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ブランクーシ 接吻。そして無限の柱。
ロダンの誘いを断り。
その下を去ったブランクーシではあったが。
おそらく、ロダンの作品の実物を見て。
唖然とした筈である。
粘土、ブロンズ、大理石に
人の心を息づかせた作品を見れば。
これはもう適わないと思う筈である。
そして彼は
その人間の原初の頃に戻ろうと考えた。
それは最初の彫刻家になる事である。
人類が生まれて。何かに縋りたい。
そんな時に彫ったであろう彫刻を
目指したのでは。
そしてブランクーシの接吻である。
これほど単純明快に分かる作品も無い。
これは一人では生きる事は難しい。
男女でもである。
しかしその弱い二人が結ばれる事で
一つの塊が出来る。
彫刻って人物を彫ると
その手足の処理が一番難しい。
しかし二人を抱き合わせると。
その両の手は相手の体を抱く事により。
邪魔であった手足の処理がより物の形が堅牢となる。
この塊で捉える事こそが彫刻形態の原点であり。
基本と彼は気付く事になる。
その堅牢堅固な固まりは柱となる。
人は何世代もの人柱により、
今の現代が成り立っている。
そして無限の柱である。
これはブランクーシが
接吻として造った塊を
より単純化した物ではなかろうか。
誰とは分からない。
しかしその二人となった塊を重ねる事で
無限の柱と彼は考えたのでは。
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絵画 彫刻
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ロダン 地獄の門。接吻。そして考える人。
先日、
地獄の門の構想から外れた
接吻のお話をしましたが。
この地獄の門を語らなかったため。
曖昧となった気がしますので書かせて頂きます。
このロダンの地獄の門の基となったのは。
ダンテの神曲となっております。
その中に。
決して結ばれてはならない男女。
パオロとフランチェスカが基となります。
これはおそらくロダンが
寝物語としてカミーユに話した物と思われ。
そもそも自分たちの関係と
重ねて作られたと思います。
だから二人が共鳴して傑作となったと思います。
カミーユは19歳でロダンを訪ね弟子となり。
愛人となります。
カミーユの家系は
相当高貴な家庭と思われます。
弟は先にも申し上げましたが。
後にフランス大使となっております。
この時点で
カミーユは家族として見放されます。
これも覚悟の上であったと思います。
ロダンを選んだのだと考えます。
そしてあまりにも
この接吻が作品として耽美で
美しく完成され過ぎたため外されます。
それはこの罰を犯した二人は
地獄の底へ真っ逆さまに
離れ離れに落ちて行くからです。
この接吻は。
その決して許されない関係を持った
二人の一瞬の甘美な世界となります。
だから躊躇いがちの姿をしているのです。
しかしそれだから美しくもある。
地獄の門では外されますが。
二人が落ちて行くシーンは
門に描かれております。
そしてロダンですが。
心の中ではこれはいけない行為だと
分かっている。
しかしそれを抑えられない自分がいる。
それが考える人となります。
この像は地獄の門の上に乗り。
地獄に落ちて行く人をジッと
見下ろし考える人として座っております。
これはおそらくロダン自身と
考えるのが妥当と思います。
この作品はおそらくロダン一人で
作ったものと思われます。
あまりにも先の接吻と離れ過ぎている。
昔からこの時代の作品は力強い作品と
限りなく繊細な作品が作られており。
何故なのかと言われて来ておりました。
おそらく接吻はロダンとカミーユの共作。
そして考える人は
ロダンによる作品と私は考えます。
そしてライフワークとなった地獄の門ですが。
実は未完成に終わります。
これはカミーユがいたからこそ
進行していた門であり。
彼女を失って完成に
至らなかったと私は考えます。
そしてこの16年間カミーユと
過ごした時期こそがロダンが
力を発揮した時代と思います。
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ロダンとカミーユ・クローデルを少し。そして接吻。
追記あり。
ロダンは
誰が何と言おうが。
大天才の彫刻家です。
ロダンとカミーユは
確か親子ほど離れた年です。
カミーユ・クローデル
これとローズ・ブーレとの
三角関係と言われておりますが。
ローズをモデルとした作品。
ロダンにとっては数ある女の中での
二人の女となります。
この二人が殊更取り上げられるのは。
ローズはロダンが二十代の頃から
付き合っている女性であり。
内妻とまで言われております。
実はロダンに言わせれば
俺は生涯独身だったと言うと思います。
何故なら
ローズと結婚したのは
ローズが死ぬ二週間前です。
そのローズが死んだ年の末頃に
ロダンは
『若い方の妻に逢いたい』
という言葉を残して亡くなります。
最低な男です。
所でカミーユがロダンに捨てられ。
『私とロダンが一緒に過ごし作った作品は共作です』
と訴えたが。
これに呼応する人間はいなかった。
そして精神の病に冒され。
精神病院に入り。
故郷へ帰りたいという願いは
死ぬまで叶わず病院で死去します。
これに関しては弟で
フランス大使まで勤めた
ポール・クローデルだけは
ロダンをボロかすに叩いておりますが。
それに呼応する人はいなかった。
それは何故か。
これは私の勝手な思いですが。
二十歳そこそこでロダンと
殆ど代わらぬ才能を持ち。
そして『カレーの市民』は
その手足をロダンに任される。
『カレーの市民』
※右端の男はロダンの息子と言われておりますが。
ロダンは認知しておりません。
彫刻家として
これは最大の名誉でもあるのです。
ロダンには沢山の弟子がおります。
この姿を見れば嫉妬したと思います。
何せおそらく弟子の中では一番若くて美しい。
