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9月22日、ヒズボラの指導者ナスラッラー師が、ベイルートでの集会(約50万人が参集)で、先のイスラエルとの紛争について、「神聖で、歴史的で、戦略的な勝利である」と語ったと報じられている。そこで、ヒズボラを取り巻く政治環境が、同紛争の前後でどのように変わったのかについて見てみる。
ヒズボラは、イスラエルに対する武装抵抗運動組織であると同時に、1992年から国民議会に議員を輩出しており、2005年5月〜6月の選挙では14人の議席を獲得し、閣僚ポスト(エネルギー・水利相、労働相)も得ている政治組織でもある。この基本的点は、紛争後も変わっていない。最大の変化は、ヒズボラとイスラエル間に、パレスチナに見られる分離壁に似た管理緩衝地帯(国連レバノン暫定軍:UNIFILとレバノン軍の展開地域)ができたことである。 紛争前のレバノンは、対シリア政策、ラフード大統領の処遇問題などで政治勢力の対立が見られながらも、(1)安保理決議1559号(2004年9月)に基づく民兵組織の武装解除の努力、(2)国民対話会合の実施(2006年3月開始)が見られていた。こうした状況の中で、イスラエルへの武装闘争を提唱するヒズボラの抵抗活動は、外国勢力との結びつきを含め非難の声が上るなど、難しい局面になりつつあった。今回の紛争後は、停戦を促した安保理決議1701号において、国際社会は、(1)レバノン・イスラエルの国境の尊重、(2)緩衝地帯の設置、(3)安保理決議1559号の履行、(4)レバノン政府の承認以外の武器売却・供給の停止などをイスラエル、レバノン両国に要請した。これを、レバノンのシニオラ政権が受諾したことで、法的には、ヒズボラがイスラエルへの武装抵抗運動を展開することはさらに難しくなった、と言える。 しかし、ヒズボラは、停戦直後、ベイルート南部のシーア派地区に対し1世帯あたり約1万2000ドルの支援を行い、住民の支持をさらに高めている。また、死者1185人、負傷者約3700人(8月14日付AFP)の遺族をはじめ、戦火に巻き込まれたレバノン人のイスラエルに対する憎悪は、対イスラエル武装闘争継続のエネルギーとなる恐れもある。そして、ヒズボラは、今回のナスラッラー師の演説で見て取れるように、紛争後のこうしたムードを上手くつかみ、“シーア派の政治組織”から“レバノン国民の政治組織”に変容しようとしている。それは、自らの武装組織の一面をレバノンという国家全体の中に上手く紛れ込ませていこうとしているようにも見える。ナスラッラー師は、紛争後、イスラエル対ヒズボラという1対1の対立構図からイスラエル対アラブ、ユダヤ教対イスラムという多元的な対立の構図をつくり、支援者を拡大する戦略を取り始めているのではないだろうか。 このようなヒズボラに対し、レバノン内部では、進歩社会主義党のジュンブラット氏やムスタクバルのサアド・ハリーリ氏などからは、武装闘争は誰のために行われたのかとの疑問が投げかけられている。そこでは、イランやシリアという国名も挙げられている。確かに、レバノンは内戦から17年を経て、ようやく復興事業が成果を上げ始め、観光業を中心に年率約6%の経済成長を遂げるまでになっていた。それが、今回の紛争で35億ドル〜70億ドルと推定される被害を受け、大きく後戻りした。レバノン再復興に努めるシニオラ政権に対し、国際社会は、(1)復興資金援助、(2)UNIFILの公約どおりの増強、(3)国連決議1701号の履行支援を柱とした国際協力を実施することが求められる。皮肉にも、ナスラッラー師が武装解除の条件として語った、レバノンに“公正で信頼される政府と強固な国軍”を作り上げることが、国際社会の共通目標でもある。 |
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2006年09月23日
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大学では、いよいよ新学期が始まります。中東地域やテロ関連の基礎を学ぶための必携書だと思います。 |
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