タイ語の勉強 & 山と旅と俳句

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ベトナム・フエのザビエル教会について;
ラモン・ビラロ著「侍とキリスト」―ザビエル日本航海記―を読んで。
 
 
ベトナムの古都フエにはザビエルの名前を冠した教会が建てられていた。
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こんなところでザビエルに接するとは! 彼は、この地、ベトナムでも布教活動していたのか??
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ダナンの大聖堂。ベトナムは旧フランス植民地。案外キリスト教徒も多い。
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サイゴン大教会。旧フランス植民地だけあって、ベトナムはカトリックが多い。
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今年のお正月ベトナムを旅行した際、古都フエでザビエルの名前を冠した教会を見、ああ、ザビエルは日本へ来る前に、このフエにも立ち寄っていたのか、いや待てよ、日本を出国した後、次にこの辺りで布教活動していたのか、等々いろいろな想像が渦巻いたが、今回ラモン・ピラロ氏の書かれた「侍とキリスト」(ザビエル日本航海記)を読むことにより、ザビエルについての理解は多少なりとも増したものだった。

この本を読む前の大雑把な知識と言えば、ザビエルとその師ロヨラは共にバスク出身者で、リスボン、その後パリに伝道師会イエズス会を設立し、イグナチウス・ロヨラが本部の創始者(主宰)であり、フランシスコ・ザビエルが先兵隊役の宣教師としてアジア各国の布教に努めた。後年、と言っても明治になってからだが、東京四谷にイエズス会により上智大学が設立され、その敷地の中には四ツ谷駅前からも見える赤茶色のゴシック調のイグナチウス教会が建てられているという程度だった。

だからこの本を読めば、ザビエルがリスボンを出港して以降の日本へ来るまでの、或いはその後の行動が判明するか、即ち日本への行き帰りに寄った国々の中にベトナムもあるか、などと思って読み進んでいったが、この著書の副題にもある通り、内容は彼の「日本航海記」であり、彼が鹿児島に上陸してから大分を最後に日本から立ち去るまでの、ほぼ2年3カ月の日本に於ける行状記であった。従ってザビエルがベトナムの地でも布教に努めたか否はこの著書の中からは尚不明であるが、フエで彼の名を冠したあのような立派な教会が作られているからには、歴史的にも彼の足跡があったものと思わざるを得ない。

著書の中でザビエルはインドのゴアからマドラス、マラッカを経て、一度インドネシアのモルッカ島(マルク諸島)へ渡ったが、その後、中国広東沖の上川島(後のマカオ近郊)で風待ちし、1949年8月15日、最初のキリスト教宣教師として鹿児島の地に上陸した。ポルトガル人が種子島に漂着した1543年から僅か6年後のことであり、彼が35歳の誕生日にリスボンを出港した1541年4月からは実に8年後のことだった。

彼がリスボンを出てから来日するまで、何故にこのような長期間を有したか。それは母国を出た時点での日本の知識と言ったら、マルコポーロの「東方見聞禄」の域を出ていないものであり、1492年以降、世界に帆路を広げたポルトガル船とはいえ、まだ日本への航路は発見されていなかった。従って、彼の出国時点では、そもそも日本にまで布教にくる、という発想はなく、主に、当時ポルトガルの植民地となっていたゴアを中心にしてのインド及びその周辺国に於ける布教が主目的であった。

ザビエルがリスボンを立ってから後、旅の先々からロヨラ、同僚、ポルトガル国王、バチカン法王、ゴア総督、等々へ幾多の手紙を送り、合計137通がザビエル書簡集として現在までに発見されている。これ等書簡は、「聖フランシスコ・ザビエル全書簡集」として、1994年平凡社より全4巻で出版されている(河野純徳訳)。これ等書簡を併せて読むと、
彼の行動の範囲はおぼろげながら判明でるが、しかしこの書簡集からしてもベトナムの地に於いて布教活動した、との明確な確認は得られなかった。又来日前の段階の書簡には、日本についても触れた内容は全く見当たらないものであり、そこにあるのは、現インドネシアの諸島、モルッカ等における布教活動に関わるものだけだった。

