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92日、野田義彦首相の内閣が発足する。
昨日、成田市で「国際社会とリスク」をテーマに講演会の講師を務めたが、その会場では「千葉県出身の総理として頑張ってほしい」との声が出ていた。千葉県の大学に勤務する身としてその声に共感するところはあるが、政策学をかじる身としては、830日付けのフィナンシャル・タイムズ紙の以下の指摘をしっかり受け止めたいと考えている。
 
1は、国民から支持を得てスタートしても、数か月すると国民は飽きる。そうなると、与党は次期選挙の重荷になると考え、その人物をお払い箱にしたいと感じて動き出す、との指摘である。
2は、官僚機構によって政府は運営されているが、大震災の復興、債務管理、デフレ対策、対中国政策といった大きな問題が先送りされ、誤魔化されているとの指摘である。
おそらく、外国人ジャーナリストの多くが、この2点は現在の日本の姿として首肯するところだろう。
なぜなら、とりわけ欧米では政治家を人気や地縁などの人間関係ではなく、問題を見出し、それを解決できる能力によって評価するからである。そこには、政治家が問われるのは、調整能力もさることながら、政策実現能力だとの考えが見えてくる。
 
しかし、古賀茂明が『日本中枢の崩壊』『官僚の責任』で指摘しているように、東日本大震災最と福島第一原発事故での対応ぶりから、官僚機構は日本で最高の頭脳集団であるといわれてきたことは幻想であったと再認識した日本人は少なくなかったのではないだろうか。上記の第2の指摘については、日本人と外国人ジャーナリストの現状認識に違いがあるように思う。
この認識の違いはなぜ生まれるのだろうか。それは、外国人の中にも日本人の中にも、増分的な政策立案を続けることで、まだこの国の屋台骨は保たれると考える人がいるからではないだろうか。
復興、債務管理、デフレ対策などの国家収入の問題や、社会保障の改善問題、「バラマキ4K」などの支出といった個別政策に関心が高いことからも、そのことが窺える。
 
かつて1755年にポルトガルのリスボンで大震災が起きた。6万ともいわれる死者を出したこの地震は、ヨーロッパ社会を大きく変えたと指摘されている。
日本は、その歴史事実から学び、「国家モデルの転換」というテーマに取り組まねばならない時だと考える。本日発足した内閣は、そのような歴史的使命を持っているといえるのではないだろうか。
したがって、政策立案は増分思考ではなく、未来志向で合理性が高いものであるべきだろう。
 
例えば、日本はこれまで「ものづくり」産業を育成し、人々の暮らしの向上を図ってきた。しかし、その産業の中の普及型製品分野(家電、自動車、既製服など)においては、中国、韓国などアジア勢が台頭しており、日本はグローバル競争の敗者となりつつある。つまり、この分野が中心となって日本の未来を支えることは難しいといえる。
かといって、公害問題、エネルギー危機を「効率化」によって克服してきたこの分野を、衰退するにまかせるだけではもったいない。
したがって、日本は今後、これまで培ってきた技術を活かしつつ「創造性豊かなものづくり」産業を育成すべきだと考える。具体的には、オーダーメイド型の製品に近い、一人一人の「日々の暮らしの効率化」が図れる製品の開発に努め、それを商品化していくという産業分野である。
 
そこでの重要なアクターとなるのは高齢者である。もちろん自らの加齢や死に向かっての準備は大切である。しかし、高齢者に可能な範囲で、それまで磨いてきた経験、知識、技術力を持って新たな時代を担う若者が育つ土壌づくりに参加してもらうことも、日本社会にとって必要なことだと考える。高齢者自身もその中で健康を保ち、やりがいを見出してもらえるのではと思う。
もちろん、概ね衣食住が足り、移動の自由性が確保される地域社会であることが前提である。
 
日本において、一人一人の日々の暮らしをよくするサービスや商品を開発する試みは既に始まっている。
しかし、産業構造や国民の意識の中に「古き良き時代の残像」が存在している。その残像を記憶の箱にしまいこみ、新たな国家モデルを日本社会に浸透させるには、「真の地方分権」が必要だと考える。そして、それに合わせて国の特殊法人、独立法人の資産売却、国会・公務員制度の改革、社会保障改革を進め、財政再建を図り、「小さな政府」の構築を目指すべきだと考える。
今が、「自由民主主義陣営で最大の中央集権的国家」と言われる日本が、国家モデルを転換し、幸福指数が高い国へと生まれ変われる「最後のチャンス」かもしれない。
 
