タイ語の勉強 & 山と旅と俳句

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中国旅行

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円仁さんの唐土までの航海は順風に送られ、順調だった。船のそばを流れる樹木、烏賊等の魚、イルカ、などの情景がこと細かく記載されている。渡り鳥か、海鳥か、帆に止まっても立ち去らない情景、何とも微笑ましい。

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3日目の昼、遣唐大使藤原常嗣は船上で「観音菩薩」を描いたという。この頃からもう既に日本にも「観音信仰」が齎されてきていたようだ。大陸、半島の沿岸地方に発達した観音信仰。海を渡って瞬く間に広まったに違いない。「馬頭観音」だったのだろうか。何とも記されてはいなかった。

「請益・留学の法師は相共に観音経を読経した、」とある。円仁さんは請益(還学)僧で、長期滞在の留学僧とは違って、本来は短期の渡唐であった。それが結果的には10年の長きに渡り在唐することになるとは、この時はついぞ思っていなかったに違いない。いやしかし還学僧とはいえ、最初から天台山へ登る考えを持っていた円仁さんからすれば、それが適わぬ際には、代わりに五臺山へ向かい、或いは、この程度の年月は最初から織り込み済みだったのかも知れない。

いずれにしても、航海最初の数日は穏やかな日よりが続き、「信風」、追い風に乗って、船は順調に大陸を目ざしていた。この時の記事には、夜、「火信相通じて其の貌(さま)は星の如し」とあり、全く順調な航海のようだった。

二日目、海の色が浅緑になってきて、人々は皆陸地が近いことを予感していた。「大竹、蘆根(ロコン)、烏賊、貝等が波に従って付いてくる、」とある。大竹は孟宗竹のことだろうか、こういうのが流れてくると言うのは、正しく陸地が近いに違いない。蘆根が何かは分らないが、先年の春、蘇州へ旅行した折、そこを流れる陽州大運河にはクワイの実が水面を覆い尽くすように浮かび、流れていたが、こういったものの水生植物でも流れていたのだろう。

烏賊、まで付いてくる。「鉤を下ろして取って看れば、或いは生き、或いは枯れたり」とある。この当時より烏賊は既に食用にされていたに違いない。

更に「申時(16時)、大魚あり、船に従って遊行す。」とあるのは、多分、イルカの群れに違いない。

更に3日、「船の側板に取り付けた平鉄は波の為にことごとく脱落せり。」又、海を渡る鳥は、帆に止まって飛び立たず、「西に飛ぶもの二、三あれども、又更に還り居る。」状態だった。

又更に海の色は白緑となり、「夜もすがら人をして帆柱に登って山島を見せしむるに、ことごとく見えず」の状態だった。

何度か海の色が白くなったり、黄色の泥状になったりを繰り返していたが、矢張り陸地は見えない。水の色から「陽州大江(揚子江)の流水ならん」と話し合っていたが、尚陸地は見えない。

「縄を以って鉄を結び、之を沈むるに、僅かに5丈(約15m)に至る。小時を経て鉄を下ろして海の浅深を試むるに、唯5尋(約12.5m)なり。」であり、大使はその浅さに驚き、「将に石を下ろして停り、明日行くべきなり」と命ずるが、議論伯仲して決定できず、そうこうする内、強風が出てきて、船はどんどん浅瀬に流され、漂流してしまった。

舵も失い、「東波来たれば船は西に傾き、西波来たれば東にそばだつ」状態で、波は船上を洗い、「船上の一衆、仏神に憑帰して誓祈せざるなし」。そして大使、船頭以下全員「裸身にして褌を締め直し」、船の安全な場所を探し、船べりに縄を結んで掴まり、「競うて活路を求む」状態だった。そして、海水は船上にあふれ出し、船は浅瀬に座礁した。

翌日(出航後7日後)、潮が引いて船底を見ると、「底は悉く破裂して」、砂に埋め尽くされている状態だった。もう一度大波が来れば、船は「碎散」(散り散りに砕け散る)になること間違いなし。帆柱を切り倒し、側板を剥して応急修理して夜を待った。

その日の夜9時頃(亥の刻)、幸いにも「西方を望見すれば、遥かに火光あり」。人々は皆喜び、「夜もすがらせん望」するが山島は見えず、「唯火光を看るのみ」だった。

遥か遠方に光りを見つけた乗員の喜び、一晩中飽かず眺めていた火の光、しかし、山も島も見えない。その心の喜びともどかしさ。1200年経った今でも円仁さんの喜びと焦燥、その心の動きが手に取るように現れてくる。名文である。

