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日本国憲法が施行され62年を迎えた。2007年に国民投票法が成立したことで、この憲法改正の具体的な道が開かれた。しかし、実際に改正案を投票にかけるには衆参両院の本会議で、それぞれ全議員の3分の2以上の賛成を得なければならず、今日の多様化された社会では難しいと考えられる。 憲法は改正しない方が良いのだろうか。さまざまな意見があるが、私は生活規範というものは時代の変化に応じながら、かつ厳格に解釈できる条文に書き換える必要があると考えている。そして、それを単なる多数決で行うのではなく、国民の合意を形成する努力を傾けて行うことが最低条件だと考えている。しかし、最近、国会では、公論、熟議が行われる事なく、多数の原理がものをいう場となっている。こうした風潮の中で憲法改正議論が行われることは危ういとも言えるだろう。例えば、衆・参議院の「ねじれ」現象が起きていることがどのような状況を引き起こしているのかを見ればわかる。 現在、気になる議論がある。それは臓器移植法改正問題である。これは人の死をどのように考えるかという問題と深く関係している。一般には心停止が人の死であるが、現行法では、臓器提供者に限り脳死を人の死と判定している。しかし、現在、臓器移植を増加させるために死の定義自体を脳死とすべきとの考えが浮上しはじめていると報じられている。その理由は、大きく2つある。その第1は、国際社会では臓器売買を減少させるため渡航移植を制限する方向にあることである。第2は、日本の民法では15歳未満の意思表示は法的効力がなく、小児本人が脳死移植の意思を示したとしても周囲との関係で、それが必ずしも反映されないことである。このため、臓器移植を求める人々や医療関係者を中心に、死の定義の改正を求める声が上がっている。 死に対する文化の違いにより、臓器移植を奨励する国や遺族の拒否がないかぎり、臓器提供を行う方向に進もうとする国もある。しかし、アカデミー賞映画『おくりびと』でも表現されたように、日本社会の遺体と魂に関する考えは、多数決によって合理的に法律化してよいものではないように思う。やはり、日本国憲法同様に、「国のかたち」とかかわるものであり、広義、熟議をつくすべきではないだろうか。さらには、衆、参議院のねじれや政争の具にして良いものでもない。この問題は見方によっては、憲法改正に関するレッスンともなるものであろう。
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