成田好三のスポーツコラム・オフサイド

スポーツ全般をテーマに新たな視点からスポーツの面白さや様々な課題に焦点を当てたコラムサイト。無料メルマガも配信中です。

03年のコラム

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 10月10日の朝、一羽の鳥が死んだ。新聞は当日の夕刊と翌日の朝刊にかなりの紙面を割いた。一羽の鳥の『死亡記事』としては前例のない扱いだった。その日が衆議院の解散された日ではなかったならば、もっと大きな扱いになっていただろう。社説や論説に、一羽の鳥の死を取り上げた新聞もあったに違いない。しかし、その日の『雲行き』によって『事象』の価値を判断する新聞の扱いなど、どうでもいいことである。

 その日朝に死んだのは、日本の最後の朱鷺『キン』(雌)だった。毎日新聞は同日の記事(電子版)で、『キン』の死についてこう伝えている。

 「新潟県新穂村の佐渡トキ保護センターで10日朝死んだ日本産――他に言いようがないのでしょうが、いやな言葉です。鳥は人間がつくったものではないからです――最後のトキ『キン』は同日夕、センター内で解剖され、「頭部挫傷」が原因だったと分かった。突然飛び上がり、ケージの扉に衝突したのが原因らしい。キンは推定36歳、人間なら100歳前後に当たるため、当初は老衰とみられていた。」

 毎日新聞は別の記事(詳報、電子版)で、『キン』の来歴についても伝えている。以下はその概略である。『キン』は1967年初夏に佐渡島で生まれたとみられる。1968年3月、新穂村の山中に迷い出て捕獲され、その後はセンター内で飼育されてきた。1983年から国産の『ミドリ』と、1985年からは中国産の朱鷺とペアリングを試みたが、産卵には至らなかった。1997年ごろから止まり木に止まれなくなるほど、衰弱の兆しがみられた。1995年4月、国産最後の雄だった『ミドリ』が死に、国内産の朱鷺は絶滅が避けられなくなっていた。

 『キン』の死によって、かつて日本中の野山を自由に飛び回っていた、国際保護鳥で日本を代表する鳥として『ニッポニア・ニッポン』の学名を与えられた、日本の朱鷺は絶滅した。

 衆議院解散の日と重なったとはいえ、新聞各紙はそれなりの扱いで事実関係を伝え、開発と環境破壊、絶滅の恐れのある稀少動植物についてなど、さまざまに論評を加えていた。筆者はさらに論評を付け加えようとは思わない。また、その能力も資格もない。ただ、新聞各紙が重要視しなかった、ある一つの『事象』とその『意味』ついてだけ、ここで考えてみたい。

 毎日新聞の記事によると、推定36歳(人間なら100歳前後)の『キン』は、生後1年足らずで捕獲された。だから、残り35年の歳月を保護センターの狭いケージの中で生きてきた。保護のためとはいえ、『キン』は35年間も囚われの身であった。1995年に『ミドリ』が死んだとあるから、最後の8年間は、この地球上に仲間が誰もいない、絶対的に孤立した『囚人』として生き続けてきたことになる。

 『キン』は『囚人』として生きてきた最後の最後に、突然飛び上がり、ケージの扉に衝突して死んだ。毎日新聞の記事には、「他の動物は近寄れず、なぜ飛び上がったかは不明」とある。専門家にも、何故その時、『キン』がそんな行動を取ったのかは分からないようだ。また、専門家の学問的な興味は、『キン』が最後の最後にとった行動の『意味』ではないことも確かなことだ。

 『キン』の思考力がどの程度あったかは知らない。それどころか朱鷺や鳥の思考力などまったく知らない。また、動物が自らの『生命(いのち)』縮めるような行動を取るなどということは、考えたこともない。しかし、筆者はどうしても、『キン』が最後の最後に、こんな風に思考したと想像してしまう。  

 ――もう随分長生きした。保護センターの人間どもはよくしてくれた。人間どもの誘いに乗って『ミドリ』や中国の朱鷺と一緒に卵を産み子どもを育てようともしたが、それは無理なことだった。私は年をとりすぎていた。それだけではない。人間どもが私に卵を産ませようとした時にはもう遅かった。個体としての私だけではなく、日本の朱鷺の『生命』が尽き果てようとしていたのだから。『ミドリ』はとうの昔に死んだ。もう仲間は誰もいない。動物や植物が生きるのは、次の世代に『生命』を引き渡すためだが、たった一人ではその望みも、もうなくなった。もう何十年も空を飛んでいない。飛べるだけの力が残っているかは分からない。しかし、私は鳥だから、野山や畑や田んぼの上を飛び回っていた朱鷺だから、最後の最後はやっぱり空を飛び回ってみたい――