次の朝、満潮と共に船は西方に進み、漸くにして島影を認めたが、船は遂に沈み「進まず、退かず」、「船は卒(つい)に傾覆し、埋沈せんとす。」

人々は、驚き恐れ、縄を結んで死を待つ間、遠方に小船がやってくるのが見え、漸く救助されたことを知る。前日小舟で発進した大使の動静は不明であるが、円仁さん以下、船に残った全員はここに救助されたのだった。

時に承和5年、838年、7月2日、その場所は陽州海陵県(揚子江河口)であった。当時、日唐間は「年号は異なると言えども、月日は同じ」で、同じ大唐暦を使用していて、唐でも7月2日のことだった。こうして6月22日志賀島を発進した遣唐使節団は9日余りの航海の後、漸く唐土を踏むこととなった。その喜びや、いかばかりかと思う。


当方、明日から円仁さんの修行した中国山西省・五臺山を旅行する。難破した船から救助され、その後、五臺山・清涼寺で修行した慈覚大師円仁さんの足跡を辿れることの喜びを今感じている。これもまた長生きした結果の効用だろうか。「観音経」、「華厳経」は知らないが、「般若心経」くらいは唱えよう。瑞雲の中、文殊師利菩薩にもお会いできると良いのだが・・・



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しかし船は遂に揚子江の浅瀬に乗り上げ、動けなくなってしまった。その時丁度、陸地から助けの船がやってきて、漸くにして一命を取り留めることができた。円仁さんはこの後、10年間唐土で修行し、帰国後は、天台座主として各地に仏閣を建立したが、これもまた神仏の加護があったればこその出来事だったのか・・



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金印の島、「志賀島」で5日間の風待ちをした後の航海、最初の二日間は順調だった。

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志賀島は「漢倭那国王」の「金印」が出土された島で有名だが、博多港のフェリー埠頭から見ても直ぐ目の先にある島で、今では高速船で30分もかからない至近の距離にある。しかし当時は、ここまで来るのに1日がかりだった。

先年この島を訪れ、金印公園の高台から目の前の海を見ると、対岸数キロ先に能古島が迫っており、この二つの島が巾着の袋の閉じ口のように博多湾を守る姿は、古来よりこの場所が「海門」(うみど)と呼ばれてきた、博多湾が良港である事の証左であり、それを真近に見ることもできた。


又、この島の北側には由緒ある志賀海神社が建立されていて、662年、斉明天皇がこの神社の遥拝所から宗像を眺め、戦勝祈願をしたとする御座石は今でもそこに残っていて、円仁さんがこの島で5日間の風待ちをしていた間、或いはひょっとしてこの神社にも詣でたかも知れない。「巡礼行記」にはこの点は何も触れられていないが、神仏分離が今ほど厳格でなかった当時にあってしては、あり得たことだろう。朝鮮出兵は僅か170年前のことだった。


この湾を出るともう直ぐにも玄界灘の荒海。金印公園を挟むようにして、万葉、防人以来の海の遭難者の幾つかの石碑、又、時代は下るが蒙古襲来の際に死んだ蒙古兵を弔う蒙古塚。この島は内海と外海を隔てる海門であった。

1日数本しかないバスに揺られ、島の最西端、沖津宮まで行って、遥かに広がる玄海の海を眺め、宗像氏族、安曇族、蒙古襲来、日朝交流史、長い年月に亙る大陸との人・物の行き来を思い、目を凝らして海原を眺めたが、対馬はおろか、壱岐の島すらの島影も洋として見えるものではなかった。

そうして過ごした5日目、いよいよ船出することとなったが、大使を含め、皆の気持ちの中には万葉の歌人、額田女王の「熱田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかないぬ 今漕ぎ出でな」の心境であったに違いない。

「巡礼行記」の書き出しはごくあっさりとしていて、
「東北風を得て進発し、夜陰に投じて行く。遠くに五島列島の宇久島の島影を見るも、良風のためそのまま進み、帆を揚げて海を渡る。」とある。

