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ノーベル化学賞の野依良治氏が「文化を尊ぶ文明」を創ることの大切さを語っていた(11月23日付「読売新聞」)。同氏は、知性と感情によって育まれた文化を現代社会が侵害し、社会をおろかな人々の集まりとしてしまうことを危惧すると述べている。これは、現在の教育にも当てはまることだろう。
教育は本来、それぞれの子供が持っている能力や環境に応じて、一人一人の知性と感情を社会の中で育てていくということが目的である。しかし、日本の教育はいつの間にか、大人や社会の都合のよい型にはめることが教育だと考えるようになっている。社会は、教育を単なる教育産業(教育サービス機関)として自由市場の競争の場に引きずり込みつつある。親は時に、その教育産業が理想として提示したいくつかのパターンから子供の将来像を選び、それにそって育てることが子供のためだと考える。そして、今日の教育改革はこれを助長する方向にあるように思える。 多額の国民の税金を投入し教育を大切にしてきたのは、それが単に人材育成という機能だけでなく、地域社会や国家が育んできた文化の継承という“公共”のことに関わる機能を有しているからではなかっただろうか。この公共財としての意識が薄れ、受験予備校化する教育現場で、子供の自殺が後を絶たない。文部科学省はこの8月、有識者を集め検討会を発足、報告書をまとめて自殺防止マニュアルの作成を進めている。このようなリスク・マネジメント論的発想で、子供の“自殺”を取り上げてよいのだろうか。何故、子供が自殺するのかを理解するには、子供の目線で課題を考えることが重要であることは言うまでもない。社会の成果主義を教育に持ち込まず、がまん強く個々を見守り、それぞれの知性と感情が育つように声をかけ続けられる時間のゆとりを教員に与えることが大前提だと思う。 「社会を愚かな集まり」としないために、日本の教育に必要なものは、人間にとって“便利”“快適”など心の置き様によって評価が変わるあいまいな価値観ではなく、“人間の存在”そのものの本質を深めていく哲学ではないだろうか。先日、千葉県のとある公立高校で「国際学」のモデル授業をする機会を得た。生徒たちの、のびのびとした受講態度を見ながら、“教えてやる”のではなく“考えるきっかけを提供すること”が大事だ、そうすれば学生の能力が引き出せる、と語って下さった大学の恩師の言葉を改めて心に刻んだ。「忙しい」とは「心が亡くなる」ことだと言う。大人も子供も忙しく動いている現代社会だからこそ、人間の存在についてじっくり考えることができる知性と感情を育てねばならないと考える。 |
社会・文化
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11月16日、衆議院本会議で教育基本法改正案が与党の賛成多数で可決された。これで、同法案は12月15日までの会期期限内成立を目指し、参議院で議論されることになる。
日本の教育の現状は、いじめ問題や未履修問題で自殺者が相次ぎ、病気に例えれば、深刻な症状が出ている。確かに治療は一刻を争うものの、その症状は何の病気によるものなのか、しっかり見立てて分析する必要がある。その意味で、現在行われている教育基本法の審議は、長く待合室で待たされた挙句、しっかり診察もせずに薬と注射で治療しようとする評判の悪い病院のように見える。 子供の権利について語られている『エミール』(1762年)の著者でもあるフランスの啓蒙思想家ルソー(1712−78年)は、良心こそが正義と徳の生得的原理だと述べた上で、次のように語っている。良心は人間を善に向かわせる。しかし善とは何かは良心は教えない。良心に善を提示できるのが理性であるが、それは常に啓蒙されているわけではない。彼のこうした観点から現在の教育再生を見ると、底の浅さが感じられる。例えば、教育の現場では、生徒たちが授業内容について先生に、「これ試験に出ますか?」と頻繁に質問すると聞く。やらなければならないこと、やりたいことが膨大にある中で、最大限に効率的に動こうとする子供たちの姿がそこにある。また、皆と同様に効率的に動かないと周りからいじめにあってしまうとも言われている。この効率性を教師ともども求めた究極が、未履修問題であろう。そこには、良心や善という概念が入る余地もない。 こうした現状に対し、日本政府は、子供たちのモラルや学ぶ意欲の低下に対する処方箋として、教育基本法を改正し、教育に対する基本的な考え方や価値観を日本人に共有させようとしている。官製の良心や善というものがあるのだろうか。むしろ、家庭や地域社会が果たす役割の方が重要である。しかし、その家庭が高学歴化、受験教育偏重を求めている。そして家庭を取り巻く社会は、それを黙認するどころか煽っている。核家族化、情報化社会、物質優先社会の中で、家庭や地域社会が道徳性の基盤を失いつつある。 そうしてみると、教育の再生にとっては、制度改革よりも家庭や地域社会を中心とした現代流「心の作法」の実践が必要なのではないだろうか。換言すれば、文化的意味体系の世代間のバトンタッチの再生である。日々の家庭や社会生活の中で、実践を通し自らの自由意志で考え腑に落としていく。そうした作業があって初めて良心に従い、判断、行動できる人間が育成されるのではないかと思う。 |
