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7月14日、フランス南部のニースでトラックを約2kmにわたり暴走させ、多数を殺害、負傷させた事件が発生した。
現在のところ、死者84人、負傷者100人以上(うち重体18人)と報じられている。
トラックを運転していた人物は警察と銃撃戦となり射殺された。
15日、パルス首相は事件を「テロ」と断定し、犯人の動機、背後関係など事件解明に全力を挙げると述べた。
15日(日本時間21時)現在、犯行声明は出されていないと伝えられている。
 
1 なぜ今か
(1)714日は1789年に起きたフランス革命記念日で、各地は祝賀ムードであった。
(2)オランド政権が今月末を持って非常事態宣言を解除すると表明した。
(3)サッカーのヨーロッパ選手権(ユーロカップ)が710日に終了し、警察官およそ10万人を動員していた厳格な警備体制が緩んでいた。
(4)夏期休暇(バカンス)シーズンに入っていた。
 
2 なぜニースか
(1)世界的に人気のある保養地である(年間の観光客数およそ400万人)。
(2)高級ホテル、飲食店が立ち並ぶ通り「プロムナード・デザングレ」(英国人の遊歩道の意)。
(3)花火大会に多くの市民や観光客が集まっていた。
(4)犯人はニース在住者である。
 
3 犯人像と手口
(1)フランスとチュニジアの二重国籍保有者(犯行に使われたトラックから身分証が発見され、指紋で確認された)。
(2)犯人は1985年生まれの31歳で、窃盗・暴力行為で逮捕歴があるものの、情報機関の監視対象者ではなかった。
(3)犯行に使用されたトラックは現場近くでレンタルした車であり、大掛かりな準備や資金がなくとも実行が可能であった(単独犯の可能性もある)。
(4)ソフトターゲットを狙った意図的な行動。
 
4 コメント
犯行の動機や組織性は捜査中であり、現在のところ不明である。
類似した犯行としては、米国のフロリダでの銃乱射事件がある。
フロリダでの事件では、オマル・マディー容疑者がフェイスブックに「ISへの空爆に対する復讐」と動機を書き込んでいる。
この事件ではオバマ政権がISとの関係性を否定したこともあり、犯人は「ISのプロパガンダへの共感者」であると解説されている。
今回の事件も同様にISへの共感者であるとも考えられる。
その一方、オマル・マディー容疑者の動機は、ISに対する空爆に巻き込まれた一般のイスラム教徒の死への復讐であると考えることもできる。
仮にそうであれば、ISに共感したというよりも、同胞愛に基づく「怒り」が見えてくる(このケースではイスラム共同体の成員として)。
警官の黒人への暴力に対する復讐と同じ構図といえる。
その場合、イスラム過激思想に強く染まっていなくとも犯行に及ぶ可能性があり、厳戒態勢を敷いたとしても犯行を防ぐことが難しいといえる。
これまで、イスラム過激思想に多くの注意が向けられてきたが、改めて、犯人を取り巻く社会環境をより丁寧に分析する必要があるだろう。
2013年は、アルジェリアでのイスラム過激派のテロ事件ではじまり、エジプトのモルシ政権の崩壊、シリア内戦の継続と軍事介入危機、イランの核開発問題の新展開、そしてレバノン、イラク、アフガニスタン、リビアで続く爆弾テロ事件と中東地域の激震が続く年でした。今年の終わりを迎えても、その揺れの収束は見えていない状況です。それにもかかわらず、ブログの執筆を随分滞らせてしまっていること御詫び申し上げます。
・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、グローバル化が進む国際社会にあって、人々の生活環境の同質化が進み、ソーシャルメディアの発達がそれに拍車をかけている。特に若者層で意識、行動の類似性が高まっているように思う。
こうした世界潮流の中、中東地域では2010年に拙著『中東を理解する』で指摘したように、その流れに合流することに戸惑っているかに見える出来事が続いている。この現象は、今後数年間は続くのではないだろうか。
そうした懸念を抱いているからか、日本の近未来を考えた時、少なからず不安を覚える。
 
