烏兎怱怱

烏兎怱怱時は過ぎて、気が付けば

昭和タイムズ

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物売り

子どもの頃の町には、年がら年中物売りのおじさんやおばさんが来ていた。

暢気な喇叭の音色とともに豆腐屋がくると、お鍋やボウルを持った 同級生がちょっとだけ大人びた声で、イッチョウくださいと、買っていたりした。

早朝自転車で遣って来る納豆売りの山吹色の練り芥子を一度だけこっそり舐めて、とても辛い思いをしたことがある。

夕暮れ時に練り物や佃煮や天麩羅を売りにくるおじさんからさつま揚げを買ってもらうのが好きだった。

花を篭に入れた、千葉から船で遣って来るおばさんは、こっそり花の中に闇米を潜ませていると、大人たちが秘かに話していた。

リヤカーに野菜を載せて歩いてくるおじいさんの持ってくる真っ赤な苺の甘さとは、いまだに出会ったしたことがない。

トラックにいろんな品物を満載してくる何でも屋さんの音楽が聞こえてくると、近所中から割烹着やエプロン姿のおばさんたちと子ども達が湧き出すように集まっていた。

最近、百均ショップに行くとこのトラックの光景が浮かんできたりする。

年に一度、バイクの荷台に黒い鞄を載せてやってくる富山の薬売りだけは、私が結婚した後も、暫くやって来ていたけれど、
どの人たちもいつの間にか時代の流れの中に消えていってしまった。

