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現在、民主党の小沢一郎幹事長の政治資金規正法違反の可能性問題は、刑事責任から政治家としての責任など多元的観点で議論されている。 ここではこの問題について、身近な組織問題として考えてみたい。 仮に、チームのリーダーが知らないところで、チームのメンバー3人が刑事責任を問われる事態が生じた場合、会社組織では、そのチームの意思決定プロセスやチェック機能、改善システムのあり方を総点検するだろう。そして、そのリーダーに直接の落ち度がないにしても、間違いなく主要な仕事からはずされることになる。 チーム内のプロ集団(今回の事件では政治家秘書)が、リーダーの名(政治家名)で提出する大切な書類に関して不正を行ったというものである。リーダーは人事管理能力と指導力のなさを問われ、会社組織ではリーダーには不適格な人物と判断されるだろう。 これは、日本だけではない。世界水準の人事評価である。評価基準は少なくとも法律に違反する事をチェックできない体制(チーム)を運用していたという統治力の欠如を批判されるだろう。 しかし、日本ではリーダーがチームのメンバーを「信頼していた」と日本的感情論に持ち込もうとした場合、リーダーとしての能力が問われることなく済まされる可能性がないわけではない。 利益追求を目的とする組織では、一般的に効率性や合理性などが優先され、感情論的言い訳では責任逃れができない。 なぜ日本の社会空間では組織において感情に訴える発言が通用するのだろうか。それは「空気をよむ」ことが重要だとする言葉なき社会を良しとしている文化があるからではないだろうか。 今回の事件では、信頼を深めて仕事をするには、日本では「余計」と思われがちな言葉が必要だということを教えてくれている。言葉を十分に使い、仕事の状況を把握できることがチームリーダーとして身につけるべき初歩的資質であると改めて認識させられた事件である。
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2010年01月25日
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