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私のような平凡な日常的人間にとって、現実から意識が次第に遠のき、無意識の中で動作が進み「無」といわれる瞬間を迎えることははまずない。しかし、道を究める人にとって、意識を沈めることはそんなに難しいことではない。
ロシアのプーチン首相が世界で一番尊敬する人物は、柔道の山下泰裕氏(ロサンゼルス・オリンピックの金メダリスト)だそうである。まさに山下氏の強さは、武道の心を日常の暮らしの中で生かしたことから生まれているとも言われている。一方、今年の日本の男子柔道は、北京オリンピックを前にして、不覚をとる人物が続出している。 不覚は、東洋思想において、「根本不覚」と「枝末不覚」に二分される。前者は、ありのままに照見することができないことで、宗教上の術語では「無明」を言う。後者は、想像上の自分を自分だと誤認し、その結果、悩み、苦しむ実存のあり方で、宗教的には煩悩の渦に巻き込まれていく実存を言う。 道を究めるとは、日常の暮らしの中においても不覚に陥らぬよう努めることなのかもしれないと思うことがある。しかし、私自身は日常生活に追われ、不覚に陥った状態の中でもがいている。そうした私でも心配になるのは、現在の日本の若者たちの中に不覚についての認識がないままに日常生活を送っている者が多いのではないかということである。その結果、「何とかなるさ」とこれまで思いもよらなかった行動をとったり、それによる失敗を人のせいにしたり、色々と言い訳を述べる風潮が強まっているように思う。 山下氏は、オリンピックで足の怪我を押して決勝戦を戦い、金メダルを獲得した。その勝利の最大のポイントは、山下氏が相手に隙を見せなかったことだとの分析がなされている。それは、山下氏の日常生活の中で養われたものであることがうかがわれる。そこから見えることは、意識の自己コントロール(意識を沈めること)の重要性である。 |
社会・文化
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2006年の経済協力開発機構(OECD)における国際学習到達度調査(PISA)で、日本の子供たちの応用力不足が明らかになった。これを受け、日本の教育のあり方が多面的に議論され、学習指導要領の改定がなされ、授業時間の増加などの教育改革が開始された。
しかし、教育内容の議論が十分だったとは言い難い。例えば、教育現場において、小学校低学年については基礎知識習得のための反復練習が必要だと強調する者もいれば、知識習得よりも考える習慣や集中力を身に付けさせた方が良いとの意見を持つ者もいる。後者の代表的論者としては、広中平祐氏(京都大学名誉教授)や西澤潤一氏(首都大学東京学長)が挙げられる。特に西澤氏は、暗記型学習を繰り返す中で次第に考える習性が薄れていくと指摘している。 私は、この2人の著名な研究者のように思考力について確固たる持論をもっているわけではない。しかし、教育の現場に立つ者として、現状から先を読む力、現象や結果を理解する力は、現行の暗記型の日本の教育では十分に育てられていないと感じている。リクルートワーク研究所の2005年の調査では、大学生の8%しか学習能力や学習意欲を持っていないとの結果が出た。また、学生の50%は学習意欲が低い状況だという。おそらく、暗記型学習に疲れ果てているという状態ではないだろうか。 そうした日本の大学教育の状況を見抜いてか、日本の会社は高学歴に厳しい評価を下しているようだ。修士課程修了者に関しては、人文化学系では25.8%、社会科学系では22.5%が就職できていない。また、博士課程修了者については、2006年で人文系71.8%、社会系59.4%が職を得られていない。こうして見ると、日本の教育はこどもに膨大な知識を暗記させるが、社会ニーズにあった人間を育成できていないと言えそうだ。 この点からも、教育改革の必要性があると提唱されているのであるが、改革の中身は首を傾けたくなるものとなっている。例えば、脳科学や心理学の研究が進む中で、小学校を4年、中学校を5年とする義務教育が注目されている。しかし実際には、義務教育と中等教育を組み合わせた受験対策型とも受け取れるような中高一貫校の設置が推進されている。これでは、暗記型教育の強化になりかねないのではないだろうか。また、大学教育に関しては、全入時代の対応として大学の質を保証するために、到達目標や学習成果を測る卒業認定試験の実施の検討に入っている。これが暗記型の教育の延長にならないことを願う。 21世紀の国際社会は多様な価値観や意識の対立が頻繁に起きている社会ともいえる。そこでは、これまで以上に柔軟な思考能力が要求される。やはり、日本の教育改革は、広く国際社会に生きる人材を育てることを念頭に、思考力、集中力、忍耐力を養うためのものでなければならないと考える。 |
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2月7日、英国国教会の最高指導者カンタベリー大主教のウィリアムズ氏は、英国内でのイスラム法(シャリーア、フィクフ)の部分適用を容認すべきとの発言を行った。これに対し、英国政府や英国国教会内部からも当惑の声が聞かれていると報じられた。