 その時、『キン』にはケージの扉は見えなかった。『キン』に見えたのは、35年前に親やきょうだい、仲間たちと飛び回った佐渡島の空だけだった。

 『キン』の死に関して一つだけ確認したいことがある。『キン』は最後の最後にはたしてどれだけの距離を飛んだのかということだ。何回羽ばたいたかということだ。願わくば、『キン』の飛距離は何十センチ単位ではなく、何メートル単位であってほしい。羽ばたきは1回ではなく、少なくとも数回であってほしい。そんなことは新聞だけでなく誰も教えてくれないだろうが――。

『ニッポニア・ニッポン』最後の飛翔は、事実としては狭いケージの中だけだった。針金で編まれた扉に激突しただけである。しかし、『キン』の思考の中では、佐渡島の澄みきった青い空の中であったに違いない。(2003年10月17日))

 半世紀続いた東西冷戦の終結直前、ソ連の外相として華々しく「新思考外交」を展開したグルジア大統領、エドアルド・シェワルナゼが11月23日に辞任した。

 冷戦終結前後の時代の、東側陣営の指導者でただ一人、政治生命を維持してきた彼もついに、政治家としての長い経歴に幕を降ろした。彼を権力の座から引きずり降ろしたのは、彼が登用した30―40歳台の若い政治家たちだった。

 シェワルナゼはソ連崩壊直前に議会で、「独裁が近づいてくる」との「予言」を残してソ連、そして国際政治の舞台から去った。故郷・グルジアに戻った彼は、その後母国の大統領に就任した。

 ソ連崩壊後、ロシアを中心に独立国家共同体を形成した諸国はいまも、激しい変革の嵐の中にある。ソ連最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフはソ連がロシアに移行する過程で、時代から置き去りにされた。

 ゴルバチョフから権力を奪ったロシアの初代大統領、ボリス・エリツィンも、彼が後継に指名した現大統領、ウラジミール・プーチンによって、彼の意思とは逆に、歴史の中に埋め込まれてしまった。強権的な資質をあらわにし始めたプーチンもいずれ大波にのまれるだろう

 シェワルナゼが戻ったグルジアは、カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地域の小国でありながらも、カスピ海石油と天然ガスの搬出ルートとして、そしてイスラム文明とロシア文明との間にある地政学的にも極めて重要な位置にある。だから唯一の超大国・米国も、大国・ロシアも彼を無視できなかった。

 しかし、今回の「ビロード革命」によって彼もついに過去の人になった。急激な時代の変化は、「改革者」をまたたく間に「反動者」に引きずり下ろす。

 独裁を予告してソ連政権を去ったシェワルナゼが、彼が登用した若い政治家たちから「独裁者」と批難されて権力の座を追われたことは、象徴的である。

 歴史の大きな転換期に遭遇した変革者的資質を持った政治家は、サーフボードに乗って波乗りするサーファーに似ている。しかし、通常のサーファーなら安全な陸地近くのビーチで何度でもトライできるが、彼らの波乗りの機会は、大海原での一度限りのものである。時代の大波が次々と彼らをのみ込んでいく。(2003年12月13日)

 10月10日の朝、一羽の鳥が死んだ。新聞は当日の夕刊と翌日の朝刊にかなりの紙面を割いた。一羽の鳥の『死亡記事』としては前例のない扱いだった。その日が衆議院の解散された日ではなかったならば、もっと大きな扱いになっていただろう。社説や論説に、一羽の鳥の死を取り上げた新聞もあったに違いない。しかし、その日の『雲行き』によって『事象』の価値を判断する新聞の扱いなど、どうでもいいことである。

 その日朝に死んだのは、日本の最後の朱鷺『キン』(雌)だった。毎日新聞は同日の記事(電子版)で、『キン』の死についてこう伝えている。

 「新潟県新穂村の佐渡トキ保護センターで10日朝死んだ日本産――他に言いようがないのでしょうが、いやな言葉です。鳥は人間がつくったものではないからです――最後のトキ『キン』は同日夕、センター内で解剖され、「頭部挫傷」が原因だったと分かった。突然飛び上がり、ケージの扉に衝突したのが原因らしい。キンは推定36歳、人間なら100歳前後に当たるため、当初は老衰とみられていた。」