そして全く手も足も出ないほど彼女には才能がある。
そんな女から
ロダンに代わって指示され仕事をすれば。
カミーユの評判は下がる一方となるのは当然です。
カミーユの事はロダンが
扱いづらい女だと認めているのです。
ただその才能と美貌と肉体には
ロダンも敵わない。
従順で黙々と仕事をするローズ。
事実、彼女はお針子出身ですが。
工房で働いております。
作品の仕上げをするローズ
しかし決してロダンは
人前では名前で呼ばせる事は無く。
『先生』と呼ばせていた。
ホント、ロダンは嫌な男です。
そして『接吻』ですが。
『地獄の門』の構想の中から生まれた作品です。
この二人の官能的な姿はあまりにも
美し過ぎるので地獄の門に相応しく無いと
門から外されます。
この男の右手に注目して頂きたい。
女に触れるか触れないかの男の手です。
これほど繊細な手の動きを
果たしてロダンが作れたのかという事です。
これはカミーユの手によるものではと私は考えます。
とにかく『カレーの市民』において手足を
任せたロダンです。
これをカミーユが手がけたとしても
何等おかしく無い。
あくまで私の勝手な思いです。
そしてロダンに対する中傷ですが。
私の大好きなブランクーシが。
ロダンの作品を『ビフテキ』と呼んでおります。
これは突っ込まれた時には
『それほど美味しそうです。』
とかわす事が出来る。
彼はロダンから弟子になる事を
勧められた時に
『大樹の下には若草は育たない』と
名言を残し去った男でもあります。
『ビフテキ』という言葉には。
『あまりにも脂ぎっている』
或は
『肉欲的である』と
意味を含めた言葉と私は考えます。
これはあくまで私が考えた事です。
お含みおきください。
そしてこのロダンの作品の前では
どんな言葉も黙らせる力がある。
追記。
先程、この文を書いて映像を
取り込んで気がついたのですが。
これは二人で練りに練った作品と思います。
この二人は愛し合ってはいけない二人です。
この作品の構想を二人愛し合いながら作ったのでは。これはホント微妙な男女のやり取りです。
女の左手は男の首に巻かれております。
男の左手はまだ女に触れていない。
これはお互いダメだと分かっていながら
愛し合うシーンです。
このあと女の左腕は男の首を引き寄せます。
そして女の左半身はせり上がる。
この微妙な動きを二人で綿密に
考えたのでは。
これは共作だと考えます。
男一人で考え得る発想では無い。
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『はしもとみお展』。ニャン子が椅子に座る。
ブロ友様のつや姫日記様が
行かれた木彫家『はしもとみお展』です。
つや姫日記様は二度行かれております。
私は行っておりません。
その映像を拝見して惹きこまれました。
私はかなり好みが激しく
ここまで惹かれる作品は中々無い。
所でこの作品であるが。
ニャン子が椅子の上に乗せられて
お腹を堂々と出してこちらを向いる姿である。
まずこの発想に驚く。
普通の彫刻家であれば。
この姿勢は思いつかない筈である。
本来であればうつ伏せの姿勢になり。
何か獲物を見つけて狙いを定めた
姿勢になると思う。
それが普通の彫刻家の発想である。
しかし
これを考えられない姿勢で作品とする。
おそらく相当可愛がり。
ニャン子がこの姿勢となったのだと思う。
これは深い愛情が無ければ成立しないものである。
そして彫刻家が誰も考えもつかない姿勢である。
彫刻で良く使われるフォルムを無視している。
しかしこの姿勢で成り立たせてしまう。
この作家の力量は凄い。
またこの顔が良い。
ニャン子の目が眠そうでもあるが。
『何よ!』という言葉が聞こえて来る。
そして腹から足先にかけての作りが素晴らしい。
腹には柔らかな毛が生え揃い。
足は意外と大きい。
これは本来、猫が跳躍力を
得るためのものである。
ある意味不恰好なのである。
それをものともしない。
これがあるから
全体の形態として成り立っている。
そして具象彫刻という言葉のあり方まで
考えさせられる。
具象彫刻は
その姿を似せる写実性を表した言葉であるが。
普通であれば
『生きているようですね』となるが。
このニャン子はそこに
『生きている』。
この違いは大きい。
このニャン子の視線姿に全く狂いが無い。
殆ど完璧である。
私はこれほど驚かされた事は無い。
注・
この画像は
つや姫日記様が撮られたものです。
つや姫日記様、感謝しております。
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はしもとみお彫刻展を観て。
先日ブロ友様のつや姫日記様の所で
この方の名前を知る事になる。
先ずその映像を観て。
美術館に動物を入れて良いのかと思った。
これが作品である事に驚いた。
普通に生きている。
そして次のワンちゃんには
このニャン子たちにはそれぞれ自由に生きるニャン子
捉えられている。そしてこれも
眠そうなニャン子と遊ばせてと
言っている言葉を感じる。
そして私が最も感動したのは。このワンちゃんである。
その視線の先は飼い主に対する深い想いである。
品格と崇高さまで感じる。
これらは皆木彫という事である。これほど
動物の心を捉えた彫刻家を私は知らない。
動物たちと作家が共鳴している。
この
はしもとみおという作家は純粋な方なのだと
思う。
おそらく人物は彫りきれないのでは。
もし人物を彫るとすると純粋な心を持った人。
子供たちになるのでは無いだろうか。
才能ある木彫家を観たものである。
私は実物を観ている訳では無い。
それでもこれほど感激した彫刻は久しぶりである。
尚、この映像はつや姫日記様が
この美術館で撮影されたものを拝借しました。
つや姫日記様感謝しております。
この展覧会は山形県酒田市
酒田市美術館
3月17日〜4月22日。
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