不あがり

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エッセイ 骨董など。

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骨董との不思議な出会いを想う・・・。そして感謝する。
 
最近そんな事を考える。
何故骨董に惹かれるようになったのか。
その寂しい心を癒してくれるからではないか。
などと考える。
毎日毎日その孤独を癒してくれる。
そして寄り添ってくれる。
 
その昔を生きて来た事を語ってくれる。
それを聞いてその生まれた時代を想う。
 
そしてその長い道のりを経て私の所へ来たわけだが。
それはこれらの品物にとっては少しの間の休憩場所でしかない。
ここが永久の住処ではない。
 
彼らにとってはあくまでその短い寄り道のひとつでしかない。
その長い旅の道すがらの旅の話を聞き私はそれに癒される。
 
遠い過去を生き残り。そして今ここにあり。
そして未来を生きるのであろう。
 
それは物であるが。あくまで我々にとっては
お客様である。その物がたまたま私の所へ訪ねてきたのだ。
 
だからその客はその人を選び。場所を選ぶ。
ある時はその人を嫌い。あるいは場所を嫌い出て行くこともある。
 
その品物はその居るべき場所を心得ている。
品物が人を選び。その居場所を選ぶ。
 
それを持つ事が出来る人は
金があるからだけでは拒否される。
それに見合った人である事を要求する。
それを選ぶ事により生き残りを懸ける。
 
そんな品物の中で私の所に来た物にあらためて感謝する。
彼らには何の保障もない。それでも来てくれた。
それが有難い。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
骨董 無名陶工が作った物は無限の広がりがある。
 
桃山まで遡ると唐津、美濃、瀬戸など銘が無い。
但し高台や器形などを見ていると
明らかに同じ陶工が作ったと思われる物がある。
数百年を経た今に残っている伝世品の名作と
呼ばれる物の中にそれが含まれるという事は
恐ろしく力のあった陶工がいた事を示している。
 
しかしそれを誰が作ったのか判らない。
それだから良いのでは。その夢が膨らむ。
 
陶器の場合。その製作過程において奇跡が
起こることが度々ある。
轆轤で作り上げた物がそのまま出来るわけではない。
焼き上げて初めて出来上がる。
その火の力により作品は一変する。
器形は歪むこともあり。
釉薬はその熱より思わぬ味となり
景色となる。
 
しかし高台などは変わらない。
だから茶碗などは高台に重きをおくのでは。
高台の素晴らしい物は殆どの場合作品の出来も良い。
 
 
磁器である伊万里などは
高台に福の字など入った物が
良い品物であり。珍重される。
それは窯の銘でもある。
 
それも大事であるが。
その前にその品物自体が素晴らしい
出来である事も事実である。
 
私は伊万里の場合の銘は
そのデザインとも見ている。
その殆どがその作品に
呼応している。
 
そしてその伊万里の殆どは無銘である。
 
何千何万と作られた品物の中に
突然変異的に絵付けの素晴らしい物がある。
同じ絵柄でありながらレベルの違いに驚く事がある。
とても陶工の絵付けとは思えない。
素晴らしい物に出会う事がある。
 
それは同じ絵を描き続けた陶工の
体調が良かったのか。
それとも突如芸術性に目覚めたのか。
それは判らない。
 
私はそんな万に一つの品物を手に入れたいと
日々願っている。
 
その無名陶工であるからこそ
無限の広がりを見せる事がある。
その想いが通った物が欲しい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
私にとって骨董のお宝とは。あくまで私にとってですが(笑)。
 
その金額ではない。
その想いがあります。
私はその金額にはあまり興味が無い。
それより今持っている私の品物が。
私が死んだあと何方が引き継いで頂けるのか。
そちらが心配である。
 
その残された品物が粗大ゴミとして出されるのが怖い。
それが今一番の悩みと言っても良い。
私の持っている品物を一人でも良いから、
その価値より。
その想いを共有して頂ける方がいるか。
それが気になる。
その品物の心を汲み取って頂けるか。
それが心配である。
少なくとも200年は生き残ってきた品物である。
どうかその想いを感じて頂きたい。
その想いを感じて頂く方に伝えて貰いたい。
この変人の想いを。
 
