり返っていた。
小さな政庁で、福岡大宰府政庁址よりも小さく、福岡にはその直ぐ近くに、日本に2個しかない国宝の名鐘が観世音寺の境内の大きな鐘楼に収まっていたが、ここでは、草むした城址と御堂の石碑、文化の大きな落差を感じたが、しかしそれでもその雄渾な精神には感動した。
「靺鞨国」。それは出羽の先の更に海の向こうの国で、そこまでの距離を記していたとは! 芭蕉が旅の行く先、外ヶ浜まで行ってみよう、という気を起こしたとしても、この碑を見れば、分からないことではなかった。
この政庁跡は海岸からかなり離れた場所にあり、今回の震災では被害を受けなかったと思うが、仙台港に面した多賀城市内は大きな被害を受けたと聞いている。
ここから芭蕉が次に向かったのは、塩釜神社に奉納されている和泉三郎、こと藤原忠衡寄進の鉄の灯篭を見るためであり、芭蕉がこよなく愛した朝日将軍、木曽義仲と相通ずる敗者の美徳を想う心であった。芭蕉は、遡ること500年前に敗れ去って逝った二人の英雄を思い、この神社に来たのであるが、松島遊覧は二の次であったに違いない。句も残していなかった。
それから更に300年、この神社の長い石段の上に立ち、はるか先に後退した海を眺め、以前はこの石段のすぐ前まで塩釜湾が迫っていたであろう情景を眺め、芭蕉の気持ちを忖度したのだった。三陸海岸旅行の前だから、もう10年以上も前のことになる。
それから松島を巡り、瑞巌寺に参詣し、その日は松島湾の外れ、大観荘に泊り、海に面した大風呂の、何か、潮の味覚のする天然温泉に浸かり、松島の情景、瑞巌寺、塩釜神社、それから翌日行こうとした金華山等々を回想した。松島湾は比較的被害は少ないとはいえ、これ等の多くは今回の震災で大なり小なりの被害を受けているであろう。直ぐ近くの東松島町では波が町を襲い、大きな被害を受けている。全く不運なことであった。如何ともし難いことだった。
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「三陸の思い出」(1)
3月11日の宮城沖のマグニチュード9の大地震、それに続く高さ10mを越える大津波は、青森、岩手、宮城、福島の海岸沿いの市町村に襲い掛かり、3万人近くの人命を奪った末、町を瓦礫の山にし、海岸線を一変させてしまった。
1000年に一度の大地震だったと言われている恐ろしい自然の力を目の当たりにしたあの日から、今日で既に70日。10週間が経つ。津波が人間生活を一瞬の間に過去に押しやったと同じように、時の経過は徐々にではあるが、同様に過去に押しやって行く。そうして新しい生活がスタートし、新たな1日が始まり、新しい命が芽生えていく。しかし被災にあった家族がいつまでも故人を忘れられないように、僕にとっての三陸の風景は忘れがたいものであり、いつまでも記憶の底に残っている。
もう何年になるだろうか・・、最初に三陸海岸を旅行した時は・・。あれは確か、遠野に1泊した後、遠野から釜石に抜ける山道を通り、釜石の町へ出た。車の余り通らない山道を越え、ようやく下りになって暫くすると、前方に町と海が見えてきた。
釜石は新日鉄の町。鉄冷えと言われて数十年、この町も相当寂れているかと思って町に入ったが、案外そうでもなく、それは確かに過疎化も進み、通りを歩いている人の数は少なかったが、町自体は明るく、古めかしい家屋も少なく、地方都市の中でも中から上に入る位なモダンな感じのイメージを受ける町だった。
海岸沿いに出て、ラグビーの新日鉄釜石のグラウンドを眺め、丁度その頃、このチームも廃部になり、人気のいないグランドに往時の栄光を思い出したが、しかし又最近鉄鋼需要も高まり、いつの日か又チームも再開されることを願い、この町を後にした。
さてその後、北上して宮古まで行くか、それとも南下して大船渡、気仙沼経由で東京へ戻るか迷ったが、運転疲れもあり、宮古は又の機会にし、陸中リアス海岸に沿って南下し、帰京することにした。
町を出ると直ぐにも岬を回る急こう配の登りになり、その上り詰めた辺りに白亜の観音像が海に向かって経っている。釜石大観音。車を降り、岬の先端、観音像の前から釜石湾を見ろしたが、昨日のことのように思い出す。今は、この津波で、あのこじんまりした町全体が波に流されてしまったかと・・。
