不あがり

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エッセイ 文学。

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芥川龍之介。杜子春を読む。彼も人の子であり。親であった。原作と比べる。
 
芥川龍之介というと一字一句が
カミソリのようで下手をすると手を切るではなく。
命を落とす。
 
彼の作品にはどこと無く人の命を奪う。
そんな力がある。
 
読み込むと。先ず人を信じられなくなる。もちろん己自身も。
そして自殺に追い込まれる。怖い作家でもあり。作品でもある。
その切れ味を一度知ってしまうとなかなか抜け出せなくなる。
殆どが短編でありながらその中身は非常に濃い。
麻薬的でもある。
 
私はその恐怖を知って数十年離れた。薬を絶つように。
久しぶりに彼の事を考えていた。
少し冷静に見ることが出来るのではと思ったからだ。
 
 
そんな中、杜子春を読んだ。
 
杜子春は
金がある時は贅沢三昧を繰り返し遊びほうけて無一文になる。
金が無くなると。人は離れていく。そして独り佇んでいた。
そんな時に仙人と思われる男に助けられる。
 
そして大金持ちになる。しかしまた贅沢三昧を繰り返し無一文になる。
そんな生き方を繰り返した杜子春は己と人の嫌らしさに気づく。
 
そしてその仙人と思われる男に、あなたは仙人では。
ならば私をその弟子にして欲しいと頼む。
 
するとその男は、私は確かに仙人である。
仙人になるためには、これから起こる事に
何があろうと口を利いていけない。
それは魔物である。
見てはいけない。聞いてはいけない。
決して声を出してはならないと
その場を立ち去る。
 
杜子春はあらゆる脅しや恐怖に耐える。
仕舞には地獄に落ちるがあらゆる苦役に耐える。
そして地獄で痩せ馬に変わり果てた両親と出会う。
その馬に対し容赦なく鞭打つ姿を見て。
これは魔物のなせる事と耐えていたが。
その母の耐える姿を見て思わず
『お母さん』と叫んでしまう。
 
すると元の場所に戻っている事に気づく。
そこに仙人が現れ、
もし、あそこでお前が声を出さなければ
俺がお前を殺していたと言って去っていく。
そして杜子春は人として目覚める。
 
 
 
所がである。
中国で書かれた原作はそうは言っていない。
あらゆる脅しと恐怖に耐えた杜子春は女に生まれ変わり。
子供を宿し。その子供が育つ。
しかしそれでも声を出さない。
 
それに怒り狂った夫がその子供の頭を
斧で叩き割ろうとする。
 
その瞬間!声を出してしまう。
 
すると仙人が残念そうに現れる。
 
お前はあらゆる物を捨てる事が出来たが。
最後に愛情というものを捨てる事が出来なかった。
あと一息で仙薬が出来るところであった。
お前はまだ仙人に成る事は出来ない。
それにしてもあと一つであったのにと
残念そうに立ち去る。
 
 
結末が全く違うのである。
 
本来の芥川であれば。
原作通りの冷たい終わり方をしていた筈である。
では何故この終わり方になったのか。
 
 
大正96月にこの作品が発表される。
その3ヶ月前の3月に長男が誕生する。
 
おそらく彼は子を持つ親として杜子春を書いたのであろう。
彼も人の子であり。親であった。
そんな想いがあったのでは。
 
 
追記。
この原作の話は40数年前古本屋で見つけた
筑摩書房で出版された芥川龍之介の作品集の中に
掲載されていた物を私の記憶の中で書いている。
その事をお含みおき頂きたい。
 
 
 
