甲子園和也ROOM

チビ太郎君と旅行楽しかった。4回目も来春計画中。

気になるアスリート

[ リスト | 詳細 ]

甲子園和也が気になるアスリートを紹介していきます。
記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]

気になるアスリート第18弾は岩田康誠騎手です。兵庫県出身の日本中央競馬会(JRA)所属の騎手である。2006年2月までは、兵庫県競馬組合の清水正人厩舎に所属していた。地方競馬での勝負服の柄は白・青襷だった。得意戦法は先行。

兵庫県競馬を代表する騎手の一人として、先に中央競馬に移籍した小牧太と共に2本柱と呼ばれた。小牧太が抜けた2004年は、プレッシャーと12月1日の落馬もあり思うほど勝利数は重ねられなかったが、それでも279勝を挙げている。

地方・中央で通算勝利数は3000勝(後述)を数え、中央競馬移籍までは地方競馬の同一施行者での生え抜き騎手の中では断トツの1位であった(生え抜きに限らなければ中津競馬場から移籍してきた有馬澄男が通算で3800勝あまりを挙げており、現役に限らなければ田中道夫が3166勝、小牧太が中央移籍までに3376勝を挙げている)。また1996年にはケイエスヨシゼンでアラブ三冠を達成している。兵庫県競馬史上、アラブ三冠は1970年のアサヒマロットに次いで2頭目。このケイエスヨシゼン騎乗時に、プレッシャーから吐いたのは有名な逸話である。本人も何度かインタビューなどで自分のプレッシャーに対する弱さを吐露している。

しかし、勝利への意欲や闘志は満々で、デビューしたての見習い騎手時代には、レース中に大先輩の2000勝騎手の騎乗馬に果敢に競りかけ、レース後にその乗り方について激しく叱責された(勝負の世界とはいえ、新人騎手がベテラン騎手の馬を競りかけて潰そうというのはやはり憚られることである)。あと、涙目になりながらも「だって、僕だって勝ちたいんだもん」とつぶやいたという逸話があるほどである。

そして、これほどのハートを持つ騎手を周りが放っておくはずがなく、数年もたたぬうちに頭角を現し、兵庫県競馬において田中・小牧時代に取って代わるようにして小牧・岩田時代を作り上げた。ただし、小牧太が中央競馬に移籍するまでに岩田が年間リーディングを獲得したのは1回にとどまる。しかし、これは、所属厩舎の差が影響したものであり、岩田が小牧に劣るということを意味しているのではない(清水厩舎は岩田が頭角を現すまではどちらかといえば弱小厩舎の部類であった)。小牧太の中央移籍後は田中学(田中道夫の長男)とともに兵庫県競馬を牽引していた。

兵庫県競馬所属時代から中央競馬にも盛んに参戦するようになり、2002年にはビリーヴ号でセントウルステークスを制して中央競馬の重賞を初制覇した。同馬とは3戦3勝と相性が良かった。

2004年には菊花賞をデルタブルースで制し、地方競馬所属の騎手としては初めて中央競馬のクラシックを制覇した。また、地方競馬所属の騎手が中央の競走馬に騎乗してGIを制覇したのも史上初であった。

2005年のワールド・スーパー・ジョッキーズ・シリーズには地方競馬代表として参戦。ゴールデンサドルトロフィーで1着になるなど、総ポイントで41点を挙げ、総合優勝した(地方競馬の騎手が同シリーズを総合優勝するのは1994年の第8回大会で船橋代表として参加した石崎隆之騎手から始まり1997年の第11回大会で笠松代表として参加した川原正一騎手、2001年の第15回記念大会で佐賀代表でとして参加した鮫島克也騎手に次いでこれが4年ぶり4人目の快挙。そして関西地方競馬界からは初の王座騎手誕生となった)。

前述のとおり、2005年12月8日の園田競馬第1競走で1着となり通算3000勝を達成した。1991年10月23日のデビュー以来、14年2ヶ月での達成は佐々木竹見についで史上2番目の速さである。

