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東京五輪の陸上100メートル金メダリスト、ボブ・ヘイズが死んだ。新聞の片隅にそう書いてあった。テレビは彼の死を無視した。40年近くも前に一瞬だけ脚光を浴びた、昔のスポーツヒーローの死など、取り上げる価値もない訃報だと判断したのだろう。
新聞にしても最も小さな扱い、つまり「ベタ記事」扱いだった。顔写真を添えた記事もあったが、どれも古い写真、若いころの写真だった。彼に関するサイドストーリーや評伝を掲載した新聞はなかった。掲載面もスポーツ面ではなかった。
どの新聞も通信社の配信記事をそのまま使ったか、若干手直しした程度だったのだろう。記事の内容はほとんど同じだった。通信社の若い記者は、B・ヘイズ死亡の現地報道に接すると、あとは自社のデータベースを検索して、簡単に彼の経歴を書き移して記事にしたのだろう。
記事はこんな内容だった。1964年の東京五輪、陸上男子100メートルで、当時世界タイ記録の10秒0で優勝したB・ヘイズが9月18日、米国フロリダ州ジャクソンビルの病院で死去、59歳。死因は肝臓、腎臓の疾患や前立腺がん。東京五輪後はアメリカンフットボールに転じ、ダラス・カウボーイズのランニングバックとして「スーパーボール」を制した。五輪とスーパーボールをともに制したのは彼一人だけだった。
アルコールと麻薬におぼれて生活が乱れ、逮捕歴もあり「プロフットボールの殿堂」入りはできなかったと、引退後について簡単に触れた記事もあった。
日本のメディアは、「組織」としてしか存在しない。組織には人の生き死にを論じる資格はない。人の生き死にを論じることができるのは、自らも死ぬべき存在である「個人」だけである。B・ヘイズの死に関して、日本のメディアがデータベースに保存してある情報内でしか書かなかったことは、逆に幸いなのかもしれない。人の生き死には、もっと個人的にしか語りようがないからである。
B・ヘイズは筆者にとって特別なスポーツヒーローである。その訳は二つある。一つは、自ら選び取った最初のヒーローであることだ。
東京五輪当時、筆者は田舎の学校に通う小学6年生だった。それ以前にもヒーローはいた。プロレスの力道山であり、大相撲の大鵬だった。プロ野球の長嶋茂雄、王貞治もそうだった。彼らはしかし、筆者が自ら選び取ったヒーローではなかった。彼らを選び取る必要はなかった。周囲の大人たちや小学校の仲間たちの多くは彼らの熱烈なファンだった。そう気づく前から筆者も彼らのファンになっていた。
B・ヘイズだけは違った。東京五輪以前には、彼に関する知識は皆無だった。当時の白黒テレビで彼の走りを見ただけだ。その映像だけで彼を自らのヒーローとして選び取った。
特別なヒーローであるもう一つの訳は、ヒーローである理由が東京五輪の「10秒0」の時間内とその映像イメージにだけにあることだ。
B・ヘイズに関する知識は、東京五輪後も深まることはなかった。知識を得たいとも思わなかった。筆者の記憶には決勝レースでのB・ヘイズの走りしか存在しない。スタート前のイメージも、ゴール後のイメージも記憶にはない。ただ「10秒0」の時間と彼の走りのイメージだけが、記憶の奥深いところに焼きついているだけだ。
B・ヘイズがその後、アメリカンフットボールに転じたこと、ダラス・カウボーイズの快速ランニングバックとして活躍したこと、スーパーボールを制したこと、引退後はアルコールと麻薬におぼれたことも断片的な知識としては知っている。
しかし、東京五輪後のB・ヘイズについては基本的に関心はなかった。B・ヘイズは筆者が初めて選び取ったスポーツヒーローとして、「10秒0」の時間内だけで、筆者の記憶の中で生きてきた。それだけである。それ以上でもそれ以下でもない。しかし、あるいはそれゆえにB・ヘイズは筆者にとって特別なヒーローとして、記憶の中でこれからも生き続けていく。(2002年9月30日)
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