書簡等の記録を時系列で調べると、ザビエルはリスボンを立って鹿児島に上陸するまでの約8年間、その期間の大半の7年間は当時ゴアにあったキリスト教セミナリオを拠点に活動し、稀に東インドのモルッカ島(マルク諸島)、アンボン島(バンダ海)等に足を伸ばしていた程度のもので、途中マラッカに立ち寄ったりはしているが、ベトナムに関しての記載もなかった。尚、当時ゴアはザビエルの来航する数十年前からポルトガルの植民地になっていて、1530年に(来航の12年前)、それ以前の南西インドの港町コーチン(Kochi, Cochin)から、ここゴアに植民地の中心機能を移していたものであった。

ザビエルが日本に関心を持ったのは、来日する約1年前、マラッカに於いてポルトガル商人より日本のことを聞き、その後ゴアに帰ってからセミナリオにて日本人の弥次郎(パウロ)に会い、日本に関する強い関心を持つようになってからであり、ポルトガル人が日本の地、種子島に漂着してからまだ5年も経っていなかった。彼は弥次郎を通訳代わりに同行し、日本への布教を時のインド総督やマラッカ長官に強く願い出て、漸く実現したのは1549年6月になってからであり、それは鹿児島に上陸する僅か2か月前のことだった。

当時中国(明朝)は鎖国していて、外国船は中国の港に寄港することが出来ず、ザビエルを乗せてマラッカ(シンガポール近郊)から出帆したジャンクは難渋を極めたが、難船もせず、弥次郎と共に漸くにして鹿児島に入港したものであった。その後彼は日本に2年3カ月滞在し、離日後の1552年12月にマカオ近郊の上川島にて46歳で没した。日本を離れてから約1年後のことである。

ではどうしてあのような立派なザビエル教会がフエにあるのか? それとも後からイエズス会の誰かが、ザビエルの事績とは別に、単に彼の名前を借りる形で、この地に教会を建てたのだろうか・・・。それは丁度ロヨラの足跡とは関係なしに、東京の上智大学構内に彼の名前を冠した立派な教会が建てられているのと同じように・・・。

そこで考えられるのは、Cochinという地名であり、このCochinから出されたザビエルの書簡は複数あり、当初自分はこのCochinはポルトガルのインド政庁がゴアに移る前のインド・ケララ州の港湾都市であるコーチンと推定していたが、実際、この町はポルトガル人により「Little Lisbon」とも呼ばれていて、ザビエルはゴアからそれ程離れていないこの町とゴアとの間を行ったり来たりしている間に幾つかの書状を出状したものと推定していた。従って、ここでいうコーチンはベトナムではなく、ゴア近くのインドの港町と思っていた。

処で、この当時のベトナムは安南国と呼ばれていた。又別名「交趾支那」(コーチシナ)とも呼ばれていた。英語で表示するとCochin-China、略してCochin、Kochi(交趾)とも言われていた。これは南西インド・ケララ州のCochin(又はKochiと表示)と全く同じ表示である。何故こういうことになったかという背景の一つに、このCochinの町の由来、歴史等を調べて行くと、この港町自体がどうも中国人により開発され、中国語の魚網なども発見されているようである。

その背景として、明の鄭和が60数隻の大船団を組んで、総勢3万人近くの乗組員で中国泉州を出て、インド経由アフリカ東岸までの大航海をしてから既に150年も経っていて、このインド西岸の土地にその3万人から枝分かれした何百人かの中国人の足跡があったとしても何らおかしな話しでもなく、この港町の発展の経緯からして、ベトナム安南のCochin=Kochi(交趾)の名前が使われるようになった、と考えたとしても、あながちおかしなことではなく、従って元来のCochinという名称は、当時の外国人、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス人等にとっては、安南を意味するOriginalな地名として使用されていたかも知れない、と考えれば、ザビエルがCochinから出した20数通の手紙は、即ちベトナムからのものであり、フエにあれ程立派なザビエル教会が建立された理由も理解できるものと思われた。