 毎日新聞は別の記事(詳報、電子版)で、『キン』の来歴についても伝えている。以下はその概略である。『キン』は1967年初夏に佐渡島で生まれたとみられる。1968年3月、新穂村の山中に迷い出て捕獲され、その後はセンター内で飼育されてきた。1983年から国産の『ミドリ』と、1985年からは中国産の朱鷺とペアリングを試みたが、産卵には至らなかった。1997年ごろから止まり木に止まれなくなるほど、衰弱の兆しがみられた。1995年4月、国産最後の雄だった『ミドリ』が死に、国内産の朱鷺は絶滅が避けられなくなっていた。

 『キン』の死によって、かつて日本中の野山を自由に飛び回っていた、国際保護鳥で日本を代表する鳥として『ニッポニア・ニッポン』の学名を与えられた、日本の朱鷺は絶滅した。

 衆議院解散の日と重なったとはいえ、新聞各紙はそれなりの扱いで事実関係を伝え、開発と環境破壊、絶滅の恐れのある稀少動植物についてなど、さまざまに論評を加えていた。筆者はさらに論評を付け加えようとは思わない。また、その能力も資格もない。ただ、新聞各紙が重要視しなかった、ある一つの『事象』とその『意味』ついてだけ、ここで考えてみたい。

 毎日新聞の記事によると、推定36歳(人間なら100歳前後)の『キン』は、生後1年足らずで捕獲された。だから、残り35年の歳月を保護センターの狭いケージの中で生きてきた。保護のためとはいえ、『キン』は35年間も囚われの身であった。1995年に『ミドリ』が死んだとあるから、最後の8年間は、この地球上に仲間が誰もいない、絶対的に孤立した『囚人』として生き続けてきたことになる。

 『キン』は『囚人』として生きてきた最後の最後に、突然飛び上がり、ケージの扉に衝突して死んだ。毎日新聞の記事には、「他の動物は近寄れず、なぜ飛び上がったかは不明」とある。専門家にも、何故その時、『キン』がそんな行動を取ったのかは分からないようだ。また、専門家の学問的な興味は、『キン』が最後の最後にとった行動の『意味』ではないことも確かなことだ。

 『キン』の思考力がどの程度あったかは知らない。それどころか朱鷺や鳥の思考力などまったく知らない。また、動物が自らの『生命(いのち)』縮めるような行動を取るなどということは、考えたこともない。しかし、筆者はどうしても、『キン』が最後の最後に、こんな風に思考したと想像してしまう。  

 ――もう随分長生きした。保護センターの人間どもはよくしてくれた。人間どもの誘いに乗って『ミドリ』や中国の朱鷺と一緒に卵を産み子どもを育てようともしたが、それは無理なことだった。私は年をとりすぎていた。それだけではない。人間どもが私に卵を産ませようとした時にはもう遅かった。個体としての私だけではなく、日本の朱鷺の『生命』が尽き果てようとしていたのだから。『ミドリ』はとうの昔に死んだ。もう仲間は誰もいない。動物や植物が生きるのは、次の世代に『生命』を引き渡すためだが、たった一人ではその望みも、もうなくなった。もう何十年も空を飛んでいない。飛べるだけの力が残っているかは分からない。しかし、私は鳥だから、野山や畑や田んぼの上を飛び回っていた朱鷺だから、最後の最後はやっぱり空を飛び回ってみたい――

 その時、『キン』にはケージの扉は見えなかった。『キン』に見えたのは、35年前に親やきょうだい、仲間たちと飛び回った佐渡島の空だけだった。

 『キン』の死に関して一つだけ確認したいことがある。『キン』は最後の最後にはたしてどれだけの距離を飛んだのかということだ。何回羽ばたいたかということだ。願わくば、『キン』の飛距離は何十センチ単位ではなく、何メートル単位であってほしい。羽ばたきは1回ではなく、少なくとも数回であってほしい。そんなことは新聞だけでなく誰も教えてくれないだろうが――。

『ニッポニア・ニッポン』最後の飛翔は、事実としては狭いケージの中だけだった。針金で編まれた扉に激突しただけである。しかし、『キン』の思考の中では、佐渡島の澄みきった青い空の中であったに違いない。(2003年10月17日)

