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川崎 太一、坂根 武、元田 武彦

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     元三大師のことー読経より論義ー
                     元田 武彦
 
 

「我年臘共長。興小僧不可論難也(俺のようなヴェテランに無名の若僧を当てるとは何事か)」と温厚篤実で知られる元興寺学頭の義昭が言うものだから南都側4人全員が辞退する騒ぎになった。驚いたのが南都の長老 にん 僧都で、義昭を密に招いて良公當時俊才。将来必可為国宝。推為一双相手は叡山第一の学匠、将来は国宝の器、この組合せはトップ同士の対戦である)とりなし、無事会座 えざ開催に漕ぎ着けた。義昭と良源は共に仏前に三礼の後、論壇に登ると、勅使藤原在衡卿「講匠は台山の老徳(基瓠法伴う威儀僧はまた龍鳳の侶なり(良源)。寺の学徒は是鶯子の才(義昭)、請う、各々雄弁を決し、宜しく仏法の沖旨を明らかにすべし」と厳かに宣し、仁 僧都を検題に指名した。が出題し、問者(質問)と竪者(回答)に分かれて論戦を交わした。テーマは不明だが、状況は高僧伝に「義昭の問難は渓峡を下る奔流の如く、良源の答弁は泉水の湧くが如し、相問い、相酬い、共に綽として余裕あり」とあり、結局、良源の博引傍証と立論が「名月が皓々と暗夜を照らして万物を鮮やかに示し出すが如く、一語、一語、疑いを晴らして、道理愈々明らか」という次第で、南都代表の義昭も口を ふさいだ勝ち負けの判定は探題が下すことになっているが、大抵はどちらかが口を閉じる

 勅使は大いに感動し、都に帰って関白藤原忠平に勅會の状況報告の際、良源の智弁を吹聴 ( ふいちょう )した。法会の前に問題があっただけよけいに彼の名前が喧伝さ朝廷や公家まり、鮮やかに宗教界デビューを果たした。

このことにもっとも驚いたのは良源本人であったろう。秋深い叡山に帰って来ると、辺りは既に真紅の紅葉で蔽われていた。四十雀 ( しじゅうから )の澄んだツィピーツィピーツィピーという鳴き声に包まれて座禅していると、論議騒ぎがくっきりと俯瞰された私にとって論争に勝つのは簡単、その方法もほぼ分ったエネルギーの割りにこれ程の効果絶大な世界があるのきだあの一時 ( いっとき )の論議で南都に対する叡山の評判が対等以上に上がったようだ。これを磨けば宗祖最澄以来の悲願を達成できる道が拓けるだろうと考えた。

宗教界で最高の権威ある学会は宮中の御斎会、興福寺の維摩会、薬師寺の最勝会であり、その実行委員長と司会である探題、講師のは南都の僧綱達の意のままである。しかも準勅会に宣下された叡山の霜月会、六月会 ( みなつきえ )の宗論を開催するには、南都から探題を屈請しなければならなかった。天台の悲願である大乗仏教を全国にめるためには南都が持っている僧綱任命権を奪取する必要があった。
良源の面白いところは、近代日本人には見られなくなったシステム思考が出来ることである。対象となる「場」を正確に洞察し、目標を立て、実現する道筋を見通し、各プロセスで必要となる資質を見積もり、適切なフィードバック回路を設計できる能力を指す。
「うすうす感じてはいたが、論義とは非常に奇妙なものだ。千年近くかけて印度人が紡ぎだした諸々の考えを、二百年あまりで中国人が輸入・翻訳・解釈を施し、それを日本人が五月雨 ( さみだれ )的に持ってきた。有難がってはいるが、経典によって絶対矛盾しているところが一杯ある経典類を証にする限り、論争は平行線を辿る。良源はそのような「場」で南都に勝つ戦略を編み出し二十六年後に実現する。論義こそ仏道修業上の最高最善の指導原理であるとして。

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