しかしそれは無理な考えであることは書簡から判明する。ザビエルが離日した1551年11月16日から亡くなるまでの1552年12月3日までの約1年と数週間、書簡より彼の航跡を辿ると、彼は再びマカオ近郊の上川島に渡り、その後、ぺレイラ船長のサンタクルス号でマラッカに到着し、ゴアに向かう途中のコーチンでロヨラに手紙を送っている。それはこの時、マラッカに到着時に、待ちに待ったロヨラからの手紙を漸く受け取ったザビエルが、ロヨラに対し感謝の返信を認めた内容だったからである。

この経緯からすると、コーチンはマラッカとゴアとの途中の町でなければならず、それは即ちゴアの手前のケララ州のコーチンであり、マラッカから再びシャム湾、南支那海を逆行して、安南のコーチンに戻る、ということは殆ど考えられないことだった。

ゴアに到着したザビエルは、今度は中国への布教を目指し、春になってから再びサンタクルス号に乗り込み、シンガポール経由で上川島に到着したのだが、この時、ベトナムに立ち寄った可能性がないとは言えない。この前後の事情を書簡集で確かめると以下の通りであった。

即ち、大分を出た後の最初の書簡はコーチンからのもので、1月20日付のものと1月29日付のものであり、合計24通が残されている。次の書簡は2月29日付から4月14日付までに出されたゴアからのもので、合計11通残されている。次が7月22日付のシンガポールからのもので、最後の2通は上川島から出された10月25日付と11月12日付のもので、亡くなる直前僅か4日前に出されたものである。これはぺレイラ船長が季節風の関係で、ザビエル一人を島に残し、サンタクルス号がマラッカに向け出航した4日後のことだった。

こうしてみてくると、ザビエルの離日後の足跡がおぼろげながら浮かんでくる。即ち、11月中旬に大分を出港したザビエルはマラッカを経由して約2カ月かかってコーチンに到着し、それから約1カ月かけてゴアに到着。ゴアに数か月滞在した後、7月にはシンガポールを通過し、10月までには上川島に到着している。

従って7月から10月までの3カ月の間にベトナムに立ち寄った可能性も考える必要があるが、残念ながらその可能性は殆どないと言わざるを得ないものだった。何故なら、7月のシンガポールからの書簡、10月、11月の上川島からの2通の書簡のどこにもベトナム、乃至ベトナム人(安南人、南越人)に関わる記述はなかった。彼が数々の書簡の中で、日本及び日本人に関し、饒舌なほどに語っているのと全く対象的であり、彼の初期の書簡の中で日本について全く触れられていないのと同様、彼の頭の中には安南という概念は全く無かったものと思われる。

結局ザビエルはフエには行っていなかった。コーチンとは安南のコーチン(交趾)ではなく、インドのコーチンだった。それが導き出された結論だった。では一体、フエにあったザビエル教会は何だったのか? それは結局ベトナムがフランス植民地であった百数十年の間に、キリスト教が浸透し、イエズス会宣教師の誰かが中心になり、先人の遺徳を偲び、この地に教会を建てた。それが得られた結論だった。没後458年、彼の名声はアジア各地に於いて弥増しに高まるものを感じるのだった。
 
 
 