 
夏目漱石 坊っちゃん 久しぶりに読む。少しも痛快では無かった。
 
何年ぶりどころではない。
40年は読んでいなかった。
もしかしたらそれ以上かも知れない。
 
小学校の時、
この『坊っちゃん』を読んで感想文を書けと言われて。
書けないと言って書かなかった。
 
おそらく
読んでいない。
又は読んでも理解出来なかったのではないか。
 
その当時、利発と思われる女の子が
感想文を書き読み上げた。
『・・・痛快で面白かったです・・』。
 
ふざけるな!と言いたい。
 
今読み返して何処にも痛快な所など無い。
これは真っ直ぐに生きてその度に
弾き飛ばされた男の話である。
 
ただ救われるのは下女の清である。
『貴方は将来がある人だ。』
『その真っ直ぐな所が良い』と
言ってくれている所である。
 
先日、草枕の冒頭を書いたが
正にこの男の生き方だ。
 
この主人公は決して頭は良くない。
そして何も考えていない。
それこそ世間知らずの坊っちゃんである。
 
そして友となる山嵐は
その坊っちゃんより少し世の中へ出た男で
世間の辛さ悪さを少し知っている。
いわば兄貴分である。
 
おそらく二人は漱石の分身である。
 
この物語で生徒にコケにされ、
教頭の赤シャツに散々バカにされ、
その策略により事件に巻き込まれる。
 
山嵐は校長から辞表を出すように言われる。
 
坊っちゃんには
この男はまだ扱い易いという事で『留まれ』と言われる。
これは屈辱である。
 
坊っちゃんと山嵐は
その教頭と同僚を待ち伏せして気が済むまで殴り倒し。
坊っちゃんも辞表を出してこの地を逃げるように去る。
 
そして一緒に去った男とはそれ以来会っていない。
 
ただ一人、坊っちゃんと想ってくれる
下女、清の所に帰り。
鉄道会社に勤める事になる。
 
しかし教師としての給料は40円であったが。
今度の仕事は25円である。
それでも清だけは喜んでくれた。
しかしその清も春先に肺炎で死ぬ。
 
兄とはその何年も前に生き別れとなっている。
 
そして清が死ぬ間際に言ったのが
『どうか私を坊っちゃんの墓に埋めて下さい・・』
と懇願されてそれを守る。
 
この男にとって
下女、清は唯一、坊っちゃんと
言ってこの男を認めてくれた女である。
 
そしてこの物語は
正義を通して社会に負けた男の話である。
 
おそらく殴り倒された教頭は
その後マドンナと結婚して幸せな生活を送った事であろう。
そしてその同僚もこの教頭の腰巾着として何不自由ない
生活を送った事であろう。
 
これが世の中であり。
人生だと漱石は語っている。
 
真っ直ぐに世の中を生きようとすると弾かれる。
少しも痛快ではない。
 
少なくとも
私は読み終わって泣いた。
 
 
 
 
 

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智が足りなくば騙される。
情に棹ささなくば嫌われる。
意地を通せば弾かれる。
とかくこの世は住みにくい(笑)。
 
これは私の歩んだ人生である。
夏目漱石の草枕とは行かない。
 
そしてこんな意味となる。
 
頭を使わないと人に騙される。
人に気を遣わないと嫌われる。
 
意地を通す。即ち、まともな事ばかりを
言っていると世間から弾かれる。
 
そして村八分ではなく村10分となる。
誰かが亡くなられても連絡は来ない。
 
火事が起きても焼き出されるか。焼け死ぬか。
呼びかけも無ければ助けも無い。
 
屍になればどこかに葬られる。
もちろん墓は無い。
 
正義を貫けばバカにされ、
人を助ければ頼られる。
金だけ盗られて逃げられる。
金が無くなれば相手にされぬ。
とかくこの世は住みにくい。
 
病気になっても医者に行く金は無し。
そして死ぬと迷惑となる。
出来る事なら息引き取る前に
救急車を呼び。それが間に合えば
綺麗にこの世を去れる。
 
この時ばかりは人から褒められる。
しかし己は知る由も無い。
とかくこの世は住みにくい。
 
 
 
因みに夏目漱石は草枕でこう言ったという。
 
智に働けば角が立つ。
情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
とかく人の世は住みにくい。
 
 
 

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コップの中の蛙。

コップの中の蛙。
 
井の中の蛙の話はご存知かと思うが。
井の中の蛙は生れ落ちた所が暗い地の底の中だ。
その中で精一杯生きて来たが。
 
ある時その世界から外へ出る事となる。
自分があまりにも小さい世界に居た事に気づく。
 
だがその中には『すげぇ!』と驚嘆しながらも、
その大海の事が知りたくなり、
意を決して飛び込んで行った者もいたと思う。
その大海を何とか俺の世界にしてやろうと
思った者もいたと思う。
そこに意味がある。
 
コップの中の蛙は360度全開で周りが見える。
窓の近くに置かれていれば、青い空も大海も見えたことだろう。
たとえ小さなコップであっても。
コップの中の蛙はそこで満足していたのだと思う。
 
外へ出なくても、おおよそ外の世界の事は判る。
わざわざ大海に泳ぎ出て危険を冒す必要もない。
その狭い知識で大海を知った気になる。
 
しかしその狭い知識は、
己の手で、足でつかんだものではない。
 
そんな蛙の中の一匹が私であることに気づく。
人生足別離 さよならだけが人生だ。
私はこの言葉を読んだ時に驚いた。
 
ブログの事も良く知らずに伊万里の事が知りたくて。
越前屋平太様の所へ図々しくも押しかけた。
そのお陰で沢山の事をお教え頂いた。
そしてそこに来られている方たちはどんな方なのだろうと
これも勝手に読ませて頂いた。大変失礼な男である。
ブログも開いていないのでご挨拶もしないで読んでいた
(実は今でも読ませて頂く事が多々ある。その失礼をお詫びします)。
 
過去の記事に遡って行くと。
ある休眠中の方のブログに出会う事になる。
先ず驚いたのは、その文章の上手さだった。
表題とその方の紹介している物が話の中でリンクしていく。
何気ない日常の話であったりするのだが。
いつの間にかその品物と繋がるのだ。その文章を夢中で読んだ。
 
その中に出て来たのが、この『さよならだけが人生だ』だった。
これは中国の五言絶句の中の最後の行の言葉だと知った。
それを訳したのが井伏鱒二だと知る。
 
井伏というと私が高校の時、教科書に出てきた『山椒魚』だ。
高校で唯一感銘を受けた短編の小説だった。
 
それから数十年経っての井伏の言葉だ。
『人生足別離』→『人生別離足る』→『さよならだけが人生だ』となる。この訳は本当に素晴らしい。『一期一会』という言葉があるが。この言葉より、より突っ込んでいる。人生とは出会いではなく。
別れることが人生であると言っている。
少なくとも私はそう解釈した。
 
人は生まれていずれは誰でも死んでいく。
その間にどれだけの人と出会いと別れがあるのか。
それは出会うための人生ではなく。
最後は独り別れを告げて逝くのが人生である。
この言葉は正にそこを言っているのでは。
 
そして私はこの言葉を教えて頂いた休眠中のブログへ
足跡を残した。それこそ、さよならだけが人生だ。

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