その引き売りの人たちとは違う、夏にだけ遣って来るおじさんが売り歩く風鈴売りと、きんぎょえ〜きんぎょ、という声の金魚売

風鈴売りのその色彩の華やかさは、万華鏡の中に迷い込んだような、白昼夢を見ているような、そんな状景だった。

今でも夏の日向道を歩いていると、ふと、白いシャツにステテコ姿のおじいさんが担いでいる風鈴を思い出す。

今思えば、金魚売と風鈴売りを見たのは、たった一度だけだったような気もする。

昭和の夏の夜

卓袱台に、瓶麦酒と、枝豆と、冷奴、

そして団扇と、蚊取り線香の匂い。

簾のかかった玄関。

テレビから聞こえるナイター中継の音。

台所にはビーチボール大の西瓜が幾つか並べられ、その隣には

山下公園から船で富津に渡って買って来た、まくわ瓜が箱ごと置かれている。


父は野球中継を見ていたのか、横になって眠っていたのか。


三和土では、バケツに入れられた浅蜊が時折溜息をついている。

外の、アルマイトの傘の下の裸電球に蛾がぶつかったらしく、ヂっと短い音がして。


私は美子と蚕豆を剥きながら、高校野球の選手の情報を教える。

あの選手は銚商で、弟がいて、、

美子は只管感心しながら聞いてくれる。


本当は薄ら返事だったかもしれないけれど、美子の、そおぉ、という言葉を聞くと

私は有頂天になっていた。

蚕豆の腹を押し、中から鮮やかな黄緑の実が飛び出す。


笊の中がその実で一杯になると、美子は助かった、ありがとね、と立上り、急いで茹でる。

私は蚕豆はあまり好きではなかった。

だから食べた記憶も無い。

父が晩酌をしている、お酒の肴も食べたことが無い。

それが当たり前だった。


あの頃には、大人と子どもの領分があった。

だから、私は今になっても、美子の領分に届かないような気がする。

もうすぐ美子の命日がやって来る。

雨降り

ここ数日雨が続いている。

私が小学生の頃、雨が降り出すと、母達が挙って、長靴と傘を持って迎えに来てくれた。

昭和30年代には、働く母といっても、せいぜい内職をするくらいで、殆どの母親が

今の時代には専業主婦という言葉で表現される、家にいて家事と育児に励むことを善しとされていた。

多寡が家事といえど、当時は、洗濯機も掃除機も電子レンジもインスタント食品も

無い時代だから、今の家事とは全く比較出来ないことであり、その頃、高校や大学を出た女性は

家事手伝いという職業を経て、結婚するという道も多くあった。


思えば、我が娘も、24時間働く母の代わりに、家の家事をコナシ、その上祖母である美子の看病を

買って出てくれて、末期癌の美子の壮絶な苦しみにも冷静に対峙してくれたが、

世の中の人は、一部の親族も含め、大学を出ても就職をしない娘を、ニートと呼びやがった。

そういう人は、娘が、美子を看ながらでも出来ることとして、いろんな資格を取り、通信で二つ目の

大学に通っていたことを知ろうともしなかった。

だから、新聞やテレビで、この言葉を聞くと、その度に、なんでも杓子定規の中に納めれば

イイってもんじゃ無かろうにと思う。


昭和30年代には、たぶん40年代に入っても、農繁期になると、農家の子どもは学校が公休になり、

家の田植えを手伝うということもあった。

働くという漢字は、人が動くと書くのだから、仮令一人が対価に見合わない生き方をしても、

その家族全体のバランスが取れていれば、それで良いとおもえるのだが。

就職しない、出来ない子がいれば、その子には家事を専門に担当して貰えば、

そのうち、家事のプロになって、新しい分野が開けるかもしれない。

だいたい、人間は一人一人別人なのだから、みんな一緒のわけが無い。

世の中が便利になって行くと、その一方で、人の心が不便になっていく。


その、世の中が余り便利でなかった頃、高ボウキとお茶ガラで畳を掃き、金盥と洗濯板で洗濯をし

七輪で魚を焼いていた美子は、雨になると、着物に着替え、雨靴と傘を持って、

昇降口まで迎えに来てくれた。

午後から雨の日は、いつものように雨コートを羽織り、下駄の先に爪皮をして

私がいつ降りてくるかと、待っていてくれる美子を見つけるのがとても嬉しかった。

昇降口には、美子のほかにも、たくさんのお母さんたちがいて、それは、遠足の後の

お出迎えのような雰囲気で、ざわざわと賑わしく、子ども達を見つけると、三々五々散っていく

のだが、通学路は、その母親達の賑わいも増して、何故かいつもよりずっと早く家に着いて

しまうのだ。

そして、家に帰って、雨コートを脱いだ美子の、縦縞の銘仙にお太鼓の姿を見るのも楽しかった。

そのお陰だろうか、私は雨の中を傘を挿して歩くのが今でも好きだ。


思えば、私は、着物を着る美子のお陰で、着物の着方も、畳み方も、覚えた。

家事と育児とは、自分の知識を子に伝えるという、一対になっているのかもしれない。

中間テスト

横浜公園でバザーが始まる時期には、中学では、中間テストがある。

中間テストの最中は、例えば親と同伴でも外出は控えて、

その上、もし出かけたら、午後八時までには帰宅しなければならない。

バザーの最中には、竹刀を持った教育指導の先生が見回りをしているから、

覚悟しておかなければならない。

これが、中学生の頃のバザーの思い出。


今日、馬車道駅前から、58番のバスに乗った。

本町の交差点を過ぎて、尾上町の方に曲り、スクランブル交差点の先には、

バザーの準備が着々と進められていた。


昭和35年。美子に連れられていったバザーは、夕暮れ時だった。

外苑をぐるりと囲むように立てられた夜店

お店を照らすカーバイトの匂い。

その灯りの下で賑やかに鳴いている雛たちの色。