 
聖母マリアとキリスト像。ここにはザビエルの足跡は見られなかった。
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キリストの誕生を祝福する母マリアと父、大工のヨゼフ。
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中国人信者か、中国系ベトナム人の熱心な信者の寄進もあった。
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ザビエルの布教にかける情熱は並み知れないものであった。
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お盆の間に時宜を得た本を読む。ひろさちやさんの仏教関係の書物は嘗て幾つか読んだこともあるし、いつだったか5月の吉日、高幡不動尊で行われた法話なども聞き、感銘を受けたこともあった。
今年のお盆は偶々自宅にいて、直前に読んだ津本陽氏の「親鸞上下」の中の念仏、他力本願に関心を持ち、更に他の親鸞、或いは法然、一遍上人の関連本などあるかと東センターへ行ったのだが、目に付いたのがひろさちやさんの「お経から人生を学ぼう」だった。お盆の三日間、ゆっくり読むには丁度良い内容だった。
 
しかし難しい。一言で言って、難しい。本の解説は分かりやすく書いてあるのだが、その内容が難しい。
 
紀元前486年、お釈迦様が80歳で亡くなった直後に、最初に作られたのが小乗の経典。これ等は従者阿難(アーナンダ)がお釈迦様から聞いた「如是我聞」で始まっている。「阿含経」が最初のお経である。
 
それから数百年、紀元前後の頃大乗仏教が出てきて、小乗を痛烈に批判する。即ち、小乗の出家者のみが救済されて、一般の大衆がそのまま捨て置かれるのはおかしいじゃないかと。仏の教えは、等しく全員を救済するのが本意ではないかと。
 
そうして生まれたのが「維摩経」であり、次に出てくる「般若経」。この中には「般若心経」も含まれている。更に続いて作られたのは「法華経」であり「観音経」、「華厳経」、「涅槃経」、「浄土三部経」であった。
 
それから最後に7世紀になってから作られたのが密教の「大日経」、「金剛頂経」、「理趣経」などであった。これは空海が入唐する僅か100年位前のことである。
 
小乗と大乗、その後の密教の歴史的背景、違いなどはこの本を読めば分かる。しかし肝心の「お経から学ぶべき人生」が分からない。いや、自分自身分かろうとしないのかも知れないし、分かりたくないからかも知れないが・・。
 
「出世間」。「世間」は欲望の塊である。だからこの「世間」に迎合し、埋没するのではなく、ちょっと距離を置き、「出世間」すれば幸福に生きられる。
 
「過去」はない。「未来」も無い。今あるのは「今」しかない。「明日のことは明日悩めばよい。明日までに死んでいるかも知れないのだから。」「今を生きる」しかない。道元禅師の「而今」に通じる阿含経である。
 
「小乗」の「こだわり」と「大乗」の「おおらかさ」。「維摩居士」の「風狂」。「自由におおらかに、伸び伸びと生きる生き方。」「煩悩」があるのが人間。親鸞の言っていることだ。
 
「生病老死」、「愛別離、怨憎会、求不得、五取薀」の四苦八苦。「小乗」の「苦の克服」と「大乗」の「空」の思想。物事には「実体」はない。全てが「空」。「分別智」と「無分別智」。「無」と「有」を超越した「空」の思想。物事を固定的、実体的に見ないこと。実体は何も無いのだ。
 
「碧巌録」の「洞山無寒暑」。「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す。」「苦」を克服するのではなく、「苦」そのものに成りきれ、と。苦しみも悲しみも悩みも喜びも、すべて実体のない「空」。物事を実体視しないこと、すべてが「空」。それに成りきることである。
 
「如実知見」は「仏知見」。人は皆仏の子「仏子」。仏のものの見方で物事をあるがままに見ること。仏の清浄な心。常不軽菩薩の礼拝行。三十三身、吾も彼もすべてが観音菩薩。
「南無観世音菩薩」。災難を災難として、しっかり受け止める事。方便の力。
 