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今回、奈良を訪問中、木造の歴史遺産を眺めながら、宮大工の故 西岡常一氏について思いをめぐらせていた。同氏は、ご存命であれば、是非お目にかかり、お話しをお伺いしたかった方の一人である。
西岡氏は、法隆寺の昭和の大修理や薬師寺金堂の再建に携わった人物で、著書の『法隆寺を支えた木』は中学校の教科書でも紹介された。同氏は、その著書で、建築に際して、木の性質を知り(木の声を聴き)、その性質に合ったところに使うことが大事だ、そのことで切り倒された木は建築材として再び生命を持って生きるのだと語っている。例えば、山の北斜面に生えていた木は北側の建材として生かす、というように。同氏のこうした考え方は、私自身が大学教員としてどれだけ学生の声に耳を傾けているか、学生一人一人の個性を生かした授業ができているか、と反省する際の指針となっている。 しかし、今回の古都訪問では、これまで以上に西岡氏の木へのこだわり方について考えさせられた。それは、日本中で話題となっている「高校の履修漏れ問題」について違和感を抱いていたからだろう。 この問題に関し、これまでマスメディアは、“受験期に何故こうした問題が表面化したのか”“悪いのは誰か”“文部科学省の対応と与党の対応の温度差”など、様々な角度から報じている。しかし、教育は、建築が単に目前の雨風をしのげれば言いというものではないのと同様に、数十年の変化を見込んで行わねばならないことは、これまで指摘されてきたことである。一大学教員としてこの数年、教育が“受験教育化”し、高学歴化が奨励されたことで、高等学校、短期大学、大学での各教育の意味が根底から見失われてしまい、それが日本社会に歪みをもたらしているのではないか、と感じてきた。それが、今回の問題の本質ではないだろうか。“個性ある教育”を謳いながら、どの教育課程でも、一律的な、目の前の受験を勝ち抜くための鋳型を使って、人づくりをしてきたように見える。推薦入試、AO入試など選抜方法が多様化されても、その状況はあまり変わっていないように思う。今回、履修漏れが発覚した高校の中には、現行の文部科学省の制度は“人格形成教育にそぐわないため”、カリキュラム変更をしたのだと主張するところもある。全校生徒を前に、文部科学省の制度や指導は誤っていると非難し、自校のカリキュラム変更は正当であると主張する学校長の姿も報じられていた。こうした高校は、進学率向上への内外からの圧力や、競争を煽るマスメディア、受験産業に乗せられて、カリキュラム変更をしたわけではない、と明言できるのだろうか。 西洋建築には、建築物を解体して修理する発想がない。これに対し、日本の木造建築は一旦解体して、使える木はそのままに再度組み立て直す方法をとってきた。グローバル化の中、教育の世界でも均質化が進んでいる。しかし、日本という国の教育を考えるとき、やはり日本の風土の中で長い歴史をかけて培ってきた人づくり、ものづくりを再考することが重要だと考える。一度失われた技術を取り戻すことは難しい、と西岡氏は語っていた。悪者探しや人を批判する教育現場や保護者など今の社会を担っている“大人”こそ、一つ一つの木を知り尽くす努力、それを適所に用いる努力をし続けた棟梁、西岡氏の「心」を認識してもらいたい。自戒を込めて、そう思う。 |
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関西地方で仕事の合間に第58回正倉院展を訪れた。今回の展示品の中で印象深かったものの一つが、緑瑠璃(みどりるり)十二曲長坏(じゅうにきょくちょうはい)である。正倉院には6つのガラス器があると聞く。その内5点は濃い青や白色の器で、ペルシャ産のアルカリ石炭ガラスだという。しかし、今回の展示品は中国産に多い鉛ガラスで、銅の混入により緑色になっているのだそうだ。
