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ベトナム・フエのザビエル教会について;
ラモン・ビラロ著「侍とキリスト」―ザビエル日本航海記―を読んで。 ベトナムの古都フエにはザビエルの名前を冠した教会が建てられていた。
こんなところでザビエルに接するとは! 彼は、この地、ベトナムでも布教活動していたのか??
ダナンの大聖堂。ベトナムは旧フランス植民地。案外キリスト教徒も多い。
サイゴン大教会。旧フランス植民地だけあって、ベトナムはカトリックが多い。
今年のお正月ベトナムを旅行した際、古都フエでザビエルの名前を冠した教会を見、ああ、ザビエルは日本へ来る前に、このフエにも立ち寄っていたのか、いや待てよ、日本を出国した後、次にこの辺りで布教活動していたのか、等々いろいろな想像が渦巻いたが、今回ラモン・ピラロ氏の書かれた「侍とキリスト」(ザビエル日本航海記)を読むことにより、ザビエルについての理解は多少なりとも増したものだった。
この本を読む前の大雑把な知識と言えば、ザビエルとその師ロヨラは共にバスク出身者で、リスボン、その後パリに伝道師会イエズス会を設立し、イグナチウス・ロヨラが本部の創始者(主宰)であり、フランシスコ・ザビエルが先兵隊役の宣教師としてアジア各国の布教に努めた。後年、と言っても明治になってからだが、東京四谷にイエズス会により上智大学が設立され、その敷地の中には四ツ谷駅前からも見える赤茶色のゴシック調のイグナチウス教会が建てられているという程度だった。 だからこの本を読めば、ザビエルがリスボンを出港して以降の日本へ来るまでの、或いはその後の行動が判明するか、即ち日本への行き帰りに寄った国々の中にベトナムもあるか、などと思って読み進んでいったが、この著書の副題にもある通り、内容は彼の「日本航海記」であり、彼が鹿児島に上陸してから大分を最後に日本から立ち去るまでの、ほぼ2年3カ月の日本に於ける行状記であった。従ってザビエルがベトナムの地でも布教に努めたか否はこの著書の中からは尚不明であるが、フエで彼の名を冠したあのような立派な教会が作られているからには、歴史的にも彼の足跡があったものと思わざるを得ない。 著書の中でザビエルはインドのゴアからマドラス、マラッカを経て、一度インドネシアのモルッカ島(マルク諸島)へ渡ったが、その後、中国広東沖の上川島(後のマカオ近郊)で風待ちし、1949年8月15日、最初のキリスト教宣教師として鹿児島の地に上陸した。ポルトガル人が種子島に漂着した1543年から僅か6年後のことであり、彼が35歳の誕生日にリスボンを出港した1541年4月からは実に8年後のことだった。 彼がリスボンを出てから来日するまで、何故にこのような長期間を有したか。それは母国を出た時点での日本の知識と言ったら、マルコポーロの「東方見聞禄」の域を出ていないものであり、1492年以降、世界に帆路を広げたポルトガル船とはいえ、まだ日本への航路は発見されていなかった。従って、彼の出国時点では、そもそも日本にまで布教にくる、という発想はなく、主に、当時ポルトガルの植民地となっていたゴアを中心にしてのインド及びその周辺国に於ける布教が主目的であった。 ザビエルがリスボンを立ってから後、旅の先々からロヨラ、同僚、ポルトガル国王、バチカン法王、ゴア総督、等々へ幾多の手紙を送り、合計137通がザビエル書簡集として現在までに発見されている。これ等書簡は、「聖フランシスコ・ザビエル全書簡集」として、1994年平凡社より全4巻で出版されている(河野純徳訳)。これ等書簡を併せて読むと、 彼の行動の範囲はおぼろげながら判明でるが、しかしこの書簡集からしてもベトナムの地に於いて布教活動した、との明確な確認は得られなかった。又来日前の段階の書簡には、日本についても触れた内容は全く見当たらないものであり、そこにあるのは、現インドネシアの諸島、モルッカ等における布教活動に関わるものだけだった。 書簡等の記録を時系列で調べると、ザビエルはリスボンを立って鹿児島に上陸するまでの約8年間、その期間の大半の7年間は当時ゴアにあったキリスト教セミナリオを拠点に活動し、稀に東インドのモルッカ島(マルク諸島)、アンボン島(バンダ海)等に足を伸ばしていた程度のもので、途中マラッカに立ち寄ったりはしているが、ベトナムに関しての記載もなかった。尚、当時ゴアはザビエルの来航する数十年前からポルトガルの植民地になっていて、1530年に(来航の12年前)、それ以前の南西インドの港町コーチン(Kochi, Cochin)から、ここゴアに植民地の中心機能を移していたものであった。 ザビエルが日本に関心を持ったのは、来日する約1年前、マラッカに於いてポルトガル商人より日本のことを聞き、その後ゴアに帰ってからセミナリオにて日本人の弥次郎(パウロ)に会い、日本に関する強い関心を持つようになってからであり、ポルトガル人が日本の地、種子島に漂着してからまだ5年も経っていなかった。彼は弥次郎を通訳代わりに同行し、日本への布教を時のインド総督やマラッカ長官に強く願い出て、漸く実現したのは1549年6月になってからであり、それは鹿児島に上陸する僅か2か月前のことだった。 当時中国(明朝)は鎖国していて、外国船は中国の港に寄港することが出来ず、ザビエルを乗せてマラッカ(シンガポール近郊)から出帆したジャンクは難渋を極めたが、難船もせず、弥次郎と共に漸くにして鹿児島に入港したものであった。その後彼は日本に2年3カ月滞在し、離日後の1552年12月にマカオ近郊の上川島にて46歳で没した。日本を離れてから約1年後のことである。 ではどうしてあのような立派なザビエル教会がフエにあるのか? それとも後からイエズス会の誰かが、ザビエルの事績とは別に、単に彼の名前を借りる形で、この地に教会を建てたのだろうか・・・。