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花盗人なんて書くと、何処となく風流な感じがするが、昨年、漸く蕾が膨らみ始めた百合の花を、茎ごと折って行かれた時には、物凄く腹が立った。
はなぬすびと より、はなぬすっと、と表現したほうがいいかもしれない。
最近、チューリップの花を茎から切っていく愉快犯があちこちに出没して、今朝のニュースではとうとう横浜にも出たそうだ。
横浜の何処の公園かということは言っていなかったが、もし栄区の話であれば、子どもが花弁を持って帰宅したことで、我が家の息子ですと名乗り出て、花をお母さんに見せたいという理由が成り立ったのか、事件では無くなったそうだ。
昨日から遡ること二週間ほどまえ、我が家に旅行案内が来て、そのパンフレットに、新潟の中ーリップ畑で花摘みボランテアをしませんか、というようなお誘いが書かれていた。
交通費と食事代は自前で、摘んだチューリップは、いろんなところに持っていて、花絨毯を作るようだ。
たぶん、横浜公園でも同じような行事があって、同じように何処かに花絨毯が作られていると思う。
花は咲いていてナンボのものと思う私は、並んで咲いているチューリップはそれなりに美しいとは思うが、人工的に、幾何学的に並べられている花弁というものは、どうも痛々しくて、あまり好きではない。
ゴミになってしまう前にもう一度花として耀かせるという意味では、花にとっては幸せなことなのかもしれないとは思うのだが。
花博や、花祭りの会場に、造作物の上に塔のように積み上げられるパンジーの植え込みも、そういう意味ではあまり好きではない。
やはり野におけ菫草 なのだ。
花を切る どんな人がやっているのか。実は、20年くらい前になるだろうか、案外身近に、そんな心境を告白した女性がいた。
街なかの商店街から、田園地帯に近い我が家によく遊びに来ていた女性だった。
彼女が言うには、彼女の中の更年期障害がそういう気持ちを引き起こすそうで、自分が出来なくて、他の人が出来てしまうことに異様に腹が立つのだとか。
それは植物にも向けられ、よその人が綺麗に花を咲かせていると、引き千切ってしまいたくなる、と。
その後、我が家の玄関先のチューリップが丁度盛りの頃、彼女が来て、帰ったあと、茎の先が刃物で切り取られて投げ捨てられているのをみて、もしかして、と思ったが、当人はその後も平常心のまま我が家にやって来ていたので、聞くことは出来ずにいた。
更年期が終ったのか、それとも我が家に興味がなくなったのか、もしかして罪の意識に目覚めたのか、その半年後、ぱったりと来なくなった。
30過ぎの息子が幼い頃、空き地もたくさん有って、そこに、春紫苑とか、姫紫苑とか咲いていて、子ども達の間では、貧乏花と呼ばれ、その上、その花を切って飛ばすことを、クビチョンパ。などといって遊びにしていたことがあった。
それよりもっと昔、私が子どもの頃、うまごやし 別名をクローバーという花を見つけると、編んで長い紐にしたり、冠にしたりして遊んで、その遊びは、美子の時代から継がれたもので、少女たちはうまごやしの花を摘んでは巧みな手さばきで花環をつくる。それをなはにして縄跳びをする。花環が円を描くとそのなかに富士がはひる。その度に富士は近づき。とほくに坐る。耳には行行子 頬には光。などと、草野心平の、詩の素材になっていたりした。
腹が立てば、草叢の草を蹴飛ばし、野に咲く蒲公英を掻き毟り。
今は、何処を見てもコンクリートの世界で、雑草なんて、公園の管理局の人がサボらない限り、見る機会もなくなりつつある。
人の心は、幾何学模様の中では、少し辛いのかもしれない。
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