タイ語の勉強 & 山と旅と俳句

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Refinedタイ・ラオスの旅

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ワット・アルン。「暁の寺」。七色の瑠璃で出来たワットは朝日に輝いている。
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ワットはどこまでも高く、天に向って競り上がっている。
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ワットポーの寝釈迦はどこまでも大きく巨大で、末永く金色に輝いている。
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寝釈迦の平和な顔に人々は癒される。
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ワット・プラケオ。エメラルド仏寺院。王宮寺院の落ち着いた気品がある。
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5月9日(水)、帰国 ・・・・「タイよ再び」

朝3時、モーニングコールに起こされるまでもなく、早くから目が覚め、昨夜のうちに予約しておいたタクシーに乗り込む。バンコク26時。街はまだ寝静まらない。いつか行ったシールム通りの外れにある中国寺院วัดทัวลำโพง(ワット・フアランポン) は、まだこの時間でも煌々と明かりをつけ、多くの参詣者を集めている。夜の仕事を終えてからお参りに来ているのだろうか、朝早くの出勤前に来ているのだろうか。夜の無い街。

新しく出来た空港は光の渦の中にあった。広大な敷地の果てまで光の列が連なっている。これは空港の機能美と言うより、光の芸術だ。無数の光が我を見送ってくれているようだ。数年前、桂林の夜の街を歩いたが、街中がイルミネーションに飾られ、世の中にこんな美しい町もあったのかと感動したが、今のこのスナームバーム空港は、桂林以上の広がりと色彩を持っている。タイのホスピタリテイーはこんなところにも隠されていたのか。

タイに於いておや、24時間開業の空港は成田より大きく、明るく、機能的で、この光の饗宴は偶然の造形かも知れないが、何という美しさだろう。空港の芸術性の高さはスコータイの芸術性の高さを継承するものであり、現代の磯崎新にも通ずるものだった。
タイには又来よう。又来なければならない。


 < สวัสดีครับ ไว้เจอกันใหม่ ชาโยนารา >  
         
 <Sawasdee Krap Waichaokanmai Sayonara>
 
 <サワデークラップ 又来る日まで さようなら>




   <終章>  「タイとタイ人、タイ語のあれこれ」

松尾芭蕉は憧れの松島を見て、「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだとか詠まなかったとか。史実が無いので真偽のほどは定かではないが、松島を見て感動の余り、俳句を作るのを忘れてついこの様に口走ったとも喧伝されている。

2週間の旅を終え、自分にとってのタイは将にこの芭蕉が詠んだとすれば松島への憧憬に近いものであり、タイがあってタイしかない。タイ、タイ、来タイ、また来タイ、行きタイ、タイへ、またタイへ、の心境かも知れない。

タイには色々な魅力があるが、微笑みの国、人々の優しさ、大らかさ。何百年にも亙る人種の混淆は人を陶冶する。タイ人の優しさは犬にまで伝染している。奥深いタイ。アジアの珠玉。仏に守られた人々。小鳥のさえずりのような言葉。

固陋なタイ語を覚えるのは大変であるが、掌中の壺とすれば、仲間同然。垣根を高くし、部外者の仲間入りを拒んでいるが、一旦入り込めば、こんな居心地のいい言葉もない。大体がこの装飾的な文字は我々日本人がとうの昔に忘れ去った「言の葉」を思い起こさせ、法律用語・契約言葉とは全く違う次元の、人と人の心の通信として今にある。同じ言葉、「クライ」が「近い」の意味であり、同時に「遠い」の意味でもある。「ヤー(ク)」が「したい」であり、「ヤー」が「してはならない」である。

全く違う意味にとってもいいじゃないですか。人の一生、振り返ってみればどっちでもいい、どうでも良いことばかり。この紀行文にしてもそう。読む人がいないと分っていても書き続ける無意味な行為。自己満足だけであってもいい。旅の思い出は心の裡に仕舞っておこう。

タイ語はそんな人間の愚かしさを越えて、生の、裸の人間を伝え、教えているようだった。

Viva Thai, オーパ! 人間回復。 タイ、タイ人よありがとう。

Again, ขอบคุณ ครับ !(コープクン・クラップ!) 