「夜に入りて暗行して、第1舶、第4舶、両舶は火信を相通ず。」と、この二日間、順調な航海のごとくであった。


「火信を通ず」。夜は松明を燃やし、船と船の位置を確かめ、信号代わりにしていたのだった。時代はずっと下るが、日露海戦時、この海域で連合艦隊旗艦三笠より発せられた手旗信号が全艦隊に伝達され、皇国の荒廃を制した東郷平八郎の故事とついダブって感じられもした。

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当時の原始的な航海では玄界灘の大海を渡るのは至難の技だった。

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順風、季節風を待って、一気に渡りきるのだが、失敗も多かった。

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円仁さんが還学僧として遣唐使船に乗って博多津から渡唐したのは838年、44歳の時だった。

この「巡礼行記」は6月13日、博多湾にて第1舶に乗り込むときから始まる。当時、遣唐使船は4艘一団で出発するが、この時既に2度の出航が直後に失敗に終わっていて、3度目の正直の出航であった。従って2艘は既に航行不能になっていて、この時、大師は第1舶、遣唐大使と一緒の船に乗船した。

尚、遣唐使はご存知のように、第1回遣唐大使、小野妹子が607年に聖徳太子の書「日出る処の天子」で始まる国書を携え、隋の煬帝に柵封に行ったのが始まりだったが、その後の朝鮮半島の騒乱、日本・百済連合軍と唐・新羅軍との戦い、等もあり、一旦は中止されていたが、それでも飛び飛びに継続され、この時、円仁さんが行ったのは第14回遣唐使節であり、実に100数十年振りのことだった。今から見ると、丁度幕末の頃、咸臨丸に乗って福沢諭吉が訪米してから100数十年振りに次の使節団が訪米するような時間的スパンである。

しかし、その後は中国国内の混乱等もあって、以後の遣唐使は打ち切られることになり、円仁さんは最後の遣唐使船で入唐したものである。

当時 博多には大宰府政庁もあり、鴻臚館もあったりして、外に開けた国際都市でもあった。白村江で大敗し、博多も一時は唐の将軍郭ムソウに占領されたりしていたが、その時から既に150年は経っていた。

街は既に交易港としても現状に服していた。前年、摂津住之江を出航した4艘の遣唐使船は、博多津を出た途端暴風に見舞われ、散り散りになって難破したが、3度目の今回はもう失敗は許されない。その3度目の出航の初日、6月13日からこの「巡礼行記」は始まっているのである。

博多湾で3日間風待ちし、漸く出発はしたが、博多湾口直ぐのところにある志賀島で再び5日間の風待ちをすることになった。当時はもう既に朝鮮半島沿いの航路は使えず、季節風を頼りに、玄界灘を一気に大陸まで直行する航路しかなかったのである。そんな近くの島で又5日間も風待ちしなければならないという、頼りない航海でもあった。

当時の航海は、月ロケットで月へ行くほどではないにしても、宇宙船に乗るくらい大変な航海だった。



838年(承和5年・開成3年)6月、いよいよ出航となる。慈覚大師御年44歳。

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小金井図書館から借りてきた平凡社・東洋文庫の「入唐求法巡礼行記」及び「五台山」。それに毎日新聞社から出されている「五台山清涼寺」。

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円仁著「入唐求法巡礼行記」は昭和22年、敗戦直後の大変な中、足立喜六博士により訳注されたものである。

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「入唐求法巡礼行記」を最初に読んだのは30歳代の前半の頃だったから、もう今からかれこれ30年くらい前のことになる。
当時京都、奈良の寺社巡りをしていて、天台宗第3代座主、慈覚大師円仁が珍しくも関東出身の天台座主であり、又最初の大師号を賜ったものだが、次の座主円珍との確執問題、寺門、山門の宗門争いに目が奪われ、この本を読むことも無かった。

それから暫らくして、元駐日米国大使、エドウィン・ライシャワーさんが政界に入る前のハーバード大学時代、教授として日本文学、日本史を教えていたが、その時にこの「入唐求法巡礼行記」を英訳したと聞き、改めてこの本に目が行き、読むこととなった。確か最初に司馬遼太郎さんの「街道を往く」か何かの本の中で触れられていたのが、そのきっかけだったと思う。

外国の学者が日本の古典を読み、尚且つ英訳して世界に広める。処が、肝心の日本人が読んでいない。これでは全くお恥ずかしい話しで、早速手にはしてみたが、古風な記載と言い回し、古語も多く、余り理解し得ないうちに放着してしまった、と言うのが事実であった。