仏教をはじめ東洋思想の研究に多大な業績を残した中村元は、その著書『日本人の思惟方法』に、外来語であった漢字・漢文が日本人の思想形態に及ぼした影響について、次のように記している。
和語(日本の本来の語)は「感性的あるいは感情的な精神作用を示す語彙には豊富であるが、理知的、推理的な能動的思惟の作用を示す語彙が非常にとぼしい。」したがって、「抽象的概念を和語をもってすべて表現することはきわめて困難である。」
そのような和語を用いていた日本で抽象的概念が外から入ってきた場合、どう対処したか。日本では推古朝以来、中国の漢語二字や四字熟語などを当て、さらに近代に入り、西洋の哲学思想の導入においても和語を当てず、漢字を当てた。例えば、reasonVernunftを「理性」と訳した。
つまり、日本人は歴史的に、和語を用いた哲学的思惟訓練の機会を失い、和語による哲学概念を形成することができなかった。
 
さて、安倍晋三首相は靖国神社への参拝後の記者会見で「尊崇」という言葉を使った(その他にも漢字二字の抽象語がちりばめられている)。
多くの日本人は長い歴史の中で、漢語を用いて訳された抽象概念を自分のものとして理解することなく、あいまいなまま慣例的に使用してきたと考えられる。
そうだとすれば、その漢語を含む発言が諸外国の言葉に翻訳された時、どれだけ外国の人びとに、発言者が本来伝えたいことを分かってもらうことができるだろうか。
 
「尊」の文字は「酒を神にささげる様」を示し、そこから「たっとぶ」の意が導かれ、また「崇」は「山」と「宗」から成り、山の高大な様から「あがめる」「たっとぶ」の意が導かれている。
そうなると、安倍首相が語った「尊崇の念」は、戦死者を「神」として捉え、それをあがめるという気持ちを示していると考えられる。確かに、日本には先祖を守護神と考え、あがめる伝統がある。
一方、安倍首相は、戦死者を「神」と考えたわけではなく、国家のために戦い尊い命を失った人々に「感謝」の気持ちを現したのかもしれない。
このようにどちらとも受け取れる「尊崇」という抽象語を用いて国際社会にメッセージを発信したとすれば、とりわけ一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム)の人々には理解しにくい内容になってしまったのではないだろうか。
 
今回の靖国神社訪問に関する一連の安倍首相の言動は、合理性よりも「精神的雰囲気」が勝った意思決定のようにも思える。そうだとすれば、中村元が指摘した、日本人の歴史的な特性の発現である。
しかし、すでに多くのニュースで伝えられているように、合理性の高い社会で育った外国の人々は、戦犯とされた人々も合祀されている宗教施設への参拝は奇異に映る。その結果、海外の政府やマスメディアから「不信感」が伝えられている。
意図的に「尊崇」という言葉を使い、国内に向けては「神をあがめる」気持ちを伝え(それによってナショナリズムを煽り)、国外向けには戦死者への感謝だと伝えたのではとさえ疑われかねない。
 
今日、国際社会では「多文化共生」ということが言われている。また、外交ではソフト・パワーとして自文化の発信力が注目されている。
哲学的思惟訓練の機会を逸してきた日本人が、価値観の「違いを違い」として理解し、合理性を前提に協調・協働するグローバル人材を育てることが、どの程度できるだろうか。
一方、グローバル化の中で、豊富な感性的あるいは感情的な精神作用を持つ和語を用いてきた日本人のものの見方が継承されないということが起きないだろうか。
 
欧米的な合理主義の思考が世界潮流の根底にはある。その流れの中で変化していく社会環境と世界の人々の意識を結ぶ道具として、高度通信・情報技術や高度交通システムが発達してきた。国際法や制度も創生されている。
合理主義的思考が主流ではない異なる文化を持つ国でも、その潮流をうまく利用しているところもある。一方で、潮流と自国文化がぶつかり激しい渦が生じているところもある。
中東のイスラム世界は後者だろう。
また、第2近代化が進んだ国でも、個人化やリスク社会に関する認識が不十分なまま、グローバル化の波を受け続けた場合、個人、企業、国家レベルで、国際レベルの秩序との間の混乱が起きる。
その結果、内集団の狭い価値観では許容されている言動が、国際社会のさまざまな価値観と頻繁に摩擦を起こすことになる。
今年、シリア問題で見せたオバマ大統領の政策決定の過程はその一例といえる。また、今回の安倍首相の靖国神社参拝をめぐる出来事もそうだろう。
 