 自民党総裁選で圧勝した現職首相、小泉純一郎陣営のメディア戦略、とくにTV戦略は実に『卓越』したものだった。小泉本人の『才覚』なのか、陣営に天才的な参謀を抱え込んだ結果なのかは知らないが、これまでの総裁選では、これほど『卓越』したメディア戦略、なかでも一般国民に対しして圧倒的な影響力をもつTV戦略は見たことがない。

 総裁選の帰すうは、橋本派の自民参院幹事長、青木幹雄が参議院の『子分』を引き連れて小泉支持を表明した時点で決まっていた。自民党元幹事長、野中広務が、小泉支持に回った青木、元内閣官房長官、村岡兼造らを『毒まんじゅう』を食べたと批判(批難)した上で、任期限りでの引退を表明したのは、自らの『敗北』を悟ったからだ。野中は、『陰腹』を切って戦場に赴いた、戦国時代の武将を自ら任じたとも言える。

 青木の小泉支持表明、野中の引退表明の時点で、総裁選の帰すうは決していた。そして、田中派角栄以来の経脈をもつ橋本派はついに『溶解』した。池田隼人以来の保守本流の伝統を引き継ぐ『宏知会』、堀内派は、河野グループの『離脱』、加藤派の『分解』に続いて、今回の総裁選で『無散』した。

 小泉本人、あるいは天才的なメディア戦略担当の参謀にとって、総裁選のポイントは、告示日から始まる選挙期間ではなかった。総裁選の帰すうは既に決まっていたのだから、ポイントは投開票日、その翌日の党三役選任、翌々日の組閣だった。

 告示日と選挙期間中の狙いは、小泉と他の三候補者のメディア、とくにTVへの『露出』を最大限に拡大すればよかった。立候補した4人がそろって大都市で街頭演説すれば、TVはその映像を繰り返し流す。それだけで十分だった。

 勝利が確実だったのだから、小泉は『政策論争』を拒否した。小泉自身は政策について多くを語らなかった。『戦略』としては当然のことである。勝利することが確実な戦いで、自らを縛ることになる『政策』は、多くを語らない方が得策である。

 四候補の中で唯一、まともな政策論争を挑んだ元外務相、高村正彦には、小泉は『はぐらかし』で応じた。初めて『治安』を最重要課題に掲げた高村に対しては、『治安』を自らの政策に取り込めばよかったからである。

 だから小泉は、あるいは天才的な参謀は、彼か彼らの『ターゲット』を投開票日、その翌日、翌々日に絞ればよかった。その作戦は見事なまでに的中した。

 投開票日は9月20日(土)。その日午後6時から、再選を決めた小泉は記者会見に応じた。その日が大相撲9月場所14日目であり、記者会見は大相撲終了直後の午後6時から開始するという『セッティング』こそ、最も重要なことだった。

 9月20日は土曜日であり、その夕方は多くの国民が家庭にいる。任期低迷中とはいえ、大相撲の千秋楽前日である。しかもこの日は、横綱・朝青龍が大関・千代大海を下して優勝を決めた一番があった。

 朝青龍優勝決定の余韻が覚めやらぬ午後6時。大相撲を中継していたNHKの映像が、小泉の再選会見に切り替わる。この時間滞で最も視聴率の高いNHKの大相撲放送からダイレクトに記者会見につなぐ。何とも絶妙なタイミングである。自民党総裁に再選されたばかりの小泉の『第一声』を無視してチャンネルを切り替える視聴者はそう多くないはずだ。

 この日が土曜日であり、平日ではないことも大きな意味をもつ。平日なら民放各局は、午後6時台は定時ニュースの時間帯である。しかし、土曜日のこの時間帯に民放はリアルタイムのニュース枠をもたない。小泉の記者会見で特番を組む民放はなかった。NHKだけが記者会見を生中継する。それこそ小泉か、彼の天才的なメディア対策参謀の『狙い』だった。

 民放なら記者会見後に政治評論家やいわゆる『文化人』――もう死語ですか――を引っ張り出して様々な論評――ほとんど論評にはなっていないが――を加える。しかし、NHKはそうではない。政治担当記者が当り障りのない『解説』を加えるだけだ。NHKだけの生中継なら、彼らは世論に影響を与える『夾雑物』を排除できる。

