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今回の出張は、ペルシャ湾岸地域における地域大国であるサウジアラビア、イラン、イラクがどのように同地域の安全保障に影響を与えるかを考えることが目的であった。その中、ドバイで意外なものに出会った。それは、イブン・バットゥータ・モール(巨大商業施設)の中国ゾーンに再現された鄭和の宝船が展示されていたことである。
鄭和は明代、永楽帝の命により、大航海の船団を率いた人物で、雲南でイスラムの家に生れている。第1回の航海は1405年6月で、64隻の船団による航海を行っている。その航海は、第3回まではインドまで到達し、4回目の航海(1413年)ではアラビア半島に、第5回(1417年)にはアフリカ大陸東岸まで到達したと言われる。そして7回目の航海(1431年)では、別働隊をマッカに送ったという。その目的は朝貢貿易だとも言われ、中国は大航海時代よりも先に、インド洋、アラビア海に乗り出し、世界各地の品々を手にしていた。その鄭和の船が、現代のドバイを代表するショッピング・モールに、中国のシンボルとして飾られている。これは何を意味するのだろう。
西洋諸国のインド洋支配は、インド洋航路発見後決定的となり、ペルシャ湾地域でも、ポルトガル、オランダの後、イギリスが参入した。イギリスは、東インド会社のためにスエズ運河とならんでメソポタミア‐ペルシャ湾ルートを確保した。同国の湾岸地域支配は、1971年の撤退まで続き、パックス・ブリタニカ体制と呼ばれていた。このインド洋における西洋の進出と鄭和の大航海を比較すると、交易の拡大が平和裏に進められたことが鄭和の航海の特色と言える。逆に言えば、インド洋交易に“力の理論” (武力)を持ち込んだのが西洋である。その後、ペルシャ湾地域には、イギリスの後継者として米国が進出し、“トゥー・ピラー・ポリシー(二本柱政策)”のもと、イラン、サウジアラビアを中心に湾岸政策を行った。そこでも、軍事力が正面に出ていた。
開かれた首長国ドバイは、昨年、その軍をUAEの正規軍に統合させた。世界中から投資、物、人を集めることで、国際社会にとってなくてはならない都市になることで、侵略のリスクを低下させるという新しい安全保障の意識に立っているように見えた。そして、その延長には、インド洋海域から東アジア海域を交易で結ぶ壮大な構想が感じ取れる。2006年6月、ドバイ首長のパキスタン訪問、ドバイのエマール不動産のインド・中国への開発投資計画は、まるで欧米の進出前の“平和な交易の時代”に振り子を戻そうとしているかにも見える。今、中東世界は、このような「新しい中東」に生きようとする人々がいる。一方、ローマ法王ベネディクス16世のドイツの大学での講演の言葉に非難の声を上げたり、9月11日に湾岸諸国でのテロを警告するアルカイダのザワヒリのように「現代版十字軍との戦い(キリスト教と
の戦い)」に生きようとする人々もいる。この両者の違いが何によって生じているか、考えることが大切だろう。

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