昨日、終戦から66回目の815日を迎えた。この12月には真珠湾攻撃から70年となる。
その中、太平洋戦争の真相を語れる人も少なくなっている。その意味で、昨日放映されたNHKの番組が、当時の関係者の証言や新たに見つかった資料を踏まえ、なぜ太平洋地域で戦線が拡大していったかを検証した意義は大きい。
同番組では、戦線拡大の意思決定にあたって、①リーダーシップのなさ、②セクショナリズムの弊害、③リスク連鎖認識のなさが問題であったと指摘されていた。
これらの点については、以前より多くの論客が「日本論」の中で取り上げてきた。また、現在の混迷する日本政治を批判する際にもしばしば語られる問題である。
 
では、なぜその問題点が改善されないのか。
おそらく、こうした指摘は日本人にとって、教養としての「知識」のレベルにとどまり、「行動」に繋がってこなかったからではないだろうか。
「3.11」以降の日本社会を見ると、未だに自らを「経済大国」と捉え、増分的思考で近未来を描いているように見える。しかし今、必要とされているのは、国際社会における関係性を見据え合理的思考で行動選択をすることではないだろうか。
 
815日は国際通貨体制の転換点となったニクソン・ショックから40年でもある。
ここ数日間の金融市場での株価の乱高下は、日本をはじめ世界各国の近未来に経済不安という暗い影を投げかけた。
一方、日本国内では、(1)少子高齢化、(2)家計消費の停滞、(3)国民貯蓄の減少、(4)国外への企業投資の増加傾向などの不安材料が目に付く。
これらに深く関係するのが日本の国債発行である。日本政府は本年度約90兆に上る歳出に対し、44兆円の国債を発行した。これによって公的債務残高は対GDP比の約200%に達するという財政状況になる。
 
日本を取り巻くこのような国内外の経済状況にあって、民主党党首選を見据えマスメディアや政治家を中心に増税、減税論議や公務員制度改革論議などの政策論が語られ始めた。
しかし、前述のような国内外の不安材料に加え、新たな課題として東日本大震災からの復興、エネルギー対策などを勘案すれば、長期的視野で国家像について議論することが今、国内外から求められていると思う。
例えば、(1)税・社会保障改革を通してどのように富の再分配を行うか、(2)どのような順序で産業を育成し持続的に外貨を稼ぐか、(3)女性や高齢者の社会参加の在り方をどう考えるか、(4)外国人移民の受け入れをどうするかなどの項目が挙げられる。
これらは、国民のライフスタイルを左右する課題であり、今後の人材育成の在り方ともかかわるものである。
今日、日本には多様な価値観を有する人々がいる。その現実を認識し、日本という社会空間で共生するためには、このような国のあり方に関する議論を通し、新たな社会制度、法律、規則などをつくるという具体的改革のための行動を起こすことが重要ではないだろうか。
 
この国の社会空間における特性を見つけるだけで納得したり、他者批評で鬱憤を晴らしたりするのではなく、一人一人が日本の未来のために自分にできることを創意工夫し、行動を起こすことこそが、日本の民主化の深化につながる。
加えて、日本に生きている私たちは、太平洋戦争で310万もの人が命を落とすことになった意味、東日本大震災での2万人以上の死者・行方不明者、そして避難されている方々をはじめとする様々な思いを、やはり受け止める必要がある。
その意味から、今回の民主党の代表選挙を、単なる政治リーダーのすげ替えゲームにしてはならない。例えば、代表選に先立ち、ソーシャルメディアを活用して平和、貧困、金融、エネルギー、環境など地球規模で解決せねばならない問題について、候補者も含め国民的に公議してはどうだろう。
問題点はあるにしてもグローバル化は止められず、否が応でも国際社会の動向は日本に影響し、日本が大きく躓けば世界に動揺を与えることは確かである。国際水準に達しない内向きの政治リーダーを選択してはならないのだと考える。
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最後までお読みいただき有り難うございます。
今回の民主党の代表選挙に際し、日本の未来のために意味ある政治議論が行われるよう、どうか周囲に働きかけてください。
一人一人が小さな1歩を踏み出すことで、「アラブの春」のように社会を動かすエネルギーが生まれると思っています。
多くの日本人が「3.11」以降、そのことに気づき始めているのではないでしょうか。
 