お恥ずかしい話し、この時まで「入唐」を「にゅうとう」と読んでいて、「にっとう」または「じっとう」と読むのはこの時始めて知ったが、大学に6年在籍した割には、授業はさぼってばかりで、殆ど勉強らしい勉強もしてこなかったツケと言うか、レベルの低さを自覚した。

今回又新たに、「巡礼行記」を「じゅんれいぎょうき」と読むのか、「じゅんれいこうき」と読むのかの歴史的争論があったことも知ったが、いずれにしてもどちらでも間違いではなく、現代では概ね「こうき」と濁らず読むことに統一されているようである。

そのような学者間の論争はさておき、当時、この本がマルコポーロの「東方見聞録」に先駆けること400年、三蔵法師玄奘の「西遊記」に比肩する紀行文であり、当時から世界三大旅行記と位置づけられていたにも拘わらず、この日本に於いては殆ど忘れ去られたような存在であったが、機会があればまたいつか読んで見たい誘惑も持っていた。

去年の秋、友人と仙台松島、山形山寺と周遊したが、これは今から300年前、松尾芭蕉が「奥の細道」で歩いた道であり、芭蕉は当時、その先人とする西行法師が500年前に辿った歌枕を訪ねた旅路とも言われているが、僕は旅していて、この二人の先哲の心の中には、言葉には出てこないが、「自覚大師」の想いが常にあったのではないか、と密かに思っていた。事実、東北地方にある名刹、古刹の殆どすべてが円仁さんの創建になるか、再建されたものであり、先哲二人は、これ等の古刹を訪ねることによって、それぞれの名句を後世に残しているのだった。

小生この度、中国山西省「五台山」を旅行するに当たり、是非とも読んでおきたい本はこの「入唐求法巡礼行記」であり、陳瞬臣さんの「五台山清涼寺」であった。他にもう一つ付け加えるとすれば、同じ平凡社から出されている「東洋文庫」の「五台山」である。こちらは日比野丈夫先生(京大・東方文化研究所)と、小野勝年先生(龍谷大学)の共著である。

尚この「入唐求法巡礼行記」は当時77歳の碩学、足立喜六博士が敗戦からまだ日の浅い昭和22年10月に脱稿されたものであり(最後の書)、その序文に「天気晴朗一点の翳なし」と記されているのを見付けるにつけ、円仁大師同様、人間の精神力の大きさ、年齢を超えた偉大さを改めて感じたものであり、小生既に還暦を過ぎたりとは言え、まだ若輩の思いをもってして読んだのであった。世の多くの中高年に希望と勇気を与えてくれる書でもあるとその時思った。

さてその「入唐求法巡礼行記」、今改めて読み返すと面白い。実に面白い。30年前、この面白さがどうして分らなかったのか、不思議でならない。そこでこれからの数日間、実際に中国山西省へ行くまでの数日、この本を読み進めることにより、円仁さんが実体験した1200年前の旅行の大変さ、当時の唐の国の実情、見聞録、など等、素人読みで読んでいきたいと思う。このブログを見ていただいている旅行好きの皆さんと一緒に読んで行きたいとも思っている。
舞台の最初は先ず波乱に満ちた博多出航からの幕開けである。



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足立博士のこの序文「警報の警戒下印字機を操り、疎開の車上に原稿を繰りたる過去を回想しつつ、今ここに77歳の秋を送って不文の老筆を断つ。こいねがわくは、霊聖の冥護に頼り、大師求法の真績を後艮に顕揚せんことを。」
「時に昭和二十有二年十月八日
天気晴朗一点の翳なし」