それは丁度ロヨラの足跡とは関係なしに、東京の上智大学構内に彼の名前を冠した立派な教会が建てられているのと同じように・・・。 そこで考えられるのは、Cochinという地名であり、このCochinから出されたザビエルの書簡は複数あり、当初自分はこのCochinはポルトガルのインド政庁がゴアに移る前のインド・ケララ州の港湾都市であるコーチンと推定していたが、実際、この町はポルトガル人により「Little Lisbon」とも呼ばれていて、ザビエルはゴアからそれ程離れていないこの町とゴアとの間を行ったり来たりしている間に幾つかの書状を出状したものと推定していた。従って、ここでいうコーチンはベトナムではなく、ゴア近くのインドの港町と思っていた。 処で、この当時のベトナムは安南国と呼ばれていた。又別名「交趾支那」(コーチシナ)とも呼ばれていた。英語で表示するとCochin-China、略してCochin、Kochi(交趾)とも言われていた。これは南西インド・ケララ州のCochin(又はKochiと表示)と全く同じ表示である。何故こういうことになったかという背景の一つに、このCochinの町の由来、歴史等を調べて行くと、この港町自体がどうも中国人により開発され、中国語の魚網なども発見されているようである。 その背景として、明の鄭和が60数隻の大船団を組んで、総勢3万人近くの乗組員で中国泉州を出て、インド経由アフリカ東岸までの大航海をしてから既に150年も経っていて、このインド西岸の土地にその3万人から枝分かれした何百人かの中国人の足跡があったとしても何らおかしな話しでもなく、この港町の発展の経緯からして、ベトナム安南のCochin=Kochi(交趾)の名前が使われるようになった、と考えたとしても、あながちおかしなことではなく、従って元来のCochinという名称は、当時の外国人、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス人等にとっては、安南を意味するOriginalな地名として使用されていたかも知れない、と考えれば、ザビエルがCochinから出した20数通の手紙は、即ちベトナムからのものであり、フエにあれ程立派なザビエル教会が建立された理由も理解できるものと思われた。 しかしそれは無理な考えであることは書簡から判明する。ザビエルが離日した1551年11月16日から亡くなるまでの1552年12月3日までの約1年と数週間、書簡より彼の航跡を辿ると、彼は再びマカオ近郊の上川島に渡り、その後、ぺレイラ船長のサンタクルス号でマラッカに到着し、ゴアに向かう途中のコーチンでロヨラに手紙を送っている。それはこの時、マラッカに到着時に、待ちに待ったロヨラからの手紙を漸く受け取ったザビエルが、ロヨラに対し感謝の返信を認めた内容だったからである。 この経緯からすると、コーチンはマラッカとゴアとの途中の町でなければならず、それは即ちゴアの手前のケララ州のコーチンであり、マラッカから再びシャム湾、南支那海を逆行して、安南のコーチンに戻る、ということは殆ど考えられないことだった。 ゴアに到着したザビエルは、今度は中国への布教を目指し、春になってから再びサンタクルス号に乗り込み、シンガポール経由で上川島に到着したのだが、この時、ベトナムに立ち寄った可能性がないとは言えない。この前後の事情を書簡集で確かめると以下の通りであった。 即ち、大分を出た後の最初の書簡はコーチンからのもので、1月20日付のものと1月29日付のものであり、合計24通が残されている。次の書簡は2月29日付から4月14日付までに出されたゴアからのもので、合計11通残されている。次が7月22日付のシンガポールからのもので、最後の2通は上川島から出された10月25日付と11月12日付のもので、亡くなる直前僅か4日前に出されたものである。これはぺレイラ船長が季節風の関係で、ザビエル一人を島に残し、サンタクルス号がマラッカに向け出航した4日後のことだった。 こうしてみてくると、ザビエルの離日後の足跡がおぼろげながら浮かんでくる。即ち、11月中旬に大分を出港したザビエルはマラッカを経由して約2カ月かかってコーチンに到着し、それから約1カ月かけてゴアに到着。ゴアに数か月滞在した後、7月にはシンガポールを通過し、10月までには上川島に到着している。 従って7月から10月までの3カ月の間にベトナムに立ち寄った可能性も考える必要があるが、残念ながらその可能性は殆どないと言わざるを得ないものだった。何故なら、7月のシンガポールからの書簡、10月、11月の上川島からの2通の書簡のどこにもベトナム、乃至ベトナム人(安南人、南越人)に関わる記述はなかった。彼が数々の書簡の中で、日本及び日本人に関し、饒舌なほどに語っているのと全く対象的であり、彼の初期の書簡の中で日本について全く触れられていないのと同様、彼の頭の中には安南という概念は全く無かったものと思われる。 結局ザビエルはフエには行っていなかった。コーチンとは安南のコーチン(交趾)ではなく、インドのコーチンだった。それが導き出された結論だった。では一体、フエにあったザビエル教会は何だったのか? それは結局ベトナムがフランス植民地であった百数十年の間に、キリスト教が浸透し、イエズス会宣教師の誰かが中心になり、先人の遺徳を偲び、この地に教会を建てた。それが得られた結論だった。没後458年、彼の名声はアジア各地に於いて弥増しに高まるものを感じるのだった。 聖母マリアとキリスト像。ここにはザビエルの足跡は見られなかった。
キリストの誕生を祝福する母マリアと父、大工のヨゼフ。
中国人信者か、中国系ベトナム人の熱心な信者の寄進もあった。
ザビエルの布教にかける情熱は並み知れないものであった。
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