中央競馬の調教師からの信頼も非常に厚く、地方所属時代に岩田が中央競馬に参戦した日には多くの騎乗数を集めた(一日で4勝をした事もある)。ただ、地方競馬所属の騎手が中央競馬で騎乗するためには、自分が所属している地区から中央競馬のレースに出走する馬がいる場合に限られる。つまり、地方競馬の騎手にとっては自分の所属する地区のお手馬と共に中央競馬へ遠征しなければ中央競馬での騎乗が認められない。岩田のように地方競馬のトップジョッキーでも参戦した一日の内、最低1鞍は中央競馬に比べレベルの低い地方馬でレースに騎乗しなければならない(もちろん地方馬の中にも中央馬に負けないレベルの馬はいる)。

地方競馬のトップジョッキーだけに中央競馬への移籍は時間の問題とも見られていたが、2006年度の新規騎手試験を受験し見事合格、3月より中央競馬の騎手として正式にデビューした。地方競馬から中央競馬へは安藤勝己、小牧太、赤木高太郎、柴山雄一がこれまでに移籍したが、安藤と小牧は中央競馬の特例(下記参照)をクリアし中央に移籍した。岩田はこの特例を2004年にクリアし、2006年度の新規騎手試験は二次試験からの受験が可能となっていた。ちなみに過去2年続けて一次試験から受験しているが2度とも不合格となっていた。

今後、現在中央競馬の騎手として圧倒的な存在にいる武豊を最も脅かす存在になるのではないかとの声もある。

中央競馬移籍後も、兵庫県競馬で行われる中央交流競走には積極的に参戦している。兵庫所属馬への騎乗依頼も多く、岩田が兵庫所属馬に騎乗する際は、かつての白・青襷の勝負服を着用してレースに臨む。

[編集]
中央競馬の特例
5年間で年間20勝以上を2回クリアすると、一次試験の筆記試験(国語・数学・競馬法規)が免除され二次試験(技能試験と面接)から受験できる。この特例は、その当時から中央競馬でも非常に顕著な活躍を見せていた安藤勝己が、一次試験から受験し不合格となったため、ファンからの声によって設けられた特例である。

この特例を利用し、安藤と小牧太、そして岩田が合格した。この特例を岩田の他に、名古屋競馬の吉田稔も2004年にクリアしていたが、吉田は2006年度の騎手試験には不合格となった。前述の条件をクリアした者が不合格になったのは初の例である。条件をクリアすれば高い確率で合格できることは間違いないのだろうが、合格条件を満たさなければ不合格にもなり得ることが分かった。不合格の理由は明かされていないが、騎手としては実績を残しているため技能試験で不合格になることは考えにくい。おそらく面接において合格条件を満たせなかったものだと思われる。不合格にはなったが、次回の受験の際にもこの特例は利用できる。また2006年に3月に大井競馬所属の内田博幸が特例をクリアしているため南関東リーディングジョッキーの中央移籍も考えられる。

地方競馬から中央競馬へ移籍した騎手の中には、一次試験から受験した赤木高太郎と柴山雄一が見事に合格している。競馬学校で一次試験の勉強をしている騎手候補生とは違い、平日に競馬に乗りながら(そして毎日、調教をこなしながら)勉強をしなければならない地方所属騎手は、この一次試験に合格するのは非常に難関である

気になるアスリート第17弾 赤木高太郎騎手です。

1987年に園田・斎藤裕厩舎所属で騎手デビュー。1998年秋から約8ヶ月間、単身オーストラリアに遠征。本人曰く、技術面よりもメンタル面を鍛えるための修行であったという。帰国後2000年度から2003年度まで、小牧太・岩田康誠に次ぐ兵庫リーディング3位のポジションをキープ。故・赤木圭一郎と同姓であったことから「園田第3の男」というニックネームも生まれた。