日本の8月

残暑お見舞い申し上げます。
長らくブログを休んでしまい、お詫び申し上げます。
 
89日、長崎に原子爆弾が投下されてから66年が過ぎた。先日、NHKの報道番組で、日本軍はこの原爆投下の5時間前に長崎に向かう爆撃機の情報をつかんでいたことを明らかにした。歴史に、「もし〜ならば」はないのだが、その情報からリスクを推測し、警戒警報を鳴らしていればと残念でならなかった。同番組によると、大本営は御前会議の席で、自らの保身を図ろうとしていたとのことだった。
今日の日本政治を見ていると、この当時の大本営や国民の姿と酷似しているように思え、気がかりである。
 
さて中東情勢であるが、87日、米国債の格下げ発表を受け、同地域の株式市場もイスラエルで先週末比6.6%、ドバイ5.4%、エジプト4.6%と一時大きく下落した。また、原油価格も国際市場で1バーレル81円台を付けている。
この経済変動は「アラブの春」と呼ばれる政治変動と合わせて、中東地域の社会変化を促すことになるだろう。
 
例えば、サウジアラビアでは社会の公平・公正を求めて起きた市民デモに対応して雇用政策や補助金の拡大で事態の収拾にあたった。しかし、こうした政策は一時的なものに過ぎず、根本的な経済開発を推進するには石油収入の拡大が必要条件となる。
仮に、今回の米国債格下げ問題が2008年のリーマン・ショック以降続く世界経済の低迷に拍車をかけることになれば、この必要条件を満たすことが難しくなる。さらに資金や技術、市場確保など外部の企業や国のサポートを得ることも容易ではなくなる。
そこで、再び市民の政治運動が活発化することも考えられる。
また対外政策でも、経済分野でのパートナーを欧米諸国に求めることは、これら諸国の経済情勢に鑑みればたやすいことではない。そこで、中国の存在が今まで以上に大きくなってくる。中国側としても、資源エネルギーの確保のために中東諸国との関係を一層強化しようとしている。
こうして、中東地域における中国の政治的役割が拡大する可能性は高い。
 
それに対し、日本はどうだろうか。87日にクウェートのサバーハ首相が、同国を表敬訪問した小池百合子衆議院議員に、「太陽光や風力は基幹エネルギーにはならない。日本はどのようにエネルギーを確保していくのか」と尋ねた。これは、湾岸産油国の政治指導者たちの多くが日本に抱いている疑問だろう。
日本人の多くは、エネルギー問題は国民生活や経済の発展に直結するものだということを理解している。そして、必要なエネルギーに関しては(1CO2、(2)安全性、(3)コスト、(4)安定供給性の4つの観点から、様々なエネルギーを技術革新によって動的に均衡させる方法が現実的であることも理解している。
 
政策形成において、「たぶん」これでいいだろう、といった不確実性が高い見通しや、「こうあるべきだ」と理想に走りすぎると失敗のリスクが大きくなる。それは「脱原発」を言葉として語るだけで、具体化する方法に着手できない状況を生む。
その打開策は、太陽光発電や風力発電の普及よりも、世界レベルにある蓄電技術を飛躍的に伸ばすことや、化学を活用した新エネルギーづくりにあるのではないだろうか。
戦前、戦中の日本が現実分析をおこたり、理念で政策形成をおこなったのと同じ道を辿らぬように、政治は、この国の未来をしっかりと見据えた対外戦略を構築し、対外政策を行う体制をつくる必要がある。そして、エネルギー政策においては科学技術における重要分野への支援とともに、教育における理科系の人材育成を強化しなくてはならないのではないだろうか。
 
日本にとって8月は、6日、9日、15日と歴史的な日が続く。
だからこそ、この月に、目前の私利私欲を捨て、縦軸に歴史性、横軸にグローバル化の中での国際環境と日本の関連性を置いて、しっかりと自分の立ち位置を確認すべきだろう。
その上で、特に政治指導者たちは、次世代に生きる者のために何をすべきかについて自ら考え答えを出して欲しい。そして国民の側はそれを受け、自らの問題として公議すべきだと考えている。
 

