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「時間の連続性」ほど、ひとにとって大切なものはない。ひとは生まれてから死ぬまで、長い場合は100年にもわたって、時間の連続性の中で生きている。あるいは時間の連続性を信じることによって生きている。
人生の三分の一が眠りの時間であっても、ひとは眠りを時間の連続性の「切断」だとは意識しない。眠りもまた、時間の連続性の枠内に存在する。特別な病気の場合を除いて、ひとは眠りに対して「恐怖」を感じないのはそのためである。
だからこそ、時間の連続性の切断は、ひとの脳みそに強烈なダメージを与える。交通事故や急病で近親者や近しい友人を失ったとき、ひとは茫然自失する。それは、そのひととの関係の連続性が突然、無理やり、理不尽に、不条理にも断ち切られてしまったと感じるからだ。
戦争や巨大な自然災害がひとの脳みそに刻み込むダメージもそういうことだ。個人的なひととの関係ばかりか、社会的関係、自分を取り巻いていた自然との関係、文化、伝統との関係まで切り刻まれ、打ち捨てられ、抹殺されてしまったと感じるからだ。
ところで、現代社会で最も影響力のある存在はテレビである。もっと正確に言うと、ひとの脳みそに決定的な影響を与えるのはテレビ映像である。いまの子どもたちは、生まれたときからテレビとともに生きている。テレビゲームにのめりこむ子どもたちは、いまそこにある現実よりテレビゲームの中になる「仮想現実」の方がよりリアリティーを感じるのだろう。自閉症の子どもたちの一部には、最も身近にいる親たちよりも、テレビ画面の中に近いしみを感じる者もいる。
社会的にみてもそうだ。ソ連、東欧圏における共産主義体制の崩壊にはさまざまな理由があるが、西欧諸国から流れてくるテレビ映像を無視しては語れない。ソ連や東欧圏の一般庶民が英語、ドイツ語、フランス語を理解できなくても、テレビ映像はストレートに受け止められる。番組制作者が意図しないもの、その国の視聴者にとっては注意を払う必要のないありふれた光景こそが、文化や生活程度のまったく違う他国の視聴者にとっては関心をひく材料になる。
戦後しばらくの間、アメリカのテレビドラマ、特にホームドラマは、この国では製作者の意図とは違う見方をされた。製作者にとっては単なる小道具にすぎなかった大きな車、家庭の台所にあるキッチンや冷蔵庫、電気掃除機は、豊かなアメリカ文明の象徴として受け止められた。食うや食わずの生活からようやく抜け出したばかりのこの国では、ホームドラマの小道具こそ、アメリカ文明からの強烈なメッセージだった。
東欧諸国の人々にとって、西側諸国のテレビから流れる映像はもっと強烈なメッセージをもっていただろう。たった数十年前までは同程度の生活をしていた、陸続きの、肌の色も同じ人々が、自分たちとは比べようもないほど豊かな生活をしている。テレビから流れ出る映像は、生活程度と生活における自由度のあまりの違いを鮮明に映し出した。『東西の壁』を破壊させた根本原因の一つは間違いなくはテレビ映像にある。
誰もが予想しなかった東側の崩壊をもたらすなど、テレビ映像は20世紀後半から21世紀初頭にかけて、強烈なパワーを手中にした。もはやテレビ映像を無視して存在できると信じる政治権力者はいなくなった。現代社会に残る独裁者、イラクのサダム・フセインも、北朝鮮の金正日も、テレビ映像を狡猾に利用する。逆に、独裁者だからこそテレビ映像の『価値』を最も深いところで理解しているのだろう。
テレビ映像を無視できないのは政治ばかりではない。経済も、文化も、そして軍事でさえもそうだ。企業経営者も芸術家もテレビ映像なしには権威付けできない。テレビ映像によって彼らの権威は増幅される。そして、現代の戦争はテレビカメラの前で展開される。テレビ映像はそのまま『権力』になった。権力には自制とコントロールシステムが必要になる。そうでなければ、権力はそれ自体の性質として『暴発』してしまうからだ。