「華厳経」の「一即多・多即一」。現在のこの一瞬の中に、過去と未来の無限の時間が入っている。善財童子と53人の善知識。
 
「一切衆生、悉有仏性」。日常生活での仏性の堀り出し。「諸行無常、是生滅法、消滅滅巳、寂滅為楽」。全てを滅した後に涅槃・浄土が待っている。
 
「阿弥陀仏」の請願に基づく「他力」。「南無阿弥陀仏」。「決定往生六十万人」。一遍さんは50歳で死んだ。親鸞聖人は90歳、お釈迦さんが80歳、空海さんと日蓮さんは60歳、道元禅師は52歳。尚付け加えればフランシスコ・ザビエルが広東沖合の島で死んだのは46歳。キリストは33歳で磔刑にされた。
 
自分は既に65歳。今まで無駄な人生を生き続けてきたが、この先あと何年無駄に生き続けるのか・・。仏性を持った生き方は難しいし、往生も出来ない。蚊を殺し、水のシミを殺し続けるのが関の山か・・。
 
 
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「追悼文」
 
 
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一昨日の15日、新暦の東京ではお盆の中日に当たるが、偶々電話した樋口さんの自宅で、お姉さんが電話口に出て、樋口さんは去年の11月に亡くなった、との連絡を受ける。今日は偶々自宅の整理に来ていて、電話を取った、とのことであった。ここに住んでいた父親も先月90歳で急死し、今自宅は無人になっている、とのことである。突然の訃報の知らせに一瞬言葉を失くした。しかもほぼ同時に二人とも亡くなっていたとは・・・。
 
毎年夏になると調布の50mプールへ泳ぎに行くのが楽しみで、年数回行く都度その行き帰りには必ず樋口さん宅に立ち寄り、縁側で80歳を過ぎても尚お元気なお父さんと立ち話をし、樋口君の君津農場の様子を聞いたり、次にいつ調布の自宅へ戻ってくる予定なのかを聞き、次はその樋口君の帰宅に合わせ、プールへ来るようにしていた。毎年2−3回縁側で樋口君と話し、今年の農作業、樋口君自身の健康の問題、少しの政治社会の問題など話すのが毎年の夏の楽しみだった。
 
 
樋口君が務めていた会社を早期に退職し、君津に土地を購入し、農事家として新たな第一歩を踏み出したのは、確か50歳前後だったと記憶している。かなりの高給会社をあっさり辞めて、一から農業を始めよう、とした彼の考えも以前聞いたこともあった。それは今の野菜、果物等は多量の農薬に汚染されていて、彼としては農薬を使用しない、自然農法での果樹、野菜栽培を目指すことだった。退職金をすべて注ぎ込み、しかも企業年金は退職時に一括して受け取り、それらの資金で君津郊外に300坪からの土地を買い、本格的な住宅も建て、トラクター、シャベルカー、耕運機等の重機までも買い揃え、新たな一歩を踏み出した。確か住民票も調布から君津に移した、とのことだった。
 
彼が君津に移る以前は、夏調布プールへ行くと、彼は病気の関係で泳ぐことはせず、僕がプールから上がるのを自宅で待っていて、一緒に近くのファミレス、ロイヤルホストなどに行き、約1時間ほどを駄弁って別れるのを常にしていた。
君津に移ってからは、農場で取れた大きなスイカなどを貰うこともあった。果樹園芸を楽しみにしていて、一度様子を見るように、とその都度言われてはいた。いや、それは逆で、こちらから、一度は遊びに行くよ、と言い続けていたのかも知れない。
 
数年前の夏、プールへ行き、お父さんと会い、樋口君の動静を聞いても、お父さんは曖昧な返事しかしていなかったが、後で分かったことだが、彼はC型肝炎が悪化し、肝臓癌になり、その年の1年は入退院を繰り返していた、とのことだった。そんな重大な病気になって、どうして友人である僕に話さなかったのか、本人やお父さんを難詰しても、言を左右にしているのみだった。他人には余り公表したくなかったのかも知れない。その後、インターフェロンの効果で、癌巣も消えて、以前同様の農作業をするようになった、とのことである。
 
