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2008年の米大統領選挙のプロセスを見た人々は、政治家が過去の法案にどのような判断を下したかについて、社会的に厳しい評価が下される様を目にしたと思う。それだけ、政治家一人一人の資質が問われる社会である。一方、日本の政治においては、全く異なる状況が見られている。日本の政治家は党議に拘束され、議員個人の自由意志で投票行動を決めにくい雰囲気があるため、“総論賛成、各論反対”という曖昧な態度をとってもあまり問題視されることが少ないように思う。これでは、国民が政治不信に陥り、政治への関心が薄れてしまうのも無理はないだろう。
友人のある国会議員が、心の中で自分の利益の算段をしながら公共の精神や社会正義を声高に語る議員が多いと嘆いていた。これは、国政レベルだけのことではなく日本社会の特質かもしれないとも思う。しかし、衆議院の小選挙区で有権者に拒否された政策や候補者が比例区で復活した上、国会やメディアで有権者が賛同した政策を批判できるという選挙制度が民主主義といえるのだろうか。これでは、公論の上で有権者が出した結論は無視してよいとも取れる。 さらに、司法からも指摘されている1票の格差さえ改善できない国会議員が社会格差問題を語る異常性には、さすがに驚きを隠せない。 今日のグローバル化される社会においては、国民国家内でも多様性が明確となるため政策合意を得ることは難しい。その解決のための1つとして、2大政党制のように有権者の選択領域を限定させる方法がとられる。また、争点を複数化させることで有権者個人の有利、不利を見えなくし、合意形成をはかる手法もとられることがある。 例えば、日本国憲法第9条の改正と言えば多数の反対者が出るだろうが、憲法全体のブラッシュアップと言えば賛成に回る者が増えるというように。また、政策実施を1年後に設定するよりも5年後を目安とするとして時間軸を長期化させると、さらに賛成者は増す。 このように、法案に「不確実性のベール」(veil of uncertainty)をかけることで有権者の合意を導くことができると公共選択理論では考え、民主主義という不完全な制度を運用するよう説いている。この運用の重要な担い手が有権者の代表者として選出される公職者(議員)である。私は、日本ではこの民主主義の根底が、前述の比例区での復活を可能としている制度と1票の格差により歪められていると考えている。 さて、現在、話題となっている「郵政民営化」という各論に対する賛否と「構造改革」という総論の賛否を問うた2006年の当時の小泉首相の選挙は、こうしてみると「総論賛成、各論反対」であった人々にとっては理解しにくいものだったかもしれない。しかし、米国の民主主義における政治家の判断は、しばしばこのような状況下でなされる。そして、その判断能力によって、有権者の代表者として適切な人物かどうかを問われることになるのである。 そろそろ、日本の政治家たちも、護送船団方式の政治活動ではなく、ここの立法能力、判断能力によって有権者に評価されるべき時期を迎えているのではないだろうか。その第一歩は国会改革から、と私は考える。 |
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2009年02月15日
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