「国益」の主張が目についた2013年の終わりに、日本人として百八つの鐘の音を聞きながら、シリアをはじめ紛争の中に生きる人々のことを思い浮かべ、欧米的な価値観ともいわれる「人権」について考えたい。
 
日本の地方自治は、議会の議員と首長が住民の選挙によって選出される二元代表制が取られている。この制度は相互チェックが機能するという良い面と、議会・首長間の対立が深まると双方ともが自らの正当性を主張するばかりで問題解決が進まなくなるという悪い面がある。
また、首長と議会の間の緊張感がなくなると(所謂なれ合いの状態)、行政官主体の自治が展開されることになる。そうなると、首長や議員は座っているだけということになる。つまり、住民側から「給与泥棒」とのヤジが聞こえてもおかしくない状態だ。
 
さて先般、本ブログで紹介した日大光が丘病院の問題は、区長、多数の議員のみならず区職員もこの「給与泥棒」と呼ばれてもしかたない状況から、その三者の「責任」が問われる問題へと発展している。
 
例えば、この41日をもって日大光が丘病院から運営を引き継ぐ予定の「地域医療振興協会」が、39日現在も当初予定していた医療体制が整わず、救急患者の受け入れや入院重症患者の入院継続に制限を加えることを求め始めている。
こうした事態を受け、「日大光が丘病院の存続を求める区民の会」「光が丘病院の患者の会」や近隣市民の有志が「非常事態宣言」をまとめ発表した。
 
「非常事態」とはどういう状態なのか。
日大光が丘病院は、東京都指定の第2次救急医療機関(内科、外科、小児科)として東京西北部の救急医療の中核を担っている。具体的な数字を挙げると、年間救急搬送3000人、時間外診療18000人である。同病院の救急搬送のうち1300人が小児科であること、心臓系の高度医療体制を整えていることなどに鑑みれば、今後、都西北部の救急医療に悪影響が出ることは確実である。
全国的に小児科が閉鎖傾向にある中で、同病院の撤退により、子育て世代の若い親たちにとって、またしても不安要素が生まれることになった。
さらに、3.11以降、首都圏直下型地震の確率が高まっているとの指摘がある中、大勢の避難場所となるであろう大きな公園に隣接する地域の中核病院を失ってしまうことにより、住民にとっても大きな不安を抱えることとなった。
 
安心、安全に子育てができる環境の整備こそ行政が担う大きな責任の1つである。また、自然災害などのリスクを見きわめ、危機管理体制を整えておくことは行政の義務である。
地方自治体がその環境・体制を後退させ、区民のみならず周辺地域にも多大な悪影響を与えることが予想される選択をしたことの責任は重い。
また、区議会の多数派(現在は区長と同じ保守系政党)は、区長および行政官側と同一行動をとっている。その上、後継予定の地域医療振興協会に約5億円を当てる新年度予算案を可決している。
この5億円のおよそ半分は建物の補修費用、残り半分は電子カルテ導入費用である。この電子カルテは同協会の独自システムとなるとのことだが、41日の開設時に間に合うよう早急に準備をしておく必要がある。
電子カルテの導入については、9月に新病院の運営者として地域医療振興協会に決定した後の11月の区報で、区長が言及している。練馬区の財政赤字は厳しい状況にある。果たして、電子カルテのシステムの整備は区側が引き受けるべき条件なのだろうか。
 
区長および区、そして同協会は、おそらく新病院は、医師数が足りず、救急医療機関の指定が取れなくなることは想定内であっただろうとの噂もある。
仮にそうであれば、地域住民の不満や抗議の声が上がることも想定し対策を練っていただろう。またそうであれば、その背景には、どのような苦情が市民から寄せられても、地域医療振興協会側は光が丘に是非とも進出したい、一方、そうさせたいと思う人々がいるのだろう。それは、電子カルテ導入費を区側が負担することや、日大病院がそろえた高度医療器材をそのまま引き渡すという条件から見てもうかがえる。
光が丘地域は高齢化が進み、新病院しか選択できない住民が多い。新病院は、言わば、小さく生んで大きく育てることができるとの穿った見方もある。
 