それが2年前の秋、偶然のきっかけから君津の小糸ファームを友人3人で訪問することになり、晩夏の9月、楽しい1日を過ごすことができた。樋口さんからは歓待され、広い庭でのバーベキュー。午後の陽光の下、悠久の時間を過ごすことができた。又帰りには自家栽培の新米5キロもお土産にもらい、千葉県産のコシヒカリを美味しく頂くことができた。その時の楽しい1日を当方のブログにも載せ、彼との再会、再出発を祝ったものだった。
 
「良き友との最良の時間」<癌克服者の農家を訪ねて>
 
 
その時は彼自身も又僕らも、癌は既に克服され、これから農業経営に専念できる、との意気込みを感じたが、しかし癌は一筋縄では行かないものだった。
 
去年の夏、再び調布プールへ行った折、父親に「最近また義正君と電話連絡できないが、どうしているのか?」と聞いたところ、「元気にやってるんじゃないの? しかしあんたは良いねえ、こうして毎年プールで泳げて。」など、当方の元気さを羨ましがられていたが、それは再び癌との壮絶な戦いが始まっている樋口君への暗示でもあった。
 
8月のお盆、この夏最後のプールへ行った帰り、偶々樋口君が自宅にいて、顔を合わせることができた。窓際でのほんの短い間の会話だったが、彼はやや苦しそうにしていた。外に引き出し、近くのファミレスで話すのも億劫な感じだった。今年は春先から癌が再発し、2−3回入退院を繰り返し、今は月2回通院治療をしているとこと。東京に出てくるついでにたまにはオヤジの顔を見に調布まで来ているとの事。今日はこれから又君津に戻り、余り時間もない、とのことだった。
 
他人の痛みに思いを致すことの少ない自分にとっても、癌の再発を落胆している樋口君の表情はありありと理解できた。長居は却って彼に迷惑になると思い、「また、じゃ元気になったら君津へ遊びに行くよ」と言い残し、その場を退去したが、彼からの別れの言葉はなかった。今思うとこれが彼との最後の会話、別れになってしまった。
 
 
先おとといの15日、留守宅のお姉さんから彼の訃報を聞くとはよもや思いもしなかった。今まで携帯は通じなくても留守電になっていた。しかし、数日前に電話した携帯は「おかけになった携帯は現在使われていません」とのテープ音が聞こえるのみである。何か嫌な予感もしたが、新暦のお盆、調布に帰ってきているかも知れない、と思い、電話したのだったが、偶々空き家となった家の整理にきていたお姉さんから、思いもよらぬ訃報を受けたのだった。
 
思えば彼との交流も晩年の10数年に過ぎない。歳も7−8歳違っていて、又、彼は元々お酒を嗜まず、酒の上の付き合いもない。ただ自宅が調布と小金井で隣町同士の誼で、殊、夏場にはプールにかこつけて会って話をしていた仲であったが、実に気の優しい、静かで心豊かな人だった。自宅の前には多くのプランター、発泡スチールの中に様々な花を植え、時々は珍しい鉢植えなども頂いた。花好きで、君津に大きな土地を買ったのも、これ等の花卉栽培も考えていたようだった。
 
C型肝炎と言うハンデキャップを抱えていたのか、回りに好きな女性もいたが、遠慮し、結婚には至らなかったが、今度、君津に転居し、近くに同じ年頃の元保育園の保母さんがいて、病気を承知の上で、結婚のことまで真剣に考えていた矢先の癌の再発で、彼としても残念であったに違いない。
 
送り盆の終わった18日、調布の自宅を訪ね、生前の義正君からしばしば話の出ていたお姉さんと初めて会った。本人は高齢の父親を一人残し君津に転居した親不孝を悔いてはいたが、尚、近くに姉夫婦が住んでいて、日常のこまごまについては、姉が面倒を見てくれる、と言って頼りにしていたが、今度は父親より先に昇天した。しかしそのお父さんも後を追いかけるようにして半年後の先月黄泉に旅立った。今は仏壇しか残されていないこの部屋で、お二人の冥福を祈った。好きなことをし、好きなように生きた二人は天寿をまっとうした。57年の人生、爽やかに駆け抜け、幸せだったに違いない。
 