 さようなら、また来る日まで。
                     


地方の町の市場の付近で。
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離宮、バンパインの美しさは何ものにもたとえようが無い。
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アユタヤの廃墟は今に残っている。
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下町に突っ立つバイヨークスカイホテル。危なっかしくも見えるが、地震の無いタイなればこそ。
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母なる川、メーナーム、メー・チャオプラヤー。
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「戦場に架ける橋」カンチャナブリに向う列車には、タイ人観光客も多く同乗している。
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今将に「戦場に架ける橋」からその下を流れているクワイ川を見る。
どこからかクワイ川マーチが耳朶に響いてくるような。工事中の橋から落ちる兵隊、反抗的な英兵等々、映画の一シーンが蘇る。
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今は河岸には観光客目当てのレストラン、土産物屋等が多く見られる。
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「戦場に架ける橋」は既にご存知の通り、今から66年前の大東亜戦争時、当時の日本軍(南方総軍)がタイとビルマ(現マンミャー)との間に鉄道敷設工事を行い、近年「クワイ川マーチ」の題名で映画にもなった橋であるが、その難工事では多くの人命が失われ、別名「死の鉄道」(Death Railway)とも呼ばれている。

それは単純にクワイ川に橋を架けるというより、クワイ川の懸崖を削り、そこに橋を懸ける難工事であったが、工事の困難さに加え、衛生状態も悪く、英蘭豪を主軸とする連合軍捕虜、その他現地採用作業員等総計約6万人の内8700余命の犠牲の上に僅か1年弱の突貫工事で完成したものである。

朝タクシーでチャオプラヤー川を渡った先のバンコク・ノイ駅まで行くが、川向こうでもどこでも朝の渋滞は変わらない。近代化から取り残されたようなゴミゴミした古い町並みをようやく通り抜け駅に着くと、列車は今しも発車間際。 

駅員も心得たもので、当方を日本人と認めると、列車の発車を待たせてくれている。外人は別料金の運賃で、一律100バーツ。その代わりタイ国鉄の発行した泰緬鉄道建設のガイドブックを配布してくれる。このブックには建設当時のセピア色をした写真も添付され、60数年前の実像が眼前に彷彿する。

そうそう、この鉄道の正式名称は「泰緬鉄道」で、それは取りも直さず、タイを表わす泰国とビルマを現す緬甸(ミャンマー)の最初の頭文字を採ったもので、戦前は国名をこの様に漢字表記していた。ビルマは英国植民地の呼び名で、日本陸軍は元からある名前のミャンマーの漢字表記の頭文字を採ったもので、ポーズだけは現地主義の体裁を取っていた。

ちなみにアメリカは亜米利加、この米の字を取って略して米国。中国語では米の部分が美に代わっているので、略して美国。バンコク市内で中国人商店の看板を良く見かけるが、その中で美國との表示があったらアメリカ製とかアメリカ輸入等のアメリカ関連と判断して間違いない。

上の例の英蘭豪の蘭は和蘭の省略名、オランダのことで、略して蘭印と言うとオランダ領インド、即ちインドネシアを指していた。尚、英印は本当のインドのこと、仏印は現在のインドシナ諸国のことである。英語表記が禁じられた戦前の学生は苦労したに違いない。

「泰緬」から始まって随分とあらぬ方向に脱線してしまったが、こうした戦前の漢字表記を見ていると、アジア諸国が如何に欧米列強に支配されていたかが自ずと理解でき、日本陸軍が八紘一宇の御旗の下、アジア植民地の解放を目指していた背景事情もある程度は理解できるものだった。

さてタイ国鉄はイギリス、日本と同じ様に狭軌で、いつバラバラになってもおかしく無いような古い車輌を今でも大事に使用しているが、この車輌がよもや戦前からのものとは思えないが、列車の中で車窓に広がる椰子の並木を眺めながら、戦前のこもごもを想起し、この鉄道建設に携わった当時の日本軍人、技術者、連合軍捕虜、タイ・マレーシア・中国人労働者、沿線住民、シンガポールの、当時昭南市と呼んでいたが、南方総軍本部の慌しさ、この鉄道の先、ビルマ・ミートチナでの白骨街道の悲劇、牟田口廉也、隷下師団・連隊総計3万2千名の死、無謀な戦い、ビルマの竪琴、それ等こもごもは列車の後方に流れ、今は平和な田園風景の中で一際背の高い椰子の林、北部地方では余り見られなかった椰子の揺らぎに現実に戻り、平和の有り難さを再認識した。