私は随分と長い間、ヒヨコにはいろんな色があるのだと信じ切っていた。

今でも目を瞑ると、鮮やかな緋色や緑色の雛達の姿が目に浮かんでくる。


やはり色粉に染められた海ほうずき 

洗面器の中に入れられて、梯子を登るヤドカリ

烏賊や玉蜀黍の焼ける、香ばしい匂い。

頭上で交わされる大人たちの秘密めいた会話。


美子は、縁日の場所に来ると、誰かを探しているかのように、急ぎ足になった。

だから、私と妹は、もっと必死に美子の後ろを歩き続けた。

何故美子はあんなに急ぎ足だったのか、美子が亡くなる一年前に、美子から教えられた

思い出話を聞いて、なんとなく理由が解った。

美子は縁日の場所で、幼い頃の知り合いを見つけようとしていたのだ。

結局、美子は誰とも出会うことなく、疲れきった妹を背負って、電車道を帰っていくのだ。

それから何年か過ぎ、中学生になった頃は、外苑ではなく、園内の、植木市方に行くようになった。

そこには美子の知人も何名かいた。

だから、金魚すくいは好きなだけさせてもらえ、カキ氷も好きなだけ食べられた。

けれど、大人の会話をしている美子を待つのは、とても辛く長い時間に思えた。

中学時代、子ども同士でバザーに行くことは当然禁止されていた。

それでなくても、野外劇場で縄張り争いによる殺人事件があった

などという話を聞けば、子ども達は怯むものだと思うが、

私と恵子ちゃんは違った。

二人して、へびやのウラッカワに建てられた、見世物小屋に行くことにしたのだ。

真昼間のバザー会場は、夕暮れ時とは違い、割りと閑散としていて、

見世物小屋にも、お客がいるような様子はなかった。

御代は見てのお帰り、ということで、木戸銭は帰りに払えばよかったから、

二人、手摺のある板の渡しを、歩いて中に入ると、少し前に同級生の

何人かの男子がいた。

オドロオドロシイ音楽と共に、盥の中から、紐に釣られた女の人が現れて、

とてもちゃっちい見世物だったから、御代は払わないことにした。

で、外に出ようとすると、当然、木戸守のおじさんの凄い形相にぶつかった。

払わないという意思よりも、恐ろしいという反射神経が勝って、逃げた。

逃げて、逃げおおせたと思ったとき、一人の男子が捕まったと、誰かが言った。

もしかしたら、掻っ攫われて、見世物小屋で働かされるかもしれない

全員がそう思った。でも、誰も口には出さなかった。

翌日学校に行くと、置いて帰ったことに恨みを持った彼に告げ口されて、

全員廊下に立たされた。告げ口した彼も、隣に並んで立っていた。

で、後から、男子は全員、彼も含めて、あの教育指導の先生から竹刀で殴られたと聞いた。

このときほど、自分は女でよかったと思ったことはなかった。


中間テストが終ると、テスト休みがあって、期末テストが終り、夏休みがもうすぐやって来る。

それは小、中、高、全部足しても、たった十年とちょっとのことだけど、

随分と長い間そんな風に時を過ごしていたように思えるのは、

あの頃の自分が常にキラキラしていたからだろうか。

お巡りさん。

近所に警察署がある。

歩いて五分くらいのところなので、免許の書き換えとか、とても便利だと思う。

歩いて五分くらいなので、美子が娘の頃、美子の家に、その警察署のお巡りさんが

毎日のように遊びに来ていたそうだ。

仕事を終えると、美子の男兄弟のところに遊びに来て、ご飯を食べて、お風呂に入って

帰ったのだとか。

昭和も、戦前の話だ。

その頃、今の我が家の前は川で、その少し先は埋め地、と言われていたそうだ。

私が子どもの頃まで、三渓園の先は、遠浅の海で、浅蜊も採れたが、赤貝もたくさん

採れた。

その頃、三渓園の近辺のお土産というと、赤貝の干物が定番だった。

美子が暮したこの地の先もまた、遠浅の海があり、

そこで赤貝や浅蜊を採ってくる人が多かったそうだが

元家老の娘で、津田女を出たという、美子の母はそれを許さなかったとか。

時折、母親の目を盗んで、近所のオバサンと出かけると、帰って来てこっ酷く叱られた、と

美子は話していた。

美子が採ってくる浅蜊は、祖母に見つかると、ものの見事に、前の川に捨てられてしまうのだとか。

家老の娘だからではなく、一番下の息子を幼くして、赤痢で失くした祖母にしてみれば、

泥の中から出てくる貝など、恐ろしくて食べる対象でなかったのかも知れない。

しかし、末っ子娘の美子は、そんな母親を、慇懃無礼なやな奴と、凄く嫌っていた。

尤も、亡くなる少し前には、それまで一度も聞いたことがなかった、祖母の炊き込みご飯の

レシピをノートにしっかりと綴っていたのだから、当然のこと、母親のことは好きだったのだろう。

その亡くなる少し前、あまり古いことに拘らない性質(たち)だった美子が昔の話を

よくするようになった。

その中で、その、警察署の署員との交流の記を聞いたのだ。

それを聞きながら、私は山本周五郎の小説『寝ぼけ署長』を思い出した。

この小説の主人公も、家の近くのその警察署の人がモデルなのだ。

と、横浜の戦中について一般の人が語った本の中で、周五郎が暫く滞在した家の娘さんが

書いておられた。

母の話を聞いた後、その小説を読み返すと、なるほど、もしかしてこれってあのあたりのことか

と、想像を逞しくさせてくれる場面がたくさん出てきて、今までの印象と

全く違っていた。

警察署の署員が仕事帰りに一般人の家に立ち寄り、食事をして、風呂に浸かって帰る、って

そんな時代に私も生きてみたかったと、今でもそう思う。

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