一方、形に関しては、名前どおり口縁が12箇所で屈曲しており(多曲坏の一種、その他に四曲と八曲のものがある)、ササン朝ペルシャ(226〜651年)でつくられ西アジア地域に多く出土しているとのことである。そして、その後、隋、唐時代の中国に伝播し、類似の者が多数つくられている。つまり、今回の展示品は、形は中東地域に起源を持ち、原料は中国産のものとなっているようだ。 日本の平城京と東ローマを結ぶシルクロードは、世界の交易ルートであり、もの、人、情報が盛んに行き交っていた。そこに生きる人々は、よりよく生きる工夫を重ね、外来の文化を自文化に取り入れてきた。時には何世代もかけて形を変え、今日まで受け継がれてきたものもある。和辻哲郎が述べたように風土が人間の思考に影響し、その思考は、宮本常一が述べたように道具に反映される。正倉院展で出会える宝物は、見学者にとって一期一会ともいえる品ばかりである。1250年前につくられた正倉院に収められている宝物が語る当時の人々の思考とじっくり向き合うことが大切なのだと思う。 しかし、今日、話題を呼ぶ博物館の展示会では、説明文から知識を得ることに熱心となるあまり、“もの自体”が発するメッセージを受け止めることを忘れている人が多いのではないかと思う。現在、問題となっている教育論議でも、同様のことが言えるように思う。子供たちと向き合い、彼らが発しているメッセージを受け止めれば、現在の日本の風土(社会)の歪みにも気がつくはずなのだが。 |
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10月27日、パリ郊外での事件に端を発したイスラム系移民の2世、3世による暴動から1年を迎えた。今年も9月からバスへの放火事件が起きるなど、依然としてフランスが頭を抱える治安問題の一つとなっている。また、英国ではイスラム女性のニカーブ(目以外の顔を隠す服装)論争がくすぶり続けている。そこで、ヨーロッパのイスラム移民について考えてみたい。 第1は、個人、共同体、国家の関係である。イスラム教徒の一部には、イスラム共同体(ウンマ)が重要であると主張するあまり、国民国家の中にいくつか存在する共同体の一つでしかないものと国家とを、同レベルのものとみなして議論することがある。その例が、限られた構成員からなる共同体で第三者の監視もない中で代表者となった人物が、有権者による正当な選挙手続きを経た人物(国会議員など)と同等の役割を担っているかのような言動を行っている。それによって、共同体の代表者の個人の意見や見解が、その共同体の総意としてマスメディアを通し、国民に伝えられることもある。そして、その共同体とそれ以外の国民との溝を広げる現象も見られている。 今回のイギリスのニカーブ議論では、声を上げてストロー議員の発言を非難するイスラム指導者やそれに同調するイスラム教徒もいる。彼(彼女)の自由と平等の訴えは、どれだけイギリス国民の共感を得られたのだろうか。むしろ、同議員(有権者の30%がイスラム教徒である選挙区から選出)の事務所を訪ね、ニカーブを脱ぎ平等と差異の関係について議論を重ねているイスラム教徒の方が、有権者として自己の主張を効果的に訴える行為ではないか。 第2は偏見の問題である。現在、イギリスのイスラム教徒以外の国民の多くは、一律的にイスラム教徒が文化的アイデンティティを主張しているように感じはじめているようだ。一部のメディアでは、移民としての自文化を主張する前に、移住先であるイギリスの文化を理解しようとしたことがあるのか、との厳しい声も出ている。しかし、こうした声は、ニカーブを脱いで議論するイスラム教徒の存在を視野に入れていない。イギリスに住む者として、自分の権利を議論するそうした人々には、モンテスキューが指摘している、君主制の形をとる共和制の国家イギリスの“共同善”という文化を理解し、行動している姿勢が感じられる。しかし、残念ながら、現在のイギリスでは、このように多様な個の存在をカテゴリー化し、レッテルを貼ってしまう傾向がある。移民は、これを制度化されない差別として感じているのではないか。 第3は、グローバル化が進むことによって、国民国家における、あらゆる住民、特に移民の社会的、経済的権利が危うくなりつつあることである。近年、自国民の権利が優先され、移民やその家族の中には、学歴、語学力などの能力が不足しているとの理由で、失業に追いやられたり、職に就いたことがない若者が多数出ている。このような人々が都市中心部から離れ、エスニック・コミュニティーを形成している。そうした地域の中には、警察権が及ばないところもある。昨年の暴動の発端となったパリ近郊のクリシーズ・ボウもその一つである。 多くの国民国家において、移民政策は、反人種差別や反社会的差別の立場で立案されてきた。しかし、冷戦以降、グローバル化の中で、国家間、共同体間、個人間の競争、さらに異なるレベル間の対立が激化することによって、これまでの国民国家統合モデルがきしみ始めている。この文で紹介したイギリス、フランスの出来事は、その一例に過ぎない。現在、EU諸国では各国の歴史的、文化的背景を踏まえ、新たな国民統合モデルを模索している。外国人受け入れを奨励に動き始めている日本としては、この現象を注視する必要があるだろう。 ☆もう一つのブログ「複眼で見る中東報道」(http://cigvi.exblog.jp/ )では、中東現地報道(英語、電子版)より、日本のマスメディアの落穂拾いを中心に掲載しています。ご興味があれば覗いてみてください。
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