カンタベリーはイングランド南東部のケント州に位置し、古くから大司教座のある町であったが、1559年にエリザベス1世の「統一令」により大司教座が大主教座となり、英国国教会の中心地となった。エリザベス1世は当時、プロテスタントとカトリックの共存という現実的政策を実施した(中道、Via Media)。それは、政治的にはローマ教皇庁から独立するが、教義的にはローマ・カトリックという他のプロテスタントには見られない文化統合政策であった。 今回、ウィリアムズ氏が、エリザベス1世の時代のような宗教対立について、どれだけ高い問題意識をもって発言をしたのかその真意は分からない。しかし、西欧法が実施されている社会にあって、イスラム教徒に対してはイスラム法を一部適用するとの発言は、英国の歴史に残る一言だといえる。この発言の背景となっている英国社会の現状を次に少し説明してみよう。 イスラム法はコーランに包含される抽象的な神の則の体系(概念)であるシャリーアとその具体的内容を構成しているフィクフがある。ヨーロッパ社会で暮らすイスラム教徒の一部は、このフィクフに従った家族生活(例:離婚、結婚、遺産相続)を送っている。これは、国民国家内で法の統治が及ばない共同体が存在していることを意味する。例えば、イスラムで許されている多重婚が、法的に一夫一婦制の社会でまかり通っている。こうした現実を、今回のウィリアムズ氏の発言は容認することになる。それは、英国社会において拡大するイスラム移民の人々との文化的対立を激化させるよりも、違いを違いとして合意して共生する社会を築くべきではないかとの提言とも思える。しかし、他者の生活規範を非公式に認めることは可能でも、近代国家において法律や裁判などの公式レベルで二重基準を容認することは、かえって社会の無秩序を生み出すことになりかねないとの意見もある。それは、移民が「国家内国家」をつくるのではないかと国民が脅威を感じる状況を生むとも言われている。 今回のことは、近代化の中で人権、自由、民主主義を確立したヨーロッパの移民受入国(ホスト国)において、移民の権利を要求する声が強まっていることの表れとも見える。今後、今以上の移民を受け入れることになる日本にとって示唆に富む出来事だと言えるだろう。 |
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中国では大雪により交通危機が起き、50万の軍を投入し除雪作業を行っている。一方、日中間では現在「中国製餃子」への毒物混入事件が問題となっている。こうした食をはじめとする「安全」にかかわる事件を見ていると、日本と中国では一般の人々が「安全」という言葉に持つイメージが異なっているように思える。
これに関し、気になるのは日本のメディアの報道振りである。特にテレビの情報番組はニュース番組と異なり、番組内容の客観性、公正性を保つことに多少甘さが見える時もあるようだ。過去の例でいえば、松本サリン事件(1994年)で通報者であった河野氏が犯人のように取り上げられ報じられた。また、最近では香川県坂出市祖母姉妹殺人事件でも犯人像に誤解を生むような報道も見られた。今回の中国製餃子事件では、以前からの中国産の不良農産物、不良製造品に対する不信感が、報道内容に見え隠れしているように思える。例えば、中国の農家での農薬使用方法に関する報道である。 日本語の「真如」という言葉は、本然的にあるがままという意味である。現実に真如の状態があるのかどうかは別にして、報道番組作成に当たっては、虚妄性の否定の「真」、無差別普遍の自己同一性を示す「如」を一つの目標とすべきではないだろうか。「道」という文字は「あるがまま性」の意味を含んでおり、「報道」にはこの「あるがまま性」を求める姿勢が必要ではないかと考える。 イメージ的、情緒的に事実とその周辺情報を結び付けてはならない。今回の餃子事件で、国家や個人に報道被害が出ないことを願う。 |
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12月9日の日本経済新聞に岩波書店が、教師100人(5年以上教えた経験者)を対象に行った調査記事が掲載された。その中で、小学生の国語力の低下について、「非常に低下」(15人)、「やや低下」(73人)との回答が87%に達した。そして、その原因について「本を読まなくなったこと」「間違った文法や言葉遣いが流布」「辞書を引かない」の順で指摘されたと紹介されている。
昨日、地方の中学校の教諭をしている知人が、産休後に復職して、生徒の変化に驚いたと話してくれた。1年生の中に授業中15分程度しか集中力が持たない生徒が増えている、そして言葉遣いが乱暴な子供が増えているという。わずか3年間で急激な変化が起きているのかと驚いていたら、宿泊した旅館のロビーで5人の子供たちが走り回り始めた。挙句の果てはロビーの椅子の上を土足で渡り歩いている。旅館関係者が注意をしても止めない。他の宿泊客も眉をひそめている。保護者はいないのかと見渡すと、母親たちと思しき人たちがソファーで談笑している。これが日本の家庭教育の現状かと、また驚いた。 経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査(PISA)や、先述した岩波書店の調査についてメディアが取り上げると、学校教育では思考力や表現力など「考える力」を育成しようとしていないとの批判がなされることが多い。しかし、先のエピソードを礼に取るまでもなく、今日の日本社会における子供たちにかかわる状況を見ていると、自己と家庭、学校、社会のつながりが一層希薄となり(物理的にも精神的にも)、学ぶ意識や視野が大きく変化しているように思う。PISAで常に上位にあるフィンランドでは、冬が長いこともあるが、親が子供に本の読み聞かせをする時間が長いことが指摘されている。家族の力に支えられて、子供たちは難しいテーマでも取り組む意欲と理解力、そして論理的思考能力を高めているようだ。また、考える習慣をつける就学前教育も行われているという。学校のみならず家庭においても「正解主義の教育」が行われている日本とは大きく異なる社会である。 また、フィンランドでは、東アジアで見られるような受験産業に煽られた受験競争は見られないという。日本社会でも、大学全入学時代、少子高齢化社会を迎えつつあり、“競争”という重しが取れはじめている。しかし、それは逆に、「学ぶ」ことへの意欲や関心を一層低下させる方向に作用しているようにも感じる。グローバル化社会において急速な変化が進んでおり、現実と認識の乖離は多方面で頻繁に起きている。こうした時代だからこそ、学んだ知識を現実の中で応用し、問題を解決していく能力が特に求められている。国際社会での日本の地盤沈下を止めるには、公立中学校の通学範囲を一つの単位とした草の根の「地域の教育力」を高める努力が重要ではないだろうか。その一方、その努力の効果が現れるまでは、人材を社会に送り出す“最後の砦”とも言われる大学での教育のあり方がこれまで以上に問われると改めて認識した。 |