以上、区長、区議会議員、そして区の職員が、区民のニーズとかけ離れた観点で政策をとっている事例を紹介した。
このような状況は、練馬区のみではない。
そうした日本の状況を改善するには、市民の政治参加を進めていくしかないように思う。

市民と基礎自治体

市民にとって、基礎自治体は身近な生活の中の課題や問題に直結するものであるため、その行政のあり方に注目する人が多い。したがって、「遠い」対外政策などと異なり、市民の行政評価は往往にして厳しくなる。
しかし、基礎自治体が開かれた民主的組織として政策決定や行政運営をしなければ、公正な評価はできないのも確かである。
 
国際社会でも21世紀は地方分権化の時代だといわれている。
しかし、日本では古い行政システムや「官尊民卑」の思考で業務を行っている基礎自治体が少なくない。そこでは、首長、議会、幹部職員が「市民生活重視」を公言しながらも、実態は市民益とはかけ離れた施策がなされ続けているケースが多いのではないだろうか。
いわば、「みせかけだけの開かれた民主的組織」である。
 
以下に、フジテレビの「とくダネ!」をはじめ多くのマスメディアでも取り上げられた、練馬区の「光が丘日大病院撤退問題」を事例として考えてみる。この事例は私の身近な問題でもあるのだが、ここでは撤退の是非を問うのではなく、政策学の観点から論じることにする。
そのことで、「市民軽視」の施策がとられることが多い日本社会の特性について個々人が考える契機となればと願っている。さらに言えば、東日本大震災での国、県、基礎自治体の三層構造と、タテ割りの省庁の行政により、大きく復旧、復興の推進が遅れている実態や、日本経済の長期低迷の要因を解明する一つのヒントが得られると信じるからである。
この問題を考察するための道案内となるキーワードは「行政運営の民主化」「分権自治のまちづくり」である。
 
さて、練馬区の日大光が丘病院の撤退問題においては、次のような行政運営上の課題が見えてくる。
1は、首長の公約実現の政治的運営能力である。
練馬区の区長は3.11後の統一地方選挙で、日大病院の撤退を知りながら同病院を含む5病院構想を掲げて当選を果たした。
日大光が丘病院は救急搬送患者の23%近くを練馬区外(板橋区や和光市)から受け入れている東京都にとっても重要な地域医療拠点である。したがって、この高度医療体制を有する病院が撤退を申し入れた時点で、区民のみならず周辺地域の住民に周知した上で、市民の要望を収集した上で公約を作成し、選挙に臨むべきだった(対立候補者がその事実を知らない状態であったことは、選挙自体の公正さが疑われることにもなりかねない)。そして、当選した暁には、その公約について可能なかぎり経過を公表しつつ実現に向け政策を実行していくことが、真に開かれた民主主義における基礎自治体のトップ・マネジメントだと考える。
 
2は、市民との合意形成や市民の声に対する行政組織の対応能力である。
確かに練馬区は数回、撤退に関する説明会を開催した。また区議会での質問にも回答している。しかし、これだけで基礎自治体の「情報の共有」「市民の区政参画」のための扉を開いているといえるだろうか。
公正で民主的な行政の推進をめざし、横須賀市は20017月に「市民協働推進条例」を施行した。また、北海道石狩市も「行政活動への市民参加推進に関する条例」をつくっている。このような市民と行政が協働して、まちづくりを推進しはじめている基礎自治体が増えつつある。そこでは、コミュニティの自主性や自立性と人々の連帯が重視されている。
そのようなケースでは、コミュニティ空間において学校や医療施設が果たす役割も大きくなる。そして、そこに暮す人々と行政組織との合意にもとづく計画づくりが重要となる。
 
練馬区は、「ともに築き、未来へつなぐ、人とみどりが輝く、わがまち練馬」を長期計画の基本構想として掲げている。しかし、予算を発表した『ねりま区報』No1602号には、日大光が丘病院の撤退の詳しい経緯と後継病院の準備状況についての言及はない。また、この問題について、どのような方法で「市民パブリック・コメント」をとったのか、とったとすれば、それはどのようなものだったのか、それをどのように踏まえて、政策形成・決定したのかについてのプロセスが開示されていない。
数度の説明会や区議会の代議員による討論は形骸化し、市民との合意形成を図ることがなされなかったといえそうだ。
 
