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壽宮

徳寿宮


徳寿宮の歴史
1592年壬辰の乱が起きて先祖が義州まで非難に来たがソウルに帰って来て見たら景福宮, 昌徳宮,昌慶宮が皆燃えてしまって王の住む王宮がなくて王族の家の中で一番規模が大きくて完璧な原産台軍歌を仮宮にして王が住むようになった.1608年2月に先祖は行具の沈澱からお亡くなりになって光海君が仮宮のソチォンで王位に即位した. 光海君3年(1611)に仮宮を慶運宮といった. 慶運宮の正門は元々正南側のインファ門だったが, また作りながら同族にあった大案文を修理して名前も大韓門に直して正門にした. 1906年には火事で燃えた、中和殿が不具された.石造殿は 1900年に着工して 1910年に完建した。 1907年7月20日に日本侵略者たちの強圧によって高祖が純宗に帝位を前衛すると先制の住む宮になって徳寿宮と言った.

大漢門
大韓帝国、近代世界に向けて門を開く
元々慶運宮の正面は南側にあった化門。漢陽を首都として新たに生まれ変わった大韓帝国が、永遠に栄えるだろうという念願をこめた言葉だ。
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徳寿宮の大韓門の前に伝統衣装を無料で試着してみることができるようになっている。
tip. 利用時間:11:00 ~ 12:00, 14:00 ~ 14:30, 15:30 ~ 16:00
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風情ある徳寿宮の石垣道
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咸寧殿と徳弘殿
皇帝の寝殿と便殿
咸寧殿は高宗の環御とともに1897年に建立された王の寝殿である。1904年、大火災で消失後に重建された。高宗はここに寄居していた時、68歳で崩御した。死後、咸寧殿は高宗の殯殿及び魂殿として使用された。
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徳弘殿は名成皇后の魂殿として使用された景考殿が位置していた所で、高宗皇帝が高位官僚と外交使節を接見する便殿として使用した。
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内部は天井にシャンデリアを設置するなど、西洋風に飾られた。
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咸寧殿の裏手には階段式庭園を構え、塼壁石で作った惟賢門と美しい装飾をした煙突を設置した。
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静観軒
伝統建築と西洋建築の調和
静観軒は、その名のとおり宮殿後苑の丘の上から”静かに宮殿を見下ろす”休息用建物である。1900年頃、ロシア建築家・サバチン(A.I.Sabatin)が韓式と洋式を折衷して設計した建物である。

コーヒーと高宗毒殺未遂事件
高宗は1896年、俄館播環の時にロシア公使館で初めてコーヒーを味わったが、慶運宮に移った後もその味を忘れることができなくてずっと楽しんだ。1898年にコーヒーと係わる高宗毒殺未遂事件が発生した。キム・ホンリュクという者が高宗と皇太子が好んで飲むコーヒーに毒を入れたのだ。キム。ホンリュクは訳官出身で俄館播環の時に高宗の目に入り出世したが、通訳に託けて国政を独占したことが発覚して流罪に処されたが、これに恨みを抱いてこのような事件を起こした。幸い、高宗は口に入れた毒入りコーヒーを吐き出したが、既に一口飲んだ皇太子(後の純宗)はそれを吐き出したにもかかわらず、その余毒によって後遺症に苦しむこととなった。
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石造殿
近代国家の象徴
石造殿は高宗皇帝が寝殿兼便殿として使用するために、1900年から1910年にわたって建てた洋式石造建物である。
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即阼堂一帯
即阼堂一帯は、文禄の役の時に先祖が臨時に留まった所で、徳寿宮の母胎となった所である。
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中和殿
公式的行事を行った宮殿の最高殿閣
中和殿は慶運宮の正殿として王の即位式、臣下たちの祝賀会、外国使臣の接見など重要な国家的儀式を行った所だ。高宗が慶運宮に移った後、約5年間、即阼堂を正殿として使用したが、1902年に重層の中和殿を新たに作った。
中和殿を取り囲んで広々とした庭、朝廷を形成していた行閣は高宗の死後、大部分取り払われて東南側の角の部分だけに残っており昔の姿は想像するしかない。
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中和殿に上がる階段の路道には朝鮮宮殿の正殿中唯一、二匹の竜が刻まれている。他の宮殿の正殿にはみな鳳凰が刻まれているが、大韓帝国出帆後に建てられた建物であるため、皇帝を象徴する竜を装飾したのである。
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水時計自撃漏
水時計は水の増加量または減少量で時間を測定する装置として三国時代から国の標準時計として使った. 朝鮮世宗16年(1434)張英実によって決まった時間に鐘とどら.鼓が自然に鳴らすようにした水時計が初めて製作したが長く使われることができなかった。 衆中 31年(1536)に再度製作した自撃漏の一部が現在残っている.
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圜丘壇
圜丘壇は現在のソウル広場越しにあった南別宮址(現在の朝鮮ホテル敷地)に建設された。南別宮は元々太宗の二番目の王女が居住した所で、1583年(宣祖16年)に義安君が居住することによって南別宮と呼ばれた。以後、仁祖の時、中国使臣を応待した太平館が徹廃されると、中国使臣の居所として使用された後、1897年、高宗が皇位につくことを天に告げるための圜丘壇がここに建築された。
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