日本の対外行動

714日の新華社が伝えたところでは、中国が本年3月からレバノン・イスラエル国境地帯で地雷除去作業を実施し、58点の地雷を処理したとしている。
このような戦後処理は、地味であるが、人々の日常生活を一日も早く回復するために必要な国際協力活動である。この事例は、中国が対外行動として、直接国益に結び付かない国際協力も実施していることを示している。
 
では、日本は資金協力以外で、国益を離れ、平和構築に寄与する国際協力をどれだけ行っているだろうか。
もちろん「国益」をどう定義するか、「平和構築」をどのような範囲で考えるかなどについて公議を要するため、そう簡単に答えることはできない。
しかし、概して、これまで日本政府の対外行動に関してはあまり報道されず、さらに国民レベルでの情報の共有化を図る意識も日本政府にはなかったと言えるのではないだろうか。
 
712日、国連のPKO局が会議を開催し、日本政府に南スーダンでの国連平和維持活動への自衛隊派遣を要請した。
また、経済政策ではあるが、トルコの天然資源相が714日、同国の原子力発電所建設に関して、日本側から7月中に明確なロードマップの提案があると語ったとロイター電で流れている。
 
この2つの日本の対外行動は、3.11大震災後の日本の対外政策を見るためのリトマス試験紙と言えるかもしれない。
南スーダンへの自衛隊派遣に関しては、①防衛庁が省に昇格し、本来任務として、国土防衛に加え国際貢献を視野に入れることになったが、自衛隊は平和構築における国際協力を行う覚悟をどこまで持っているか、②民主党政権は、国連の平和維持活動に参加する意思がどの程度あるのかなどの判断ができる。
一方、トルコの原子力発電所の建設については、トルコ政府との協議相手となっているのが東芝と東京電力のプロジェクトチームであることから、①日本の海外でのインフラ・プロジェクトにおいてメーカーが担当するハード面以外の運用面の海外進出能力(この場合は東京電力)を見きわめることができ、②同プロジェクトを日本政府がどれだけ支援するかを見ることで、海外での原子力発電プロジェクト事業(神経味成長戦略の1つ)における日本の受注競争力がわかる。
 
この2つの対外行動の中で、原子力発電事業に関しては、仮に日本が、菅首相が個人的発言として述べたように脱原子力発電に向かうのであれば、経営的に原子力発電事業にウェイトを移したメーカーは、日本国内の市場を失うだけでなく、国外で“自国が使用しないプラントを建設する”というハンデを抱えて国際的受注競争に挑まねばならないことになる。
また、日本国内では原子力発電分のエネルギー量(総エネルギー産出量の約3分の1)を、時間をかければ、省エネとエネルギー・シフトによりカバーしていくことは可能だろう。
しかし、世界全体として見れば、事はそう簡単ではない。
例えば、生活が急速に向上しているインド、中国などの新興国の電力需要は原発なしには対応が難しいだろう。
そうであれば、「技術大国」「ものづくり大国」の日本だからこそ、人々が安全に安心して使用できる原子力発電と新エネルギーの先端モデルの開発努力を続けなければならないのではないだろうか。
 
海外での原子力発電事業も、自衛隊の海外派遣も、日本の未来に大きくかかわることである。
このような重要な問題については、日本社会で多様な意見を出し合い、公議しながら未来像を描いていけないことが残念だ。
これは、現在の与野党の政治家だけの問題ではなく、陳情やコネの利用で地域や特定の集団の利益を誘導してきた社会慣習、そしてそれを肯定するような制度・法律を維持してきた国民にも責任があるのではないだろうか。
3.11大震災を経験した者として、そうした日本社会を変えるためにしっかりとした意識を持つことが大事だろう。
 
5年間で5人の総理大臣が代わった日本政治について、政治家の質の問題なのか、制度の問題なのか、それとも日本社会の特性とかかわる問題なのか等いろいろな場所で議論が交わされているようだ。
総理が毎年のように代わるので、私は「年番総理」と呼んでいるのだが、この慣習(?)が生まれた状況と類似性があると思われる日本が抱える問題がある。昨日、私が所属している、とある大学の政策研究会で発表された2つのテーマ「幼児のひとり戸籍問題」と「特定看護師(仮称)問題」である。
 