それから更に南下し、大船渡、気仙沼。皆有名な三陸の漁港で、当時流行った港町ブルース、各地の漁港をモチーフにした船乗りの歌謡曲には必ず出てくる港町であった。
大船渡の本当に細長い、盲腸か、小腸のような、指サックの袋のような細長い湾にはびっしりとカツオ船か、さんま船、或いはもっと遠方のはえ縄船が、真白い船体の漁船が後部甲板を岸につけてびっしりと接岸し、数えはしなかったが数百艘以上の大型船、それは壮観だった。あの時、まだサンマ漁解禁前だったのか、その解禁を今や遅しと、待ち望んでいる漁船の雄姿だった。
国道はその巾着様の大船渡湾を半周する形で、岸壁の横を走り、岸壁の切れたところにはちょっとした漁船の修理ができるような小さな町工場、船台などもあって、それを通り過ぎると又岬の登り坂になり、それを越えると次は陸前高田の町だった。
この町には然したる漁港もなく、何で生業を立てているのか知らないが、かなり整然とした町で、この町の防潮堤、巨大な防波堤を見たく、国道を外れ、浜辺まで出た。砂浜というか、玉砂利の浜辺はやや弓なりの海に面し、人の背の何倍もあるような高いコンクリート壁が海を遮っていた。その所々に、間口5m程の開口部があって、そこを通り抜けて海まで出るが、分厚い鉄の扉は、大潮、高潮などが襲って来れば、直ぐにもぴったり閉じられ、万乗の思いのするものだった。
海に向かって、左側、ずっと先の岬の方までコンクリート壁は続いていて、その高さたるや7−8m、現代の万里の頂上を思わせるものがあったが、その頑強に思えた壁すらも今回の大津波は易々と乗り越え、又、破壊した。波の力、水の力、想定外の巨大津波は人智の及ぶところではなかった。当時、この防波堤を見、よもやこの壁を乗り越え、津波が町まで浸入するなど、小生には到底想像もできないことだった。
それから更に南下し、次の町が気仙沼。この三陸地方で、宮古、石巻と並ぶ、或いはそれ以上に活況のある港町。三陸のど真ん中にあって、中心をなす漁港だった。港の作りは気仙沼と似た感じの盲腸のように細長い港湾が、海に向かってラッパの口のように開け、気仙沼よりはやや少なめの漁船が同じように係留されているが、岸壁の前の国道は気仙沼よりは賑やかで、3階建て位のビルの数も気仙沼よりは多く、その真ん中には「お魚センター」と言った、水産物の直売ビルがあって、多くの車で出入りしていた。仙台とか盛岡辺りからここまで買い出しに来ている車なのかも知れなかった。
「お魚センター」に立ち寄り、いろいろ新鮮な魚介類、ホヤとかアワビを買い、更に今はサンマの旬、一箱50−60尾入りのサンマが3000円程度で売られている。今晩中に東京に戻るので、近所に配るよう一箱買って、センターを後にした。あれからもう10年にはなるか・・。
このセンターにしても国道沿いの建物にしても、今回の大津波ですべて流され、その後に発生した火災で、町は壊滅したが、震災直後のテレビ映像で眺めた、電気の消えた、瓦礫の山となって町のあちこちで、火の手が上がっているのを見て、何とも言いようのない焦燥感と同時に虚しさに襲われた。
町が無くなった。何万人もの人が亡くなった。昨日までの笑顔、諍い、愛憎、絆は一瞬の間にすべてが無に帰した。生き残った人、死んだ人、みな為すすべもなく、運命は翻弄された。人間は葦、強大な自然の猛威の前では無力であった。
それから志津川町。曲がりくねった国道が町の中を海岸線の湾曲に従うように走り、小さな川が町の中央部にあって、その川を渡れば、もう直ぐにも町の外に出る。この町もいつの間にか町村合併で、今は聞きなれない南三陸町と名前が変わってしまったが、古くからある志津川。この町の真ん中を通る小さな川がそれだった。
今回の津波では、この小さな川すらも逆流し、町全体を水没させたが、この平和そうに見えた三陸の町が、一瞬の間に濁流に呑まれ、数千人という犠牲者を出してしまった。全く人智の及ばないところで、人間の力では抗うことの出来ない、不可抗力の自然の襲撃であった。人間は自然に対しては、飽く迄も謙虚でなければならない。今回の大震災は、そうしたこもごもを天が改めて人に教えてくれているのだろうか・・・。