日本の兵隊さんもこの鉄道に乗り、今と同じ様に南国のシンボル・椰子の林を眺め、死との背中合わせの中、遠く故郷を思い、郷愁に駈られたに違いない。

単線で交互に車輌の交換をするため待ち合わせが多く、カンチャナブリまで4時間も掛かったが、長閑な田園風景と各駅でのタイ語表示の駅名案内に興味を覚え、苦労して読めた時などは学生に戻った時のような気分で嬉しさに浸り、時々車内販売に廻ってくる売り子につたないタイ語で話しかけ、「コーク」、「CocaCola」は世界共通のトレードマークであって、味も世界共通、冷房の付いていない車内ではより一層冷たく感じられ、悲喜こもごもの想念を乗せ列車は駅に着いた。多くの乗客がこの駅で降りたが、まだ半数は乗ったままである。

回ってきた車掌に聞くと、クワイ川はまだこの先で、このキップで終点のナムトク(大滝)まで行けるとのこと。列車は十数分カンチャナブリ駅に停車した後、再び動き出す。

ここから先が所謂アドベンチャー・トレイン。4輌編成の乗客はほぼ全員が観光客。タイ人の団体観光客も多い。駅を出ると直ぐに川に差し掛かり、鉄橋をゆっくり通過する。鉄橋の上を歩いている外人客もいて、鉄橋上の退避スペースにかたまって列車の通過を眺めている。

眼下には赤茶けた濁流。大半のタイの河川は平野部を流れているので流れは穏やかであるが、このクワイは山間部を流れ、今橋のかかるこの付近はやや峡谷になっていて、流れも速い。それでも河岸には観光客目当てのフローテイング・レストランとか、土産物屋の建物が椰子の木陰に並んでいる。如何にも観光地の風情。

更に進むと、峡谷の岩肌を削り取った、崖とのギリギリのスペースに架橋してあり、列車は揺れないようにゆっくり走る。手を伸ばして岩肌の感触を掴むことも出来る程のギリギリ。木製の橋の筋交いの1本でも折れたら、それこそ列車は50−60m下の濁流に真っ逆さま。

60数年前の技術でよくぞまあこんな難工事をしたものとあきれる。一体何人の作業員が足場を踏み外し、この濁流に飲み込まれて行ったのか、岩肌には60数年前の掘削の跡が残っていて、少し触ると当時のざわめきが伝わってくるようだった。

川を過ぎると列車は再び草原の中をゆっくりゆっくり前進する。小さな無人駅が幾つかあり、観光客の多くは下車し、駅前に待ち構えた観光バスに乗る移り、どこかへ走り去って行く。改めてガイドブックを調べると、ここにもサイの字の付いた駅名もある。「.miFp8」、「サイヨク」。

先日「サイガーム」を辞書で調べたら、「最も美しく均整の取れたガジュマル、バンヤントリー」と出ていた。そうするとこの駅は、良く茂る(ヨク)、ガジュマル(サイ)のある駅、という意味だろう。日本にも「青梅」「柿生」「美女木」などの駅名があり、自然の状景を駅名にするのは日本人もタイ人も、いや人間共通の慣わしかも知れない。

列車はようやく昼過ぎに終点のナムトク(ohe9d)に到着。このナムは川を意味する「メー・ナム」のナムと同じで、水のこと。トクは、雨が降るの「フォン・トク」のトク、降る(落ちる)意味で、二つ合わせて、「水が降る(落ちる)」、即ち「滝」のことである。

駅から更に5−6人乗りのミニバスに乗り換え、約10分、山懐に囲まれたナムトクに到着する。ナムトク前は大きな駐車場を兼ねた広場になっているが、今はオフシーズンなのか駐車している車も少ない。広場の前に2−3軒の食堂と5−6軒の土産物屋があり、その内の比較的清潔そうな食堂に入り、写真で選んだ地元料理を食べる。いや地元料理と言っても、バンコクの食堂で食べると同じ様な炒め物ではあったが。

高さ30−40mの幅広の滝は樹林の中にあり、一帯は自然公園として綺麗に整備されている。クワイ鉄橋(建設当時は木橋)を見学に来る観光客は多いが、ここまでやってくる人は少なく、公園の中に人影は少ない。山の端で海抜もあり、木陰になっていて気持ちが良い。浅い滝つぼでは何人かの子供達、親子連れもいて、水遊びをしている。自然の中での沐浴。ルノワールの世界。