3は、行政組織の首長や幹部職員の活性化能力である。
一般に、行政組織では研修や昇級試験など幹部職の人材育成のためにさまざまな工夫がなされている。しかし、政策決定者は唯一自分であると勘違いしている首長や幹部職員は多いのではないだろうか。
 
練馬区の場合、120人の医師を配置した日大光が丘病院の医療体制と「同等の規模・機能」の存続を、以前、区長が区報で公約したにもかかわらず、医師70人の体制の新病院の開設を推し進めている。さらに、新病院への引き継ぎ前2カ月の時点で、その70人さえ確保できない状況にあることに対し、区長は「いずれにせよ時の流れの中で解決するという形にならざるを得ない」(131日の区長の定例記者会見)と述べている。また、以前に開かれた区主催の説明会で、新病院の医師、看護師などの募集状況が思わしくないことを指摘した市民に対し、「新病院を暖かく育ててあげてください」と回答した区幹部職員も区長と同じ意識であると言える。
問題は、行政側に、現在の日大病院よりも「50人」の医師が減ることで「医療の質が確実に低下する」ことから、広域の人々にどのような悪影響が生じるかについてのリスク認識が不足している点である。そして、区長の言う「時の流れの中で」医師の人数が70人に達しない可能性が高まっているという状況の悪化に対し、政策改善ができないことである。
「政策立案、決定、実施」という過程の中で、立案時点と実施時で環境変化が生じた場合、すみやかに市民意志との合意形成を再度図り直し「政策修正」を行う能力が、現在の「リスク社会」で公務員にとって特に求められている。しかし、このような能力を伸ばし、発揮することが、「組織文化」によって阻害されることが多い。
 
最後は、代議員制における代議員の専門性である。
練馬区は平成24年度会計予算を35309370万円(うち一般会計22756384万円)で組んでいる。その中で、日大光が丘病院撤退後の新病院開設のため、51095万円を計上している。
予算審議において、区議会はこの支出を「地域医療の質の確保に必要な費用の一部の補助」として認めている。果たして、区議会議員はこの支出について審議する際、区の行政側からどのような根拠に基づき、「効率性」について説明を受け、是としたのだろうか。
区報では、老朽化に伴う改修と電子カルテ導入のためと説明されている。区議会は、日大光が丘病院の撤退にともなう「医療の質の確保」への市民の危惧を、この予算処置で解消できると考えたのだろうか。区議会議員はもっと区民の声を収集し、要望の確認に努めるべきだろう。
 
また、本件に関して、区と日大との一連の協議内容や、区と新しく開院する病院の選定条件や選定過程の透明性の確保のためのチェック機能は働いたのだろうか。特に、20年前に日大側が区に貸し付けたものだとし、区は開院のための保証金であり契約が更新される限り返還しないものだとして解釈に齟齬が生じている50億円といわれる資金に関し、区の会計処理がどのようなものであったのか、契約書とこれまでの計上処理に関する一連の関係文書を公開して検証する必要があるのではないだろうか。
区議会議員は、単に地域の「面倒見の良い人物」「顔役」ではなく、有給である限り、行政知識や会計知識の専門性を高める努力が求められる。
代議員制における代議員としての専門性は、国政や地方自治ともに問われるべきである。
 
こうして、この練馬区の事例では、日大光が丘病院存続を求め、地域の医師分およそ15000筆を含む3万以上の署名が集められた。この民意は、「もう一回元に戻して、日大に頭を下げてお願いします、というのは私はとてもできない」(131日の記者会見)との、区長の、見方によっては個人的ともとれる柔軟性のない思考によって、無視された形となった。
このことにより、区長、区議会議員、区職員幹部が、利害が対立している社会問題を解決する専門能力、倫理観への疑念を市民が抱くこととなっている。
 
以上、練馬区の1つの施策を事例として見てきた。
このような首長、議員、公務員による増分的(インクリメンタルな)思考では、「新しい公共」は形成できないだろう。
市民の側にも、いわゆる「アラブの春」「99%運動」また日本での「おかあさん革命」のように、ソーシャルネットなどの利用方法をより工夫し、若者を含めた幅広い市民の連帯意識を形成する能力を身につけていかねばならないと言えるだろう。
 