日本のテレビメディアにはそうした自制心と自己コントロール機能が欠落している。現在の日本では、毎日、毎分、いや毎秒ごとに、ほとんど無限といってもいいほどの大量の情報が巻き散らかされる。有益な情報、害毒のある情報、好ましい情報、嫌悪すべき情報、おぞましい情報――。そうした大量の雑多な情報が吐き出され、垂れ流され続けている。日本のテレビメディアはすでに「価値」の概念を失ってしまった。どんな情報に価値があり、価値がないのか、彼らは判断しない。あるいは判断する機能を持たなくなった。価値はもはや、テレビメディアの範疇には存在しない。
随分と、何とも長たらしく、屁理屈をこねたような文章を書いてしまった。こんなことを恥ずかしさも忘れて書いてしまったのには訳がある。筆者があるテレビ映像に強い刺激を受けたからである。そして、同時に強い嫌悪感を覚えたからでもある。
そのテレビ映像について直接触れる前に前置きを書く。前置きなしには筆者の真意が伝わらないと感じるからだ。少し長くなるが、お許し願いたい。
9月に行われた大相撲秋場所は、文字通りの劇的な展開になった。超一流の脚本家と演出家が共同作業をしても、あれほど見事な「芝居」は完成しないだろう。昨年の夏場所、千秋楽。優勝をかけた武蔵丸との直接対決でひざに重症を負った貴乃花は、故障をおして出場した優勝決定戦での勝利と引き換えに、その後は史上最多の7場所連続で休場した。しばらくは同情的だった相撲界も、休場が長引くにつれ、貴乃花の「決断」を迫る雰囲気に変わった。
相撲界からの最後通牒ともいえる、横綱審議会の「出場勧告」を受け出場した秋場所の貴乃花は、序盤に2敗を喫し早くも窮地に追い詰められた。「若貴ブーム」が去り、一方の主役であった若乃花の引退後は、長期低迷が続く大相撲人気だが、秋場所に限っては異様なほどの熱気に包まれていた。序盤から連日、それまで足が遠のいていた多くの相撲ファンが国技館に戻って来た。それはそうだろう。その日その日が「平成の名横綱」の最後の取り組みとなる可能性があったからだ。
貴乃花はしかし、中盤から立ち直った。13日目の千代大海戦では立ち会いに変化を見せた。現役続行と、ほのみえてきた優勝への執念をあらわにした。――秋場所の貴乃花はあるアドバンテージをもっていた。窮地に追い込まれた貴乃花に対し、立ち合いであからさまに変化する勇気をもった力士はいなかったことだ。立ち合いに変化して勝ったとしても、相撲ファン、いや世論のごうごうたる非難を浴びることは明らかだった。予期せぬ立ち合いの変化は、逆に貴乃花が利用した――。千秋楽は昨年夏場所の「再現」となった。横綱決戦では武蔵丸に完敗したものの、貴乃花は12勝3敗で準優勝を果たし、引退の危機を脱した。
秋場所には卓越したサイドストーリーもあった。長く名脇役として大相撲人気を支えた寺尾、貴闘力の両関脇が力尽きて引退した。彼らの引退は、貴乃花の復活劇をさらに引き立てる「演出」になった。
相撲協会と同様、あるいはそれ以上に、貴乃花の引退を心底危惧し、復活劇に歓喜したのはNHKだろう。大相撲中継から民放が撤退し、NHKの独占中継になって、もう何十年たつだろうか。この間、相撲協会とNHKは「運命共同体」になった。相撲協会にとって、総合テレビとBS放送で全国中継するNHKを抜きにしての大相撲工業は成り立たない。NHKにしても、そこまで肩入れしたいまでは、相撲人気が長期低迷しても、そう簡単には大相撲中継から撤退することなどできない。
大相撲に関する圧倒的な情報量、それを支える取材力をもちながら、逆に言えばそれゆえにNHKは相撲協会と力士のスキャンダルをまず放送しない。放送する場合でも、全メディアの最後に「後追い」する。両者は「運命共同体」だからである。
前置き、あるいは前置きの前置きがやたらと長くなってしまった。申し訳ない。そろそろ本題に入ることにする。