先日は突然の電話でつい言葉も詰まったが、今日はこみ上げる感情をこらえ般若心経を唱みあげた。正しく生きた二人には素晴らしい天国が待っているに違いない。
 
< 色即是空 南無阿弥陀仏 蓮華経 >
 
 
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インドネシア料理店「スラバヤ」は調布駅前パルコ7階にある。
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メニューは比較的リーゾナブルで入り易い。
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大体1000円前後の料理が美味しそうに並んでいる。
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インドネシアのビール小瓶が650円。これが問題か・・・。安い日本のビールも置いてたほうがよいだろう。
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店内は南国調のレイアウトだ。
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調布に住んでいた友人の樋口君の自宅へ焼香に行った帰り、調布駅前のパルコ7階にあるインドネシア料理店「スラバヤ」へ行く。「スラバヤ」とはインドネシア・ジャワ島東部にあるインドネシア第2の大きな街の名前で、近くには歌で有名な「ブンガワン・ソロ」という大きな川も流れている。

このレストランに行くきっかけになったのは、ブログの知人嵐子さんが時々行く店で、インドネシア料理がとても美味しい、との紹介で、いつか行ってみようと思っていた。

3連休の最後の日。店は混んでいるかと思って行ったら、それ程でもなく、パルコ7階に10店位あるレストランの中で、行列を作っている店もあるかと思えば、閑散としている店もある。どちらかと言うとこの「スラバヤ」は閑散の口だ。

インドネシア料理はこの5月の連休にバリ島へ行き、何回か食べたことはあるが、どこか中華に似た感じで、中華チャンプルに香辛料を利かせたもの程度の認識しか持っていなかった。中華の一つのVarietyと言っても良いと思っていた。


さて今日の料理は、定番のランチセット「シーフードのサンバル炒め」。表の写真を見るとその「サンバル炒め」にライス、スープ、コーヒーが付いて1180円。よし、これに決めた!

少し空き気味の店内に案内され、店員に聞いたところ、一人はジャワから、もう一人は別の大きな島の出身らしい。年配者の人がタイ語を少し理解できたのは嬉しかった。

運ばれた料理を見ると、この「サンバル炒め」がどんな意味か知らないが、イカの輪切りににマグロの切り身、それにホタテがミックスされた、確かにシーフード料理で、野菜と一緒にオイスターソースで炒めてある。
 
ふーん、英語のメニューを見ると「NASI CAMPUR」とある。何だ、そうか「サンバル」とは「チャンプル」の事だったのか・・。

勿論「NASI」は「ご飯」のことだから、この「チャンプル炒め」のお皿の隣にご飯盛りのお皿も付いてくる。沖縄でもチャンプル料理を時々食べたが、そこでは炒め物の中にご飯が混ぜられていたり、うどんが一緒に炒めてあったが、このインドネシア料理は、別の皿盛りになっていて、少しは手が込んでいるかも知れない。

味の方は、見た目もそうだが、矢張り中華料理の域を出ない。大型の中華鍋でバンバン炒めたものだろうから、どうしても似たような味覚になるのかも知れない。
 
しかし味は先ず先ずで、中華には引けを取らない。名前を変えて「インドネシア風八宝菜」で出しても文句は出ないかも知れない味付けだった。

最後に出されたKopi,コーヒーはこってりしたインドネシア風ジャワコーヒーで、コーヒー粉がカップの底に沈殿していて、如何にも本場もの。暑い国の濃い目のコーヒー、と言った感じだった。約40分、楽しい昼食を頂いた。


