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「走った距離は裏切らない」精神の敗北―北京五輪寸評(5)
「走った距離は裏切らない」は、アテネ五輪金メダリストの野口みずきが発した、あまりにも有名な言葉である。
日本選手のマラソン練習・調整はいまでも、「走りこみ」が中心になっている。来る日も来る日も長い距離を走って調整する。
レース本番前にメディアは、「○○選手は40キロ走を何本こなしたから調整は順調だ」などという展望記事を掲載する。
しかし、こうした走りこみ中心の練習・調整方法は、本当のところ、理にかなったものなのだろうか。
北京五輪の女子マラソンで、五輪2連覇の期待がかかった野口みずきが、直前のスイス合宿で左足太ももの肉離れを起こして、出場辞退に追い込まれた。
粘りが身上の土佐礼子も、直前に右足にトラブルを起こした。外反母趾による痛みをこらえて強行出場したものの、レース序盤で右足が悲鳴をあげてしまった。粘るどころの事態ではない。土佐は、25キロ過ぎでリタイアした。
残る日本選手は、五輪初出場でマラソン出場自体が五輪選考会に次いで2本目という中村友梨香だけである。日本は、五輪3連覇どころか、入賞さえ期待できない事態に追い込まれていた。
五輪本番を前に、優勝、メダルが期待されていた有力2選手が故障してしまう。もっと言えば、五輪出場が確実視されていた、シドニー五輪金メダリストの高橋尚子も、選考会前に足を故障した。選考レースに出場はしたものの不本意なレースに終わり、代表選出を逃している。
彼女らの故障の原因は、ひと言で言えば「走りこみ」過ぎである。
走ることは、上下運動と水平運動を繰り返すことである。極端に言えば、ハイジャンプとロングジャンプを延々と繰り返すことである。
この二重の運動の繰り返しは、腰から下の筋肉と関節を痛めつける。股関節から膝、足首、足指の関節とそれらに絡みつく大小の筋肉を痛めつける。
さらに上下と水平の二重運動は、内臓を激しく揺さぶり続ける。いくら、背筋と腹筋を鍛え上げても、内臓もまたこうした運動の連続に悲鳴をあげる。
日本中を席巻する「走った距離は裏切らない」精神に、真っ向から挑戦したランナーがいる。トラック長距離界の女王、福士加代子である。
福士は北京五輪マラソン選考会を前に、それまでの日本選手とはまったく違う練習・選考方法を選択した。
選考会を前にケニアに渡った福士は、ケニアの女子選手と練習をともにしたうえで、走り込みを抑える練習・調整方法を選択した。そして、選考会に臨んだ。
結果は、マラソンファンなら誰でも知っている通りである。
前半から独走したが中盤に失速し、ゴール前では何度も転ぶと言う、大失態を演じることになった。当然、選考にはもれた。
福士の失敗を目の当たりにした日本陸連幹部やマラソン指導者ランナーたちは、それまでの確信をより深めることになった。
アフリカの選手の練習・調整方法は日本選手には合わない。年間に何本ものレースを平然とこなすアフリカの選手と日本の選手とでは、基礎的に体質・体力が違う、と。やはり、日本選手は、従来型の「走りこみ」中心の練習・調整方法がベストなのだと、確信をより深めたに違いない。
しかし、日本型の練習・調整方法は、北京五輪で失敗した。マラソン2本目の中村を除いて、野口、土佐の有力2選手が本番前の調整に失敗したのだから、それは明らかである。
走りこみ過多の失敗例は女子に限ったことではない。ロス五輪で日本中の期待を背負った瀬古利彦は、直前の調整に失敗して惨敗した。続くソウル五輪でも瀬古は、「一発選考」のはずの福岡国際を、故障を理由に欠場した。異例の「追試」となったびわ湖国際で代表に選出されたが、ソウルの本番でも惨敗に終わった。
欧州や北米では、山岳マラソンが人気スポーツのひとつになっている。いろいろなコースが設定されているが、一例を挙げればこんなコースである。
ヨーロッパアルプスのふもとの村をスタート・ゴール地点にして、標高4000m前後の山頂までを駆け上がり、駆け下りるのである。
ニューギニアでのレースをTVで見たことがあるが、これはすごかった。赤道直下の海岸をスタート・ゴール地点にして、標高4500mの山の頂上までを往復するのである。
標高差は気候の差を生む。熱帯雨林のジャングルから亜熱帯の森林地帯、温帯の樹林地帯、亜寒帯の低木・草原地帯、さらには寒帯の雪と岩に覆われた地帯を駆け上り、駆け下るのである。
登りは当然きついが、もっときついのはく下りである。4500mの雪と氷と岩の世界から急勾配の斜面を、寒帯か熱帯まで一気に駆け下るのである。足腰や内臓にかかる負荷はいったいどれほどのものになるのか。
このニューギニアのレースの勝者で、山岳マラソン・サーキットの年間王者が、レース後にTVインタビューに応じていた。
レポーターの質問は、こんな想像を絶するレースに備えて、一体どんな練習・調整をするのかというものである。
チャンピョンはおよそこんな趣旨の答えを返していた。
練習・調整はまず起伏の大きな山岳地帯を歩くことだ。それと室内でのトレーニングが中心になる。マウンテンバイクで起伏のあるコースを走る。ランニングは本番前に軽く行う。あくまでフォームのチェックのためだ。ランニングのコースは土や芝、草の上でする。負担のかかるアスファルトの上では走らない。
本番を前にして、当然ながら相当の練習量をこなす。しかし、下半身の筋肉や関節、内臓への負担は出来る限り減らす。そんな調整方法である。
山岳マラソンと公道を走るマラソンの練習・調整方法を同一視することはできない。マラソンの練習・調整に、走りこみは絶対に必要である。
北京五輪では、高橋が選考会で脱落、選考会を潜り抜けた野口、土佐までもが調整に失敗した。
日本も、本番を前に選手の肉体に出来る限り負担をかけない練習・調整方法を考えるべきである。マラソンの練習・調整方法はいま、抜本的に見直す時期に来ている。(2008年8月20日記)
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