大相撲秋場所が始まった9月8日から16日まで、NHK総合テレビの夜7時台のニュースは、冒頭のヘッドライン部分である「同一パターン」の映像を流し続けた。9月17日にはそのパターンをやめた。その日は小泉純一郎首相が北朝鮮を訪問して金正日総書記と会談、日朝共同宣言に署名するとともに、北朝鮮による日本人拉致被害者8人死亡という衝撃的な情報を持ち帰った、歴史的に特筆すべき日だったからだ。
夜7時台のニュースでNHKは9月16日まで――その後は注意して見なかったので知らない――、冒頭のヘッドラインで連日、「きょうの貴乃花情報」を流した。それ自体に文句をつける気はない。貴乃花の勝敗は相撲ファンばかりでなく、国民的な関心事だったからだ。しかし、やり方はひどかった。NHKはそれまで「公共放送」として固く封印してきた「禁じて」に、ついに手を染めてしまった。
ヘッドライン部分でNHKは、短いコメントとともに貴乃花の取り組み映像を流す。それまではいい。しかし、取り組みの結果が判明する直前に映像とコメントは中断する。勝敗が決する瞬間の1秒か何分の1秒か前に映像の連続性は突然、切断される。あとは、何十分か後のスポーツコーナーまで待てというわけだ。NHKはそのやり方を連日繰り返した。
この「禁じて」は民放ではいまや常套手段にまでなってしまった。バラエティー番組では特にそうなっている。ある連続性のあるシーンが放送される。間もなく結果が表れる。視聴者の誰もがそう思い、結果を注視する態勢をとった瞬間に、映像は切断される。そしてCMが入る。CMの後は同じナレーションとともに切断前の映像が再放送され、ようやくにして結果が視聴者の前に表れる。
この手法をえげつないまでに活用したのが、収録中の人身事故のため放送中止になったTBSの「筋肉番付」である。プロ野球やJリーグなどの有名スポーツ選手と体力、運動能力自慢のタレントを集めたこの番組はかなりの視聴率を稼いだ。「定番」の跳び箱では特に「禁じて」を多用した。古館伊知郎の扇情的なナレーションとともに有名スポーツ選手やタレントが助走を開始する。踏み切り板を蹴り、両腕が跳び箱上部にタッチする。そのまま上半身を持ち上げて跳び箱を越えるかどうか―。その決定的瞬間の直前に映像は突然切断されて、CMに移行する。そんな場面が何度も何度も繰り返される。
この「禁じて」は、CM時間中は視聴者がテレビの前から離れてしまうと文句を言う番組スポンサーにおもねるテレビ局が考案したアイデアだろう。日本のテレビ番組は何でもアメリカの真似をするから、この手法もそうなのかもしれない。しかし、筋肉番付など民放のバラエティー番組を見ていると、番組製作者の「加虐性」を感じてしまう。彼らは無意識のうちに視聴者をいたぶることに喜びを感じているのではないか。あるいは、一部の番組製作者は意図的にそうしているのではないか。彼らの手法が次第にエスカレートしていくからだ。
前述したように、現代社会においてほとんど絶対的とも言える「権力」をもったテレビメディアが、こうした手法を行うこと、それも何度も何度も繰り返し行うことは、いわば「映像の暴力」だ。大人相手ならまだしも――筆者は我慢できないが――、まだ脳みその柔らかい幼児や子どもを対象に行うことは、「幼児・少年虐待」と同様の犯罪行為に近い。
冒頭で書いたように、時間の連続性が突然、無理やり、理不尽に、不条理にも断ち切られてしまうことほど、ひとの脳みそに強烈なダメージを与えるものはない。民放のバラエティー番組に加えて、NHKがもっとも重要視するニュース枠、なかでも特別扱いしている総合テレビ夜7時台のニュースで「禁じて」に手を染めたことは黙殺してはならない。NHKが「運命共同体」である相撲協会とその屋台骨を背負う貴乃花の危機に、舞い上がった結果だとしても、それは「悪い言い訳」にしかならない
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