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夫が会社を興した年、昭和48年は、今よりずっと無風状態だった。
来月から完全に仕事が無い。
けれど、勤めていた会社に頼るには、100%子会社になることが条件だという。
困り果てた夫は、私の親族を頼って、従業員共々、港の仕事をしよう。
そう覚悟を決めていた。
その次の日、毎日毎日、、鞄一つ持って家を出て、営業に回っていた夫へ
一本の電話が入った。
今日で丁度一年になります。社長の誠意に負けましたよ。見積もりをお願いします。
その前に、小さな仕事があるから、明日からでも入ってみますか。
当時25歳の夫は、一日平均、2,3時間の睡眠で、営業に、そして現場管理にと、全力疾走していた。
その夫が家を買おうといい、銀行に相談に行くと、当時、私が隣に立っているのを知りながら
自行の女性行員と見合いを勧めた支店長が、預け入れの90%まででしたら、直ぐに貸します、
とそう言った。
美子に相談すると、当時都市銀行の頭取と懇意にしている伯父の家に相談に行けと言われた。
夫が一人で行くと、伯父は、事業を起こす者にとって家は背広と同じ。
大きい会社にしたければ、それなりの家を買うように。
そう言ったそうだ。
そして、その場で、その都市銀行の頭取と引き合わせてくれる段取りをつけてくれた。
夫は初めての家をそんな経緯で手に入れた。15年ローンの、小さな家だった。
その一階の、タタミ六畳一間にスチール机と椅子と、帳簿と黒電話が置かれて、小さな事務所が出来た。
まだファックスも携帯電話も無く、辛うじて、発売されたばかりの電卓が一台あった。
それでも、当事にしては珍しく、同業者の方々が、何度か、その電卓を見に来たことがあった。
そうして、会社は本格的に始動した。
以降、今日まで、ある一時期を除いて、ずっと、私は夫の経営する会社の事務所の中で
殆どの時を過ごして来た。
仕事が多くなると、従業員の数も増え、それに伴い、いろんなハプニングが、私を襲って来た。
そして私はその度に、だんだんと屈強な女に変身して行った。
否、元々そんな気質は有ったのかもしれない。
オイルショック。昭和48年10月、中東戦争の始まりと共に、本当に突然やって来た。
店にトイレットペーパーが無い。やがて醤油も砂糖も無くなり、人はパニック状態に陥った。
当にショックだ。
煮豆屋を営んでいる親族が、砂糖を一袋持って夜中にやって来た。
まるで悪いことでもしているかのように、ひっそりと引き渡された。
しかし、そのショック状態は直ぐ過ぎて、その砂糖の存在は忘れられ、家を買い、転居する日
押入れの中で発見され、皆を驚かせた。
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