水に触れると、メコンのよりは冷たく、新鮮であった。
今は平和が戻り、親子・家族ともども水浴びに興ずる。この平和をいつまでも大切にしたい。

< ナムトク(ohe9d・大滝)に 親子の遊ぶ 平和なり >

広場の土産物屋では大きなナベで何か揚げ物を揚げている。見たところケンピの様な感じで、つまむと正しく芋ケンピ。3山100バーツで少し嵩張るがタイ語サークルの皆さんには喜ばれるに違いない。

30分置きにやってくるローカルバスを待ち、一旦カンチャナブリまで出て、そこで高速バスに乗り換えてバンコクに帰る。カンチャナブリは三鷹の留学生ガム君の出身地で、立ち寄ってみたい気もあったが時間がない。途中のナコン・パトムには世界最大の仏塔があり、最初に仏教が伝来した町、それは紀元前150年のことと伝えられているが、これも又次の機会に取っておこう。

列車で来た時は無人駅に近いところが多く、駅前も閑散としていたが、帰りのバスは人口の多い場所を選んで走っていて、国道沿いはどこも人で溢れている。タイ人の大らかさ、今日もまた入れ替わり立ち代りの切符切り。途中で止めて客を乗せ、途中で止めて下ろしたり。人々が生きている。今に生きている。

今日もまた夕方のラッシュに引っ掛かってしまったが、もうすることは無い。ゆっくりホテルに戻るだけだ。チャオプラヤーを渡り、王宮前広場を横断し、首都高速に乗り、6時ホテルに帰館する。タイ最後の一日、心に残るエクスカーション、いい一日だった。Dee Chai.

夜、夕食を兼ねて中華街に出る。果物のお土産は中華街に限る。いろんな種類の果物が売られていて、マンゴー、パパイヤ、ランプータン、タマリンド、等々を買う。後は明日帰国するだけだ。

リュックに入らなければ手提げで持ち帰ることも出来る。中華街の中ほど、1軒のレストランに入り、今次タイ旅行の最終〆めを行う。よくよく見ると今年のお正月にも来た店だ。マスターは気が付いていないかも知れないが、日本人がタイのバンコクの中華街で中華料理を食べている。ビールのチャーンも美味しい。あと1本追加しよう。

サヌーク マーク! lo6d ,kd !  旅は面白い! 世界は広い!



この列車の終点、ナムトク駅から更に乗り合いソンテウに乗って15分、山の中に滝「ナムトク」がある。
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水量も高さもそれ程ではないが、平原の多いタイでは滝は珍しい。
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滝壺で遊ぶ子供達。日本の田舎と変わらない、タイの長閑な光景だ。
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夜のスクインビット。セントラルワールドの前。
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5月7日 (月)、シーロム通り(5oolu[,)、パッポン・タニヤ(ry<,Nr:KN・Toupt)

夕方バスは渋滞の中、漸くにしてバンコク北ターミナルに到着する。午前中をコラートの旧市街観光に充て、ツクツクでホテルに戻る途中、昨夜のロテイサイマイの店に寄って、タイ語サークルの皆さんへのお土産を買い、ホテルでリュックをピックアップして、その足で高速バスに乗ったが、バンコク着は夕方になってしまった。

途中風光明媚な湖の手前の町で昼過ぎになり、何人かの売り子がバスの中に入ってきて、お昼のサンドイッチ、万頭、焼きそば、焼きもろこし等の売り込みをはじめ、他の客同様当方もジュースと肉まんを買い、バスは高地から下るが如くに外気の蒸し暑さを感じ、途中バンコクの手前にきて、バスの故障で一旦荷物を全部外に出し、次にやってくるバスに乗せ換え、客も一緒に乗り移り、超満員の車内では三人掛けも辞さず、漸くにして夕方の殺人的ラッシュに見舞われているバンコクに到着したものである。

案の定ツクツクの呼び子がやってきて、このターミナルは市内から30キロも離れた場所にあるから500バーツだと吹っかけてくる。当方壷を得た形で300バーツと応ずると、300ならモーターサイだと言ってくる。一昨日のバイク乗車には懲りているので、交渉を諦め、道路を走行中のタクシーを拾い、今晩の宿泊先ホテル、マノーラに向う。殺人ラッシュはどうにもならない。バスも車も一向に動かない。タクシーメーターのみがどんどん上がる。これが朝夕2回の年中行事。道路は幅広で、かなり整備されているので、矢張り車の絶対数が多いのだ。どうにかならないものか。ロンドンのように入市税を取れば、随分と改善されるだろうが、この地獄の渋滞を解消するためには高額な税を取る位しか解決方法はなさそうだ。

