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せっかくジャスコの火曜市に行こうと思ったのに、小雨が降って午後にいくことにしました。
ところで、皆さんは『夢』とか『やりたいこと』ってありますか?私は結婚して色々な今後のことを考えるのですけど、一人の人間としてこれからどうやって生きたいかなと思います。今は主婦で休憩中だけど、旦那さんと過ごす中で、将来的に転勤や子育てなど、女性は環境で色々自分の身分をかえざるを得ないのだけど、生き生きと過ごすために自分でなにかを始めたいなと思っています。その入り口が以前夢への第一歩として語った英語教室開設なのですが、もちろんいきなり思いついたわけでもなく、いたるまでの経緯はそれなりにあります。
ふと一年前を思い出すと、今頃オーストラリアにいてそろそろ帰国の準備をしていました。
ちょうど、一年の節目もあるしいつも料理ばかりじゃ面白くないので、20歳頃からの私の事をちょこっと書きますね。最近書いた夢の前の段階の話にもなります。
1996年〜2000年
神戸の某女子大に通って、英文学科にいました。国際交流などや、人の世話をするのが好きな私。学生時代は、ボランティアしたり、すんでいた市の姉妹都市派遣青年に応募、通過して海外へ短期だったけどいったり、外へ出るのが好きでした。卒業旅行は一人で、高校時代に短期留学したときのクラスメイトのいたスイス・イタリア(シチリア)へ行きました。
でも特に『夢』がなかった私。語学を活かして何かをしたいとは思っていたけれど、いまさら語学留学する気にもなれず、漠然としすぎていて、教員免許もとったけど直ぐになる気も無く、かといって就職したい職業もなかった。みんなが『●●会社に入りたい』っていってたけど私にはそういう気持ちはありませんでした。ただ、学生時代ホテルで4年働いていたこともあって接客が好きであること、また、人と関わる仕事が好きで、相手がお客さんでも上司でも同僚でもその奉仕先はこだわりませんでした。それに気づいて、だから私は特定の業種や企業に興味がないんだとやっとこさ気付きました。

2000年〜2004年
縁があって、法律事務所に拾ってもらって2000年の春から、弁護士秘書その他雑用もろもろ何でも屋 をやっていました。秘書は私にとっても向いていました。楽しかったと思えるからです。それでも、やっぱり煮え切らない『夢』を探していた私がいました。
同じ年の秋に今の旦那さんと付き合い始めたのですが、色々な面で自分の目標が定まらなくて彼(今の旦那さん)に相談して泣いたこともありました。彼は『まあ、あと社会人2〜3年経てばおのずから何かでてくるやろう。今はあせらんとき。数年たったら必ず何か出てくるよ』といってくれたのでそのまま過ごしました。途中から通訳ガイドの学校に通い始めたり、仕事に余裕がでてきたら習い事を始めました。
そして、彼の言うとおり、やりたいことが出てき始めました☆

2003年の春に彼の仕事の都合で関西ー関東の遠距離に。これが一番のきっかけですね。
遠距離のときに、2〜3年後に結婚かなって相談して、それまにじゃあ、やりたいことしておこうと思って、引き算してみました。準備に1年弱、やりたいことに1年弱、準備に半年・・・・今もう動かなきゃ!!って。それでお尻に火がつきました。
アジアのリゾート地に行ってホテルででも働こうかとか、一般企業で働こうかとか色々考えました。
その末であったのが
日本語教師アシスタント
です。
はっきり言って、仲介の日本企業にバカみたいな大金を払いましたが、それしか私にはいく術がなく、行く国は快く背中を押してくれた彼のことも配慮して時差の少ないオーストラリアを選びました。これに決めた理由は
書道を長年やっていた。着物が着れる。ピアノが弾ける。英語が話せる。教員免許をもっている=教育に興味があるなど、私の要素が全て発揮できると思ったからです。この日本語教師アシスタントの存在を知ったときに感じた、心に響いた私の中の感覚は言葉に表せません。あんなに胸が熱くなったのは初めてでした。即決断しました。
さらに、ワーホリはメジャーですが、一箇所で3ヶ月しか就労できない条件や、どんな職業につけるかわからないこともあるので、それはやめて特別な日本語教師専用のビザを取りました。