志津川を出て、もう夕方近く。この先、石巻まで出るのも時間がかかり、そのまま登米を経由して東北道に出て、帰京したのだったが、東北、三陸地方には、このリアス式海岸を別にしても、多くの思い出の地があり、その多くが今回の大震災で大きな被害を受け、もう殆ど二度と行くこともないこれ等の地を思い、こうして書くことにより、偲ぶよすがとしたい。
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鹿島臨海線の大洗駅。この線路では珍しく有人駅となっている。
大洗町観光地図。右手に鉾田の動燃が、左手に東海村の原研がある原発村に囲まれた地。
鉾田、鹿島方面に向かう臨海線の電車。
最近、鉾田がいつも地震の震度が飛びぬけて高かったが、どうも震度計が故障していたらしい。 問題の水菜は生産量日本一。
鉾田には生産量日本一の農産物が幾つもあるようだ。
電車の横の宣伝広告には出ていないが、ここには、檜、欅の良い銘木も産している。
大洗半日の自転車の旅、いや何、サイクリングは、マリンタワーに上り、磯前神社に参拝し、海岸線を走り、那珂川と涸沼の合流点を眺め、いよいよこの広大な松林の中の道を通り、大洗駅に戻って終了となる。僅か2時間強の旅であったが、震災を感じ、歴史を思い、自然に触れて、実り多い、思い出深い旅となった。
駅に着いてみると水戸行4時半の電車が出たばかりで、次の電車までには30分もある。駅前は広い広場とタクシー乗り場がある位で何もない。この町は海岸とマリンタワーとカネフクの明太子パーク、それにアクアワールドの水族館で持っているようなものだから、駅前に何もなくても、乗客は直ぐその目的の場所へ行ってしまう。それに今時電車でなどでやって来る人は希少人種で、殆どは車でさっと来て、車でさっと帰っていくのだろう。 この臨海鹿島線が高架鉄道になってからもう何年になるか知らないが、多分その時に一緒に作られた駅舎も、地方の田舎駅にしてはなかなか立派なもので、この線の大半の駅が無人駅であるのだが、ここと、この先の新鉾田駅には駅員が数名常駐している。しかし改札前の広い待合室も乗客は誰も居ず、がらんとしている。地元の人は出発時刻を心得ているから、その時間に合わせて来るのだろう。駅舎の中に1カ所あった軽食コーナーも、設備類は全部取り払われ、壁際のカウンターのみが、虚しく伸びていた。閉店してもう何年になるのだろう・・・、カウンターの上の埃の厚さからは何とも判断できなかった。 待合室の反対側には小さなキオスク様の店があり、小母さんが一人暇そうにしていた。中を覗いてみると地元大洗の土産物など置いてある。焼きハマグリの乾物とか、今問題になっているコウナゴ、イカナゴの佃煮、カライモのお菓子などなど。この閑散とした駅で1週間で一体どれ程の土産物が売れるのか分からないが、市の観光課とすれば、売れても売れなくても一定の地産品を置いておく必要もあるのだろう。 これ等土産物品よりか、より多くの棚を占領しているのはポッキーとか、カルビー、ポップコーンの類のスナック菓子で、通学に利用する中高生が、時間待ちの際に買って行くのだろう。今はキオスクと言う洒落た名前になっている駄菓子屋の小母さん、一体一日に幾らの売り上げがあるか知らないが、クーラー棚を見ると、ビールとかチューハイなども置いてある。先刻磯前神社で見たお神酒、月の井があるかどうか聞いたところ、別の棚のお酒のお土産コーナーで常温で置いてあった。それを取って、220円払おうとすると、小母さん「暖かいのもありますよ」と。少しぬる燗だったが、温まる。 月の井。初めて飲む酒だが、少し粗野。今、地方の銘酒もかなり都会化されて、まろやかなやや角の取れた味わいになっているが、この酒はなお地方の田舎風の刺激の強い舌触りを保っている。悪くはない。しかしつまみも無しにあと1合飲む気にもならず、そう、水戸に戻ったら、「水戸のしずく」を飲むことにしよう。今日は時間はゆっくりある。久しぶりの水戸だ。もう水戸のお酒の味も忘れてしまったが・・・。 < 春の午後 磯辺を歩く 大洗 > 水戸駅南口。この15年、荒れ地に過ぎなかった南口が大いに開発されている。
南口から伸びる中央街路。ここには市役所、県庁なども移ってきている。