結局ホテルまでは本来なら200バーツ以下で行けるところ250バーツ掛かったが、それでも雲助ツクツクよりは大幅に安く、大満足。ホテルはシーロム通りの1本隣のスラウオン通りにあり、古くて名前は通っているが、古いなりに三流で、約3000円の値段相応の内容だった。チェックインし、2週間前のネパール人テイラーJimmyに電話し、部屋で待っていると30分もかからずにタクシーでやって来た。2週間前のニコニコした顔を見せ、ジャケット、ズボンを渡される。早いもの、もう2週間経って、残すところ今日、明日の二日のみ。何か有終を期待するがそれも無さそうだ。

バンコクへ過去2回来ているが、有名な夜の日本人街パッポン、タニヤにはまだ行っていない。このホテルからは歩いていける距離で夕食を兼ねて出かける。

ホテルを出た途端、「社長、シャチョウ」の呼び込みが激しい。この辺り、シーロムの最高級ホテルを初めとして日本人客が多いのだろう。当方、それ程お金も持っていないので、無視して歩き続ける。パッポンの夜店通りは大勢の客が屋台の品を覗いていたが、何か余りにも観光地化したような雰囲気で、通りの中までは入らず、その隣の小路、タイ語の「ソイ」タニヤに行く。ここも又、日本のクラブ、カラオケ、飲み屋、料亭の看板だらけで、銀座の裏通り位の賑やかさだ。日本語の看板の割には日本人をそれ程見かけず、外人、タイ人の方が多い。呼び込みが煩く、振り払っても次から次にやってくる。卑俗で卑猥な雰囲気は好きになれない。

タニヤ通りの出口のところまで来て、シーロムと交差するレストランのテラスにてビール及びシーフードを食べる。目の前を通る通行人を眺め食事するが、こんなところには一人で来ている人は余りいない。自分にはカオサンの雰囲気の方が合っているような気がした。ここではなく、カオサンへ行けば良かったか。人のよいネパール人と話し、チェンライからの芸能グループを冷やかすのがいい。

再びタニヤの小路を抜け、約15分の道のりをホテルまで戻る。このホテルにも小さなプールが付いてはいるが、フロントの直ぐ傍の衆人環視の場所にあり、むさくるしい裸体を晒すのに気が引け、泳ぐのは止めにする。


バンコクの夜のはではでしさ、にぎにぎしさは東京以上。
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バンコク25時の夜がこれから始まる。
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コラートの旧市街にはいまでも城郭の一部が外壁として残されている.
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  <閑話休題>  「守るべきもの・城塞都市と城郭」

アユタヤ、スコータイ、チェンマイ、コラート等の古い都市にはかつての城壁、城門の一部が今でも現存している。町は全体を城壁で囲われ、その外側は掘割を穿ち、外敵からの侵入に備えていた。町の中心にはワット、寺院が更に二重、三重の城壁で守られていた。この城塞都市の形態はタイではごく普通であるが、この様な形態はタイに限らず、中国、中近東、ヨーロッパ等大陸国では一般的である。

為政者は外敵から住民を守り、且つその町の最も重要とするものを町の中心に据え、最後の守りとする。その国、或いは地方の政体によって異なるが、中国ではそれが皇帝の住まい、皇宮であったり、中近東の王宮とハーレム、ヨーロッパの市民共和国家では市役所、議会であったりする。タイでは町の中心に位置しているものはその町の守護寺院である。人々は為政者と供に仏教を奉じ、寺院を最大に価値あるものとして守り奉っている。

日本の場合、この様な城塞都市は全く見られない。古代には吉野ヶ里、三内丸山遺跡のように集落全体を囲う柵状も作られたりしたが、古墳時代になって廃れてしまった。奈良時代になって一時唐制を真似て平城京が作られたりしたが、それも長くは続かなかった。そして戦国時代前期の山城の時代を経て、戦国期の見事なお城に発展して行った。見事なお城は中世のヨーロッパの封建時代にも見られることであり、日本と共通している。