2001年、JRAの騎手免許試験の受験を決意。JRAでの勝ち鞍がなく1次試験(筆記試験)免除の特例(5年間でJRA年間20勝以上を2回達成した地方騎手に適用された)が適用されなかったため、調教やレースの傍ら1日8時間の試験勉強に取り組んだ。2002年の1次試験は不合格であったが2003年秋に合格。地方騎手による初の1次試験合格として競馬メディアによって大きく報道された。また、これ以降柴山雄一をはじめ地方所属の騎手がJRAの騎手免許試験を1次試験から受験する動きが加速した。翌2004年2月には2次試験(実技試験)もクリアしてJRA騎手免許試験合格を果たした。同じ兵庫県競馬組合所属の小牧太と同時の合格となり、2月19日には園田競馬場で、24日に姫路競馬場で「フェアウェルセレモニー」と銘打たれた両騎手の壮行会がとりおこなわれた。

[編集]
JRA移籍後
栗東・坪憲章厩舎所属でデビュー。2004年3月6日、中京競馬第2競走を所属厩舎の管理馬・タイセキショウで優勝。中央デビュー初日に初勝利を挙げた。

2005年3月1日付で坪厩舎を離れフリー騎手となった。

重賞では2着は複数回経験しているものの、優勝はまだ経験していない(2006年3月現在)。

[編集]
主な勝ち鞍
園田ダービー(2002年、優勝馬セトノウルトラ)
菊水賞(2002年、優勝馬セトノウルトラ)
六甲盃(2000年・優勝馬スペシャルダッシュ)
姫山菊花賞(2000年・優勝馬タカライデン)

はやく重賞に勝って全国の皆様に赤木高太郎をアピールしてもらいたいです。

気になるアスリート第16弾は小牧太騎手です。

兵庫県競馬組合時代は曾和直榮厩舎に所属していた。当時の勝負服の柄は緑胴 赤山形一本輪、そで赤。

初騎乗は1985年10月。曾和厩舎の主戦騎手として、楠賞全日本アラブ優駿3勝など、数々の重賞を制覇した。当時、兵庫県競馬に長く君臨していた田中道夫(現調教師)に引導を渡したのも彼である。兵庫県でのリーディング獲得は9年連続を含む10回を数える。

アラブ時代は縁が無かった三冠制覇は、サラブレッド導入2年目にロードバクシンで達成している。

JRAでの初勝利は1993年のワールドスーパージョッキーズシリーズ参戦時。ここでの表彰台に上がった際に涙したように非常に涙もろい。弟の小牧毅が重賞初制覇をした時は、本人の分も泣いていた。

その後、兵庫県競馬にもサラブレッドが導入されたことから、JRAでの騎乗も増え、移籍前に重賞を2勝している。この頃から橋口弘次郎厩舎の所属馬に騎乗する機会が増えた。

2001年、2002年にJRAで20勝以上を挙げ、JRAの騎手試験の一次試験の筆記試験(国語・数学・競馬法規)が免除され二次試験(技能試験と面接)から受験できる資格を得た。2003年の同試験に合格し、2004年にJRAへ移籍。兵庫県競馬所属としての最後の勝利は、特別に「フェアウェルステージ」と改称されたレースで、同じくJRAへ移籍する赤木高太郎をマッチレースの末、クビ差抑えてのものだった。通算勝利は3376勝。

JRA所属となってからも兵庫への参戦は活発で、2004年は条件レベルの交流戦を中心に地方全体で10勝を挙げ、兵庫での重賞成績は4戦2勝2着2回。三冠の園田ダービー、菊水賞では兵庫所属のホクセツガーデンに騎乗している。

移籍して2年目の2005年までに重賞を8勝(地方込み)しているが、期待されたG1は未勝利である。芝でのレース運びが致命的に悪く、移籍前より下手になっていると陰口を叩かれる事もある。ダイタクバートラムでは同じようなミスを犯し、しかもミルコ・デムーロに乗り代わった途端に圧勝されるなど、与えられたチャンスを生かせていない。