 小泉は翌日、9月21日(日)の自民党三役選任で、閣僚経験のない49歳の内閣官房副長官、安倍晋三を自民党幹事長に抜擢する予想外の人事を断行した。そして、その『インパクト』を最も効果的に表すパフォーマンスを考え、実行した。安倍の幹事長就任は、自民党だけでなく、自由党を吸収して政権奪取を狙う民主党や他の野党、それに国民にとっても『驚き』『サプライズ』である。

 安倍幹事長を抜擢した最も効果的な『パフォーマンス』の『場』として彼らが設定したのは、大相撲9月場所千秋楽の表彰式である。2年前に小泉が、『痛みに耐えて――』『感動した――』と絶叫して内閣総理大臣杯を横綱・貴乃花に手渡したその『場』に、自らは組閣に忙しいとの理由で、幹事長に就任したばかりの安倍を送り込んだのだ。安倍の手渡した相手は、貴乃花と比べては『アンチヒーロー』の朝青龍だが、この際そんなことは小さなことだ。中高年を中心とする自民党支持者や国民に、安倍をアピールするには最高の舞台になった。

 そして翌々日の9月22日(月)。小泉は露骨なまでの選挙向け組閣名簿を発表した。ここでも貫かれたのは、小泉流の『驚き』『サプライズ』戦略である。午後1時過ぎ、官房長官の福田康夫が閣僚名簿を読み上げた。生中継はやはりNHKだけである。焦点の竹中平蔵の処遇について、NHKは二つの閣僚ポストのうち一つは外れると伝えていた。しかし、福田の発表は二つとも留任だった。NHKは慌てて画面に『テロップ』を流す。小泉の『だまし討ち』は、メディアも含めて『玄人筋』に関しては完全に成功した。

 その日夜の、組閣後の記者会見も絶妙の『タイミング』で行われた。会見は午後8時に始まった。NHKは午後7時台から引き続いて小泉の会見映像を流す。平日だから9時台、10時台もニュース枠が続く。小泉はその日午後から深夜までNHKの放送枠をほぼ独占できたわけだ。

 総裁選当日、党三役決定が土曜、日曜になったことから出遅れた民放各局も、9月22日(月)にはNHKに追随する。しかし、『流れ』は既に決まっている。NHKの『独占』を許した土曜、日曜で生まれた『流れ』はもう止まらない。

 小泉か、彼の天才的なメディア担当参謀の『高笑い』が聞こえてくるようである。しかし、こうした『流れ』を意図的につくりだす政治家と、それに利用されるメディアは、いつまで国民の信頼を『保持』し続けられるのだろうか。(2003年9月26日記)

 子どものころ、小学校の図室にこもって、江戸川乱歩の『怪人二十面相』や『少年探偵団』を読みふけっていた時期があった。田舎の小学校だったから、そんな風変わりなことをする子どもはあまりいなかった。誰か部屋に入ってくるのではと、ちょっとびくびくしながらも、『小林少年』の推理や奇想天外なドラマの展開を楽しんでいた。そんな記憶が今でも脳みその奥底に残っている。

 ところで、日本の新聞記者(通信社記者、TV記者も含む)は、今でも三つの『顔』をもっている。彼らは時と場所によって、巧妙に自らの『顔』を使い分けている。

 日本国内では最近になってようやく実現したことだが、彼らは外国人記者の交じった記者会見では、自らの『所属会社』と『姓名』を名乗った上で発言する。『姓名』といっても多くは『性』だけだが、それでも彼らは外国要人などの会見では、『○○新聞(TV)の△△ですが――』と前置きした上で質問に入る。

 しかし、そうした『スタイル』は『よそゆき』にすぎない。彼らは『所属会社』はともかく、自らの『姓名』を告知することを好まないようだ。

 自民党総裁選に関する記者会見を2回、TVの生中継で見た。1回目は9月20日、小泉純一郎首相の再選決定後の会見である。この会見で記者たちは、『○○新聞』『××TV』と彼らの『所属会社』を名乗ったが、誰一人として自らの『姓名』を明らかにした者はいなかった。

 その翌日、小泉首相の組閣後の会見では、誰一人として『姓名』はおろか『所属会社』さえ名乗らない。『匿名』のメディアの『匿名』の記者が、日本の最高権力者に再選された小泉首相に対し、あれやこれやの質問を繰り返す。

 組閣後の会見は内閣記者会が主催したものだろう。そうだとしたら、『質問する側』も『答える側』もいわば『身内』の関係にある。政治家と政治記者たちは、そうした『閉ざされた関係』を長いこと続けてきたと言える。

 『匿名性』が許されるのは、『所属会社』や『