結局この様な違いはどこから来ているかと思うに、戦闘集団の一般住民からの分離、専業化にあり、ヨーロッパの騎士、日本の武士のように戦いを職業とし、生活の糧とした結果、戦いに明け暮れる毎日の中で相手集団の指揮者のトップの首を得ることに最大主眼が置かれ、結果この様なより堅固で打ち負かされない城郭が生まれてきたものと思われる。従って町全体を守るという意識は希薄で、住民そっちのけでの相手集団との勝ち負けを争った結果、城塞を必要としないで、要塞、即ち城郭のみが発達したものと思われる。

タイでの場合、山田長政のような職業軍人は当然にいたが、軍人は王族を守ると同時に仏教、寺院、仏陀を守る責務を負わされていたに違いない。又、住民も兵隊と一緒になって仏教を守護してきたに違いない。町の城壁が破れても、最後の砦、仏教寺院が犯されない限り、戦争に負けたことにはならず、人々は必死の思いで、守り続けてきた。

今現在バンコクのワット・プラ・ケオ、王宮寺院に安置されているエメラルド仏は数奇な運命を辿り、現在の場所に奉じられているが、それ以前には戦乱の混乱の中をスコータイ、チェンマイと避難し、人々に守り続けられ、最後はエメラルド寺院に奉安されているものである。

前回旅行で訪問したアユタヤの遺跡では多数の石仏の首が取られた無惨な姿が炎天下に晒されていたが、ビルマとの長年の戦争の最中、ビルマ軍がアユタヤ軍の戦意を喪失させる究極の手段として行われたことであり、これを契機としてアユタヤ王朝は滅んでしまったのである。

そう、タイの人々が守るべきものは、王宮ではなくして仏陀の納まる寺院であり、そこが守護されるか否かに最大の価値があり、戦いを帰趨するものだった。

城塞都市は為政者が住民を守るとともに、住民が自らと寺院を守る役割を果たしており、日本で言えば、門徒衆にやや似た感覚のものだった。

戦国・封建時代が終わり、日本の城主は既に存在せず、お城は単に観光施設になっている現在の日本の状況と比べると、タイの人々が守り続けてきた仏法僧は今尚命脈を保ち、アユタヤもスコータイもピマーイも今は既に廃墟になってはいるが、仏像は他の場所に安置されて人々の生活の中に脈々と定着している。長く深く根を張った信仰はこの先も人々に密着し尊崇され続けるであろう。

処で話は全く変わるが、沖縄も城塞ではなく城郭、グスクである。石組みの城、グスクの高度な曲線美は黒船艦隊ペリー提督の目を引いたが、この築城技術は中国からもたらされたものである。朝廷(尚王朝)や文物その他色々な面での中国、明・清からの影響が多く、長い間沖縄人の祖先は中国系か倭人系かの論争もあったが、現在ではDNA,ミトコンドリア等の科学的検証の結果、それ程遠くない昔に倭人より枝分かれした一支族、即ち日本民族の中の一地方県民であることが確認されている。

この沖縄の城郭は築城の技術は中国流であるが、基本の考えは日本流であり、日本のお城と同じである。従って尚家が沖縄を統一する以前、各地にあった城郭は尚王家に破られると同時に廃墟となり、唯一、尚王家の居住する首里城が残ったものである。

住民とは関係ないところでの武闘集団の戦いの結果であり、沖縄にはアユタヤ、スコータイ、ピマーイのような廃墟となった町はなく、勿論日本にもない。和風に沖縄と呼び、中国風に琉球と呼ぶのはよいとしても、城と住民を守る基本の考え、住民が守るべきものは何か、の基本的スタンスは沖縄と大和は同じであり、中国―タイとは異なったものである。

タイに於いて1000年も昔から守り続けられてきた仏法僧、タイ人は何を守るべきかが分っており、この先も守り続けていく。戦乱の終焉した現在、城塞を積み上げる必要はもう既に無くなったが、心の宝は大切に持ち続けるに違いない。タイの真髄は何かを問われた際、優しさ、ホスピタリテイーはあるかも知れないが、この仏を敬う心は絶対に欠かせてはならないものである。

各都市の遺跡を巡り、各旧都の城塞、城門を眺め、更にまたその中の各寺院を参詣するごとに、タイ人の心、真髄が分ってくるような気がした。


人々は仏教的な行事には熱心に、積極的に参加している。
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コラートの英雄(女傑)タオ・スラナリ。今から280年前、攻めて来たラオス軍を破り、コラートの町を守った。
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翌朝はバンコクへ旅立つ前、コラート旧市街を観光する。このホテル「ボート」は宿泊料450バーツで平均的だが、朝食バイキングが200バーツで、宿泊代の半分近い料金を取る。7時頃レストランに下りたが、客は誰もおらず、ウェイターが所在なげにしている。