2006年2月26日の阪神第2レースで勝利し、JRA通算200勝を達成。

園田時代は小牧太からよく馬券買いました。2005年9月11日のセントウルSは現場参戦して、馬券もとらせてもらいました。

気になるアスリート15 稀勢の里関です。

四股名は本名で取っていたが新入幕の場所で改名。「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて師匠が提案、本人も納得しつけられた。琴欧州と良きライバル関係を築き十両昇進は貴乃花に次ぐ年少2番目の記録、新入幕も貴乃花に次ぐ年少2番目の記録で番付を駆け上がった。若さとひたむきな姿勢から、低迷する日本人力士の希望として親方衆やファンの期待は大きく、将来の横綱昇進は確実視されているが、入幕後は苦戦が続いており、土俵際の逆転を頻繁に許すなどつめの甘さも目立つ。その詰めの甘さは舞の海をして「前に出て土俵際で止まることも勉強しなきゃいけないですね」と言わしめた。押し・双差しての寄りなど体格を生かした相撲を得意とするが、土俵際で粘られてたまたま足が出て勝った相撲や体格に任せて無理矢理倒す相撲、相手の叩きにつけ込んだ相撲がまだ多い。

新入幕以来最高は9勝で、ぎりぎりの勝ち越しと負け越しを繰り返していたが、2005年9月場所では12勝を挙げ最後まで優勝争いに残り、また優勝争いの先頭だった琴欧州に土をつけるなどの大活躍で、初の三賞、敢闘賞を受賞した。しかし、更なる活躍が期待された翌11月場所は自己最高位の東前頭5枚目で5勝10敗と大きく負け越した。だが、2006年1月場所では、東前頭9枚目で8勝7敗と勝ち越し、続く3月場所では東前頭7枚目で10勝5敗と2005年9月場所以来3場所ぶりの二桁勝利を上げる活躍で、5月場所は自己最高位での更なる飛躍を期している。趣味はスポーツ観戦。

管理人が一番期待している力士です。

気になるアスリート14 普天王関です。

日本大学の相撲部出身でアマチュア横綱(2年時)を含め14個のタイトルを獲得し、2003年一月場所、幕下15枚目格付出で初土俵。6勝1敗の好成績で優勝決定戦に出場するが惜しくも敗れる。2場所で十両に昇進し、四股名を本名の内田から普天王に改める。実力者ひしめく中で揉まれるが1年かけて新入幕を果たす。左四つの型を持っているが相手有利に組まれたり立ち合い一気の攻めにあうと危うい。2005年五月場所では東前頭10枚目で11勝(4敗)して、自身初の三賞(敢闘賞)を受賞した。翌7月場所でも西前頭3枚目で10勝5敗の成績を挙げ、三役まで上り詰めた。

新小結で迎えた9月場所では初日に横綱朝青龍に完勝し、翌日の垣添戦にも勝って2連勝といい滑り出しで期待されたが、3日目からのまさかの8連敗で、5勝10敗と大きく負け越し、1場所で三役から降格した。朝青龍はこの場所の普天王の負け越しについて「普天王のブログに『頑張って下さい』と書いておくよ」と冗談交じりに話したと思われたが本当に書いたと後日語った。(実際にブログに「朝青龍明徳」の名で書かれている)

翌11月場所は東前頭2枚目で初日の大関・魁皇戦で寄り切りで敗れ土俵に転落した際に右足を痛め2日目から途中休場(その日対戦予定だった大関琴欧州(注・当時は関脇)は不戦勝で普天王は不戦敗)。7日目の大関・千代大海戦から再出場(その日は敗れた)したものの、8日目の横綱・朝青龍戦までは全敗でその日に負け越しが決まり、翌9日目の安美錦戦でようやく初日を出してその後2勝を挙げたものの、3勝8敗4休という成績に終わった。復活を狙った2006年1月場所は西前頭8枚目で9勝6敗と勝ち越し、見事に復活を遂げた。

趣味は囲碁とインターネットで、2005年2月からブログを公開している。特に場所中は、取組みの反省も盛り込んだ内容でほぼ毎日更新している。

IT力士でブログの女王の眞鍋かをり様と交流があるらしい。

開く トラックバック(1)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 前のページ | 次のページ ]


.
甲子園和也
甲子園和也
男性 / B型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事