戸(こ)と呼ばれる小家族単位で人々を把握しようという考えは、中国の華北社会に古くからあり、北東アジア独特のものである。
日本では、律令制度の整備下で戸籍制度が敷かれるが、平安時代には事実上消滅し、「家」(拡大家族)が人々を把握する単位となった。その後、明治政府は近代化の中で、国家が個々人を直接的に把握できる「戸籍制度」を復活させた。
2次大戦後、1947年に新憲法の制定に伴う民法改正で「家制度」は廃止され、19481月に新しい戸籍法が施行され、夫婦を基本単位とする戸籍ができた。そして今日、1967年の住民基本台帳法の施行により、「戸籍制度」の果たす役割は低下、相続人特定や親族関係の証明手段に用いられる程度となっている。
一方、この「戸籍制度」が存在することで、父母の離婚や親の死亡などによって、幼児の時から父母の戸籍に一人だけ残ってしまう「幼児のひとり戸籍問題」や、「婚外子差別問題」「性同一性障害者の戸籍上の性別問題」「夫婦別姓問題」など、差別に関わる問題が生じてくる。
 
日本では「家制度」を廃止しながらも家族単位の国民登録制度を残してしまった。そのことで、個人を単位として制度設計されている福祉や医療制度などとの齟齬が生じている。
そこに、日本社会の集団主義的な思考が、明治憲法や新日本国憲法下でも色濃く残っている内閣制度のあり方との共通的構造の歪みが見て取れるように思う。
外部の制度を取り入れる際、日本の空間に合わせて修正することは必要なことである。しかし、インクリメンタリズム(増分主義)での制度設計では、安易な建て増し家屋同様、いつかは問題が表面化し、にっちもさっちも行かなくなる。
 
さて、もう1つの「特定看護師(仮称)問題」であるが、この制度は医師不足や医療の質の向上のために厚生労働省を中心に2009年から検討が始まり、20104月に提言がまとめられ、閣議決定されている。その内容は、専門的な臨床実践能力を持つ看護師が医師の指示のもとで高度な医療行為を限定的に行えるようにするというものである。
日本の場合、医師法第17条で「医師でなければ医業をなしてはならない」とされている。ただし、看護師は「診療の補助」として、医師の指示があれば絶対的医行為(診断、手術、診断書作成、処方箋公布など)以外の医行為を行える。
この制度の問題点を勘案して、医師の負担軽減やチーム医療の推進をはかり、2010年から特定看護師の要請もモデル的に実施している。そして、20113月に、この要請者(10名)を対象に特定看護師業務試行事業を4施設で行い、データ収集や医行為内容の検討を行っている。
こうした厚生労働省の試みに対し、既得権益組織である日本医師会、日本歯科医師会などが新制度の実施に懸念を表明している。ただし、外科医師、小児外科医師など激務と言われる現場の医師には、この制度の導入を望む声が大きい。
 
この問題は、明治時代の「医制」によって誕生した医師を頂点とするヒエラルキーが、戦後の制度改革を経ても残っていることが背景にある。日本では、医師に対し、看護師、保健師、助産師などが従属関係にある。このため、それぞれ専門職であるはずの医療従事者の役割分担が不明確になっているきらいがある。
一般に、既得権益者は、役割分担の不明確さをよいことに「権限の拡大」と「責任の回避」というメリットを享受しがちである。
現在の日本の政治は、「首相の役割」「政務三役の役割」「政治家と官僚の役割分担」などが不明確である。高額所得者で議員立法さえできない「政治屋」は、そこにメリットを見出しているのかもしれない。
 
以上、「戸籍制度」「医療制度(特定看護師制度の設置より)」を見てきたが、この2つの制度の中に、近代化の波、グローバル化の波に洗われても残る日本社会の特性が見える。
それは、オランダの社会心理学者ヘールト・ホフステードが『多文化世界』で分類の手法を使い指摘しているように、日本人は(1)集団主義の傾向があり、(2)権力格差を受け入れやすいという国民性が生み出したものといえるだろう。
現在の政治の混迷は、このような国民性と深くかかわっているように思う。それだけに事態は深刻だと言えそうだ。
 

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