南口の改札へ向かう通路など、新宿とさして変わらない。
北口、中心街路にある中央郵局の時計塔。2時43分で時計は止まっている。 (昼間撮影)
北口、芸文会館ビルの歩道など沈没している。
水戸城三の丸付近の街路。左手に裁判所があるが、阪神淡路大地震の際の神戸地裁の酷い損傷ぶりを思い出した。 銀杏坂の大銀杏。水戸大空襲に生き延び、今にある。
880円の刺身盛りは安い!の一語。
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大洗海岸からは磯前神社へ真っ直ぐ、垂直に近い石段が登って行く。
神磯の鳥居が海の中に立っている。
神磯鳥居の磐座。伝承によれば嘗て大国主命と少彦名はこの場所から上陸した。
海の灯台と荒磯。
晴天なれど太平洋の波高し。
浜のさざれ石も巖となりて・・
海岸を走る、と言ってもジョギングではないし、ドライブでもない。自転車で走る、サイクリングである。大洗駅で借りたレンタサイクル、5時までに返却する必要があるが、まだ時間は1時間半程残っている。天気も良いし、風もそれ程強くはない。であれば、この大洗海岸、海浜公園に沿って那珂川まで伸びるドライブウエイを川まで走ってみよう。
磯前神社に奉納されていた軍艦「那珂」の石碑。数ある軍艦の中で川の名前を採用されているのは数艦しかない。「信濃」「那智」「浜田」「大淀」・・、余り思い浮かばないが、その一つ「那珂川」に敬意を表し、川まで行ってみよう。 神社の前の大洗ホテルの裏手に回って磯に出て、先ずその急な参道に向かって参拝し、続いて、磯の大岩の上に立つ鳥居「神磯鳥居」を遥拝。磯辺に降りて波打ち際まで行き、大きな巖の塊を写真に収め、又、幾つかの小石を拾い、サイクリングを開始する。 土地の人に聞くと、大洗漁港の方は高波で酷くやられたが、この辺りには津波もやって来ず、全く被害は無かったとのこと。僅かに2−3キロしか離れていないが、海の地形によって、波が高くなったりもするのだろう。知人の一人が丁度震災の日、仕事で大洗まで来ていて大地震が発生し、命からがら海岸線から離れたのは良かったが、置いたままの資材を波に浚われ、数百万の損害を出しているが、全くの不運としか言いようがない。いや、命が助かり、いずれそれ等の経済損失は挽回できると思えば、九死に一生を得た幸運ごとだったのかも知れない。3万人近くの犠牲者出た今回の大震災、亡くなられた人々には誠にお気の毒であり、不運の一語しかないが、この災害から難を逃れた人々は、他生を生きる義務があるかも知れない。 数キロにも及ぶ海浜公園。まだ春浅きウイークデー、車で来ている人も一人二人、浜辺に降りている人影も見えない。真夏には海水浴客、サーファー、モーターボート等で賑わうこの海浜も、震災の悲しみに沈んでいるようだ。浜辺の北端にはアクアワールドの大きな駐車場もあるが、駐車している車も数台程度。今はまだ遊び歩く気分にもなれないのかも知れない。浜に打ち上げる太平洋の大波、潮騒のみが響いていた。 アクアワールドを通り越し、那珂川に架かる海門橋まで出る。川の向こうは那珂湊。今は勝田と合併し、ひたちなか市とひらがな名の市名になっている。誰が考えたのか胡乱なことだ。常陸那珂(日立那珂)という立派な漢字があるのに・・。 橋のたもと、天妃神社の茂みの陰から涸沼(ひぬま)川が那珂川に合流する辺り、三角形を形作る中州を眺め、大洗駅に帰る。この海と川と松林、古くは中臣がこの地から旅立つ前見たであろう地形、常陸の大掾佐竹氏やその後の黄門さんも歩いたであろうこの海辺の道を駅に引き返した。今はサンフラワーの乗客が船上からこの松林を眺めているのかも知れない・・・ < 磯の風 浜辺に立つや 太平洋 > 荒磯の先、那珂川に向かう。
海浜公園の穏やかなドライブウエイ。夏場と違って車も殆ど通っていない。
遠方に見える那珂湊。手前の左手にはアクアワールドがあるが、駐車場には車も殆ど止まっていない。
那珂川に架かる海門橋。向こう側は旧那珂湊。 那珂川と那珂湊漁港。
旧那珂湊の町。
涸沼(ひぬま)川と那珂川が合流する地点。
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