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私が子どもの頃は、自転車に乗ったおじさんがいろんな物を売りに来た。
お豆腐屋さんも、つくだ煮屋さんも、紙芝居屋のおじさんも、黒くて頑丈そうな荷台に、箱を載せて
やって来た。
その自転車は我が家にもあり、父が時々、私や妹を乗せて、麦田の先まで映画を観に連れて行ってくれた。
元町の、今は、元町プラザといわれているあたりには、増徳院というお寺の薬師堂があって、
それが、崩れそうなお堂で、周りには、洋種山牛蒡が群れて生えていて、
昼間でも通るのが怖い道だったから、その前を通るときは、いつも目を瞑っていた。
今プラザになっているあたりは、元お寺の境内だったようで、階段があり、その上に
所謂バラックが建っていて、時折、洗濯をしたりして、生活をする男と女の姿を見かけたことが有った。
子どもというのは勝手なもので、子どものいない中年夫婦というのを、妙に疑うようで、
子ども達の間では、密かに、あの男女は、人攫いだという噂が立ったことがあった。
この境内の端には、慰霊碑が立っていて、その下は小さな公園になっていた。
その公園の前に、美子の幼馴染の家があり、時折母と出かけると、大人の会話に飽きた私は
一人で公園で遊ぶことが多かった。
あるとき、それにも飽きたので、階段をあがって行くと、件の男女がそこにいて、
二人して私を見たので、私は驚いて、大急ぎで美子の許に駆け戻った。
美子の幼馴染の話では、その二人は、戦災に遭って、その場所に住み着いた人のようだ
ということだったが
何日かして、その場所に行ってみると、そこにはもう、誰もいなかった。
私は、隠れて暮らしていた彼らのことを告げ口したから、みんなに見つかって逃げたのだろうか、と
そんな心配を暫くしていたが、結局、彼らが何処から来て、何故そこに住み、そして何処に行ったのか
誰からも聞くことはなかった。
ところが、夏の暑い日の午後
その石段の前を、私のことを荷台に乗せて、父が自転車で通り過ぎるとき、
その男の人が階段から下りて来て、父を見ると、被っていた帽子を取って、一礼をした。
父は小さく頷いて、再び自転車を漕ぎ出して、元町商店街を抜けていった。
あのときの父の顔がどんな風だったか、解りはしないが、きっと父は泣きそうな顔をしていたと
そう思う。
父は、戦争の末期に、至急帰国せよとの命令で、多くの部下を戦地に残し、
そして多くの部下をむざむざと死なせてしまった
そのことを無念に思い続けて生涯を終えた。
明けきらない朝の空気の中で、張りの有る納豆売りの声が聴こえなくなって、
気だるい夕方に,トーふぃ、という単調な声と、情けないラッパの音が聴こえなくなり、
そして、いつの間にかつくだ煮屋さんが町から消えた頃、
我が家の黒い自転車も消えていた。
自転車に乗らなくなった父は、美子と共に私の嫁ぎ先にやって来るというその一週間前に
突然この世から消えた。
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