日本経済の低迷により、国や地方自治体の財政運営はより厳しいものになっていく。だからこそ、「公平」「公正」「効率性」を重視した政策形成が求められる。
その最前線である基礎自治体において、「行政運営の民主化」「協働によるまちづくり」への取り組みは欠くことのできないテーマとなっているのではないだろうか。
練馬区の事例を1つのばねにして、日本の地方自治における民主化の深化が、今後少しでも進むことを強く望んでいる。
(自戒を込めて)
 
131日の練馬区長の記者会見は次の産経新聞の記事を参照した。http://sankei.jp.msn.com/region/news/120201/tky12020110090000-n1.htm 
※ 次のウェブサイトなども参照。
日大光が丘病院の存続を求める区民の会 http://www.geocities.jp/kuminnokai/TOP.html
医療ガバナンス学会メールマガジン http://medg.jp/mt/2011/12/vol34412.html 
明日、東日本大震災から半年、そして米国同時多発テロから10年を迎える。
どちらの出来事も、その後の社会を大きく変えた。
 
長年、中東社会を見つめ、この10年間は「テロとの戦い」も見てきた身として、今、「多文化共生」という理想の実現におぼつかなさを感じている。
国際社会では相互依存や移動性が高まっており、多くの場所で異文化接触は日常と化している。
その異文化接触によって生じる人々の行動パターンは、(1)排他主義、(2)包括主義、(3)多元主義に大別できそうだ。
排他主義は、自分の立場を絶対視し、他文化を否定的に見る傾向が強い。
包括主義は、他文化を理解するが、その内容は自文化の中に内在しているものだとして、他文化を自文化に包括してしまう。
多元主義は、文化の違いを違いとして理解しようとする。
 
排他主義の具体例を挙げると、9.11テロ事件の犯人たちは排他主義的であり、ジハード(聖戦)を唱えて他文化に対応している。
一方、テロの対象となった米国社会にも(1)宗教的観点、(2)地域性などから排他主義的に行動する人々は少なからずいる。特に、9.11テロ事件後の米国社会では、イスラム教徒や西アジアの人々との厳しい文化摩擦が起きてきた。アラブ系の人々の中には、暴力や差別により被害を受けた者もいる。
これは、ハーバード大学の故ハンチントン教授が、指摘した「文明の衝突」の表れだといえるのではないだろうか。
 
次に、包括主義の例を挙げよう。一神教には共通性が高い六信(神、経典、天使、預言者、来世、予定)がある。この共通性をもとに、他者が信じる神への立場は自分が信じる神の教えの中に含まれているとして、他の一神教を理解してしまうのである。一見、共生ができているように見えるが、包括した側は自分の立場を変容させる柔軟性に乏しく、包括された側からの強い反発が見られる。
 
多元主義には2つのパターンがある。エベレストに登頂するためのルートは複数あり、1つのパーティーの各人が身勝手に好きなルートを選択して登ろうとすると、そのパーティーの頂上到達は遠のく、というのが1つ目のパターンである。2つ目は、登頂を目指すという点では一致しているが、目指す山頂自体が異なるというものである。
違いを違いとして相互に理解しようとする点は評価できる。しかし、欧米諸国のキリスト教文化をベースとする社会で暮らしているキリスト教徒とイスラム教徒の間に生じている摩擦を見れば、多文化主義の問題点がわかるだろう。
 
9.11テロ事件から10年。異なる価値観・文化の人々との共存について語られ続けてきた。しかし、9.11事件で死亡した人々の数(2976人、90か国以上)をはるかに超える人々が、その後のテロ事件および「テロとの戦い」(アフガニスタン、イラクなど)で亡くなった。その数は、224000人とも257000人とも言われている。
そのことに鑑みれば、多文化共生は幻想だとも思える。
そこで、山を登ることだけを考えるのをやめて、「いろいろな山を登る者もいれば、下る者もいる」という現実を見つめて、公議しあうことが重要となる。
東日本大震災の復興においても、このような観点で国民的な公議がなされないことが残念である。
 

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