の記述は読む者の感動を呼ぶ。





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桂林〜西安

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14日(日)、晴れ、桂林〜西安
朝一番で今回旅行のメインの一つ、漓江船下りに向かう。バスを10分も走らせるともう既に市の郊外で、ほこりっぽい道路の両側には平屋ないし二階建ての古びた商店、民家が立ち並んでいる。如何にもアジア的牧歌的風景。人畜獣が一緒に同居しているような感じでもある。小さな集落を幾つか通り過ぎた辺りから奇妙な形をした山々が見え始め、バスが漸くすれ違える程の細い道路の終点が漓江の船着場で、十数艘の遊覧船が岸辺に係留されている。もう既にバスも何台か到着していて、早いグループは既に船出をしている。
ここの集落はチワン族の部落で、近代化から取り残されたような、如何にも貧しそうな家並みであるが、人々は案外平和で幸せかも知れない。物売りが唯一の換金仕事なのか、人の倍もあるような大きな扇子を「千円」「千円」と誰彼になく売り込んでいる。又、写真集、貝殻、貴石、その他、売り子がまとわりついて離れない。彼等は彼等なりに今日一日の日当を稼ぐために一生懸命なのだろう。川のそばだから裸足が一番歩き易いのかも知れない。
船は漸く解纜し、ゆっくり川上に向け遡上する。今年は雨が少なく、水深が浅く、船底をすらない様、川の中央付近を走らせるが、他に同様の遊覧船が何隻もいて、丁度数珠つなぎの形になるように、ゆっくりゆっくり遡上する。奇岩、絶壁、弧峰、連山が川の両側に次々現れ、中には富士山という名前の山もあるようだ。川岸からほぼ垂直に屹立している山の姿は南宋画に出てくる奇山そっくりで、自然、天然の妙を堪能する。太古の昔、ここは海の底で、これ等の奇岩は珊瑚の塊が石灰化したもので、柔らかい部分が溶け、固い部分がこの様な奇妙奇天烈な山を形作っているとのことである。
< 桂林の 川に遊べり 小さき子 > 


川の両側にもぽつんぽつんと集落があり、川で遊ぶ子供たち、釣り糸を垂れる漁師、竹で作った小舟を上手に回漕する人、本当に平和な桃源郷のような世界が開けていた。小1時間、5−6キロ上った船溜まりで小休止、船を反転させるが、その時こそ物売りのけたたましさはない。水澄ましのように竹舟でどこからともなく集まってきて、中には遊覧船の中まで乗り込んできて、売り込みに精を出す。こちらも根負けして小さな貴石で作られた携帯電話用のストラップのセットを「千円」で購入する。一家の何日か分の生活費にはなるだろう。
遊覧船の中で周囲の景色を見ながらの昼食。広西名物のビーフン料理が出されたが、上海、香港、北京程の洗練さはない。がしかし目的は料理ではなく、周辺の景色であるから、山水画の世界を心ゆくまで堪能する。この様な時間の止まったような世界で仙人みたいな生活をするのも、老後の一つの生き方かも知れない。有難う。この桃源郷を眺めていると、自分自身の濁った感覚も洗われるものだった。
バスは再び桂林に戻り、郊外の大鍾乳洞、「蘆笛岩」へ向かう。全長2キロの鍾乳洞は東洋一とも言われ、広々とした洞内は芸術的な照明で彩られ、流石観光地の名に恥じないものだった。沖縄の玉泉洞、秋吉台、奥多摩の鍾乳洞、等々、その足元にも及ばない華美、豪華さで、団体客の誰もが感嘆していた。洞の最奥部は大きく開けたホールのようになっていて、何とも言えない青色の照明が辺りの岩肌に反射し、何か別世界の美しさを作り出している。洞は全体に高く、大きく、各部は又繊細に芸術的な照明、装飾が施され、洞に入る者すべてを感嘆さしめていた。
< ひんやりと またぞくぞくと 蘆笛洞 > 


桂林ではこの蘆笛岩観光が最後で、バスは一旦市内に戻り、工芸学院の正面にあるレストランにて桂林料理を食べる。何がどこの土地の特色かいろいろ回って混乱するが、ここ桂林もマーボー豆腐が有名らしく、食事中店のママさんがしきりにトーバンジャン(豆板醤)を勧め、丁度土産に良いからと5個セット千円を買う。また併せ桂林にちなんだ桂花茶もセットで買わされる。
一行は再びバスで桂林空港に向かい、夕方の便にて次の観光地、西安に向かう。今度の飛行機は小さく、従って天井も低く座席も小さく、ツアー客の一人に身体の大きな人がいて、安全ベルトが腰に回らず、補助ベルトを締めるような具合。満席の機はもたつくように桂林を飛び立ち、眼下に一旦桂林の街並みの明かりが幾何学的に見えたが、その後漆黒の原野或いは半砂漠を飛んでいるのか、眼下に明かりも見えず、一路西安に向かう。

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