ホテル自体も泊り客が少な目だったが、朝食代がこれだけ高いと、客は敬遠するだろう。誰も箸をつけていないまっさらな皿から思いのままタイ料理を盛るが、どこのホテルも似たようなもので、そんなに食は進まない。定番のスイカとパイナップルに加え、ぶどうとパパイヤをデザートに食べ、街に出る。

市の中心、タオ・スラナリ像前広場は、今日、5月7日は祭日なのか朝からざわついている。像の前に祭壇を設け、人々は鳥の丸焼き、大盛りのバナナ、大皿のチャーハン、果物籠、その他の食べ物を持ち寄って、お祈りを捧げている。

お祈りが済むと人々は像の前に座し、像に何かを語りかけているかの如く、何かを追想しているかの如く、静かな時を過ごしていた。

像の隣では、臨時売店が生まれ年の守護神の仏像、金縁の印刷額と金のお守りを売っていて、黒山の人を集めている。仏像は日本でもおなじみの十二神将のようだ。値段を見ると仏像、お守りの大きさによって500バーツから2000バーツ位。誰も値段交渉などせず公定価格で買っている。多少高くても値引などせず、喜捨の気持ちで買っているのだろう。

そのうち広場に赤いカーペットが敷かれ、大勢の警察官が交通整理を始める。制服に身を固めた地方行政府の高官がそれぞれ高級車に乗ってやってくる。高僧などもやってくる。政府高官は恭しく高僧と談笑している。制服姿の高官が5−6人集まったところで、祭壇の前に立ち、長い長いお経(と思われる)が開始される。炎天下の中、1時間以上もの長い間経文が唱えられている。

制服を見たところ行政府の高官というより、軍人のようで、陸・海・空・海兵の4軍プラス、警察・消防と言った感じ。経文を唱えているのもお坊さんではなく、制服の一人。勿論文書を見ながらの読み上げであるが、発声、イントネーションといい、お坊さんそっくりで、良くこれだけの長文を覚えきれるものと感心する。普段からの生活習慣が身についているのだろう。他の制服組も直立不動で、身じろぎもしていない。

確かこの日の夕方、テレビ放映で流れていたのを見たが、タイ海軍の巡視艇か艦船の進水式がバンコク港で行われ、プミポン国王夫妻も列席していて、炎天の下、長時間も続く儀式にタイの古風と伝統を見る思いもしたが、一方で余りの形式主義に行政に弊害が出ないかとも他所ごとながら心配もし、今朝のこの儀式は進水式程の大々的格式は無いものの、全く同じ様な形式だと思った。

コラートは歴史のある古い町で、かつて旧市街は城壁、城門で囲われていた。その一部が現在もタオ・スラナリ像の後ろに残っている。チェンマイと同じ様に掘割は今でも市街地を巡っていて、市民に涼感を与えている。

堀の中を見ると、大小さまざまな淡水魚が群れを成している。金魚、フナ、鯉、尻尾が途中で切れたような雷魚、亀もいる。百花繚乱と言うか、万物共棲、ありとあらゆる淡水魚が入り混じって泳いでいる。こんな光景は日本ではまず見られない。遠くで釣りをしている人も一人、二人いるがごく少数。釣りが禁止されていなけば、日本なら大勢の釣り人がやってきて、瞬く間に魚はいなくなるだろう。

敬虔な仏教徒の多いタイでは禁止されていなくても、釣りをする人などいない。どんなに貧しくても堀の魚は獲らない。先刻の釣り人は例外だ。警察官も誰も彼を無視している。仏教徒ではないのだろう。

昨日のサイガームでの金魚の放流といい、今日の掘割の多種多様な魚の多さといい、日本人とタイ人の生き物に対する考え方の違いをまざまざと見せ付けられる思いがした。タオ・スリナリの前に戻ってくると、式典はまだまだ続けられていた。

  < 掘割に 雷魚もいます 古き町 >



5月7日、何かの儀式なのか、正装した軍人、町の高官などが僧侶を押し頂き、式典を始めている。
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市内の警備に当る警察官。
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