処でこれは後で気が付いたことだが、樋口君の亡くなったのが去年の11月28日。この日は三鷹にあるタイレス「チャーン」でタイ料理を食べた後、井の頭公園を散歩したが、今日は彼の位牌に焼香し、その後、ここインドネシア料理店でランチを食べた。何か偶然の一致を感じたが、去年も今日も黙って死んで行ってしまった友人からの何かの暗喩なのかも知れない。
<去年の亡くなった当日のブログ>
http://blogs.yahoo.co.jp/ciaocommodore/64224449.html
(11.28.(日・晴れ)タイレス・チャーン、井の頭公園、大相撲千秋楽、白鳳優勝。)


そう言えば、あの時井の頭で会ったフリマの女性、仲さん。南の島から来ていたと言っていたが、それも又因縁のあることかも知れない。南の島のユタとバリの祈祷師。どこか目に見えない一脈通じるものがあったかも知れない。
 
 
いずれにしても暑い夏。暑い国の暑い料理を食べて暑さを忘れるがよい。良い精霊落しにもなった。 
 
 
 
店内に飾られたガルーダ、「火の鳥」の神様。
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運ばれてきた料理「サンバル炒め」。何のことはない、インドネシア風「チャンプル」だった。
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Kopi(コーヒー)、デザート、スープがついて1180円。一度行ってみたらどうですか?
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いろいろ美味しそうな料理がありますよ!
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では、「スラバヤ」へ是非どうぞ!
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近年日本では高齢化が進み、60歳の還暦を過ぎても元気な人は街にあふれ、昔だったら老人の仲間入りと見られもしたが、昨今では初老と言ったら失礼にも当たる程だ。だから定年も昔の55歳から60歳に延び、今ではもう65歳にもなっている。この先、年金財政が窮迫してくれば、元気なお年寄りを活用する名目で、定年は更に70歳まで延長されるようになるだろう。70歳まで現役である以上、お年寄りとは言わせない、そんな近未来の社会が見えてくるようである。
 
日本がこうした状況だから、老齢先進国の欧米では、もっと凄まじいことが起きている。昨日の朝日新聞夕刊にフロリダ・マーリンズ監督に80歳のジャック・マッキオン氏が就任した記事が出ていた。驚くなかれ、80歳! 如何に老人大国日本と言えども、第一線のプロスポーツ界に80歳になる監督が就任したことなど嘗て無かったことだろう。能力万能主義の国、アメリカだからこそこういうこともできるかも知れない。
 
マッキオン新監督の就任のスピーチが又素晴らしい。「80なんて数字には意味はない。誕生証明書がそう示しているだけで、自分は80歳だなどとは思っていない。95歳までやれる。」と記者団に語ったそうだ。
 
記者団にそう言い切れるだけの自信と誇りが彼にはあった。1999年と2003年の2回、最優秀監督に選ばれ、とりわけ2003年には73歳にしてマーリンズ監督に就任し、同チームを当時松井が在籍していたNYヤンキースを打ち破って、初のワールドシリーズチャンピオンに導いた監督でもあった。
 
74歳で退任し、同チームのアドバイザーをしてきていたが、今季マーリンズが不振で東部地区最下位に低迷している状況下、ロドリゲス前監督が辞任した後を引き継いでの監督就任だった。
 
80歳の監督就任、まさに前代未聞! かと思って記事を読んでいると、いやはや、米国の凄まじさ。上には上がいるもので、1950年にはアスレチックス監督に87歳のコニー・マック氏が就任していて、これが大リーグ記録とのこと。彼はパイレーツとアスレチックスで通算53年間、監督を務めたそうである。87歳! 日本人男子の平均寿命は何歳ですか?
 
・・うーん、実に全く米国大リーグの老人パワーを見せつけられる記事である。この調子で行くと、その内、50歳のホームラン王とか60歳の盗塁王が出てきてもおかしくない。いやいや、遠からず日本にもこうした時代が来るだろう。その兆候はあちこち、毎日のように見聞きするようになってきた。身近な誰れ彼、ちょっと見ただけでも十指に余らない。老人パワー万歳! と叫びたい。
 
 
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