2004年春〜年末
法律事務所を退職して半月後の4月中ごろから12月まで3学期(向こうは4学期制なので)在籍しました。
アシスタントとは名目ばかりで、実際日本語教師はおらず、教材も手作り。ってことで、2週間ほど全学年の普通の授業を見学してからいきなり教壇にたちました(^^)
ボランティアで一銭ももらいませんでしたが、ホームステイ代金が通常の留学生の半額だったので一般の留学とさほど変わりない出費でした。場所はメルボルンから車で1時間、とはいえ、クルマが無ければ相当辛い土地ですね。でも海が目の前だし、少し山にはいればカンガルーやコアラがいたし、すばらしい場所でした。
私のいた学校は全校生徒450人。7学年制で5歳児から12歳児まで19クラスあって、全クラスをまわりました。一日4コマ平均でした。無給なのに、フルタイムで学校にいたので、教職員と同じようにいろんな面で扱ってもらいました。7学年のレベル別の教材を作るのは結構大変でしたね。
私は日本語教師の養成学校に行った事はありません。でも、いかなくてよかったとおもいます。まるっきり習ったことは現実としては発揮できないと感じたので。日本と教育システムも全く違って、問題点もあったり見習いたい面もあったりとても勉強になりましたね。今でも忘れられない授業の一つに、色を教えたときのこと。
色を去年に既習の子供たち。思い出すためにつくった教材
あか+あお=?
さて、皆さん何色ですか?むらさきですよね。子供も紫って言葉しっているんです。
でも
赤と青を混ぜたら紫になるってことをこの国の子供の多くがしらないのです!!!!!
衝撃。しかも、5年生とか6年生が。
同じように、赤と白を混ぜたらピンク、青と黄色は緑ということも分からないのです。
私の汗と涙のプリントは一瞬にしてパーに。
そんなことも多々あって、8ヶ月は風のように過ぎました。
私は、以前から海外に対しての憧れは特に無く、逆に自分の住む日本の素晴しさも以前にまして感じるようになりました。だから結婚式も和婚にしました。ただ、結婚前にどうしてもやっておきたかったこと、それは海外の文化や生活を長期で一度経験しておくこと。これは自分の後の人へ伝えたり教える仕事につくにあたってやっておかなければならないとおもったのです。人の考えや価値観の違い、これは教科書だけでは絶対に感じることができないからです。
海外だけでなく広く目を向けることで、自分の視野や可能性が広まって、とっても楽しいんだよっていうことを子供たちに広めたいと思っています。その入り口の一つとして言語を教えるということに焦点を当てることにしました。言葉ができればずいぶん世界が広がりますからね。
ま、そんなわけで今は充電中と言い訳しながらただの主婦でボケーっと、していますが、そろそろ動きたいなと思って、以前夢の話をしたとおり、そろそろ活動にはいります☆
とっても美しい街にいたので写真をいくつか公開します(*^^*)
街の写真です。近くの山から撮ったものと、夕焼けです。たまに燃えるような夕焼けがみれました
野菜の名前を教える授業です。1年生2年生対象。唄と一緒に覚えました
一昨年聖子ちゃんがカレーのCMしてたメロディーにあわせた替え歌で教えました
中学年高学年向き、ひらがなパズル。手作りです。課題をやり終えた、出来の早い子供に与えてました
文化を教える授業で、カレンダーを作らせ風土や気候などを教えたり、書道をさせました

ぱっと見、何の文字か書き方も理解できない子供たち。『友を書くにはアルファベットのtを書いて数字の7を書いてもう一本棒をかきます。』こう教えればどの子供も直ぐにかけるようになりました。
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