私のような変人が過去にもいたから
私の持っている品物に今がある。
その今ある品物を未来に伝えて欲しい。
それが私にとっての宝である。
 
私の想いが伝わるお宝である。
私が居なくなっても。
その品物にその想いを伝えたい。
それが私にとってのお宝である。
その想いが伝わって欲しい。
 
どうかその想いが伝わって欲しい。
箱も箱書きも無い。
 
あるのはその変人が愛した品物と
その想いだけである。
 
 
 
 
 
骨董。その箱と箱書きの重さを知る。
 
道具屋さんに頻繁に通っていた頃である。
 
ある時、ご主人が嬉しそうに帰って来た。
『不あがり君、面白い物が手に入った。見せてやる』
そう言って奥に私を招いた。
 
大事そうにその箱を取り出した。
しっかりとした造りの箱であった。
その箱を開けると。その中に箱がある。
え!?と。驚いていると。その箱を取り出した。
 
同じく良い造りの箱である。その箱を開ける。
とまた次の箱が出てくる。
これは!と思っていると。
 
その箱の中から丁寧に包まれた物が出てくる。
それは小さな香合であった。
亀甲の形をした。茶色い肌をした。
楽焼であった。
 
実はその時、何焼かも判らなかった。
 
それよりこの箱の数に私は驚いていた。
 
当時、『箱なんてどうでも良い』と思っていた。
『箱より中身だろう。』そんな想いがあった。
 
それがこの小さな香合のために箱を3つも造る。
 
驚いたのはその箱書きである。
覚々斎、了々斎の墨書がされていた。
これは表千家の方々の箱書きであった
(この人たちの事も実はこの時知らなかった)。
 
その箱を見て
この香合がどれほど大切に扱われていたのか。
それに驚いていた。
 
普通に考えれば。箱はひとつで良いはずである。
 
その品物も大事であるが。
その品物に対する想いが一つ目の箱。
その品物とその品物を持った方の想いに
敬意を表して造った箱が二つ目の箱。
そしてその二つの箱に収まった
この品物と箱。持たれた方たちの想いに。
さらに敬意を表した箱が三つ目の箱となる。
 
この時、箱の重みを深く感じたものである。
 
そしてそれに触れる事が出来た事の悦びを
また深く感じたのも事実である。
 
骨董を持つという器。その想いを少し。
 
初めてこの世界に足を踏み入れた時はその想いは高く。
とにかく金に物を言わせて次々と手に入れて行った。
その結果、殆どが贋作であり。早々に痛い目に遭う。
 
それでも欲しい。何でなのか。古いものを何故欲しがるのか。
思うに人の命より何倍も生き残ったその力に惚れるのでは。
 
それは人が介在してその先人がその品物を慈しみ尊敬を込めて
後世の人にその品物を託す。その繰り返しがあり今がある。
 
数百年も愛でられたその品物はそれなりの品格を持ち。
それを持とうとする人すら選ぶ。
自ずとその品物は高額になる。
 
しかし金を持っているから手に入れられる物ではない。
その人物がその物を持つに値する人なのか。
それまで要求する。
 
そのために先人が箱書きをして。
その想いを記す。
 
その想いは金がただある人に渡るのを避けるためだ。
先ずその箱書きを見てそれを理解できるか。
箱書きだけではない。
 
先人がその品物にどれだけの想いを託したか。
その想いを感じ汲み取って頂けるか。
そこまで要求する。
 
その想いが理解できない方には持って欲しくない。
そんな想いがあるのでは。
 
自ずとそれは潤沢な資金を持ち。
その品物への尊敬畏敬の念が
無い方には持つ資格は無い。
 
しかし、その資格は己を磨く事で
品物に追いつく事が出来る。
 
それは人生の修行の品物でもある。
死ぬまで人生は修行である。
 
その修行が出来ていない人が
その品物を手に入れても
その品物はその人に見切りをつけて
その人の所を自ら去っていく。
 
その器に去られる事が無いように
その持ち主は自らを研鑽しなくてはならない。
そんな想いが私にはする。
 
そして私はその器には
程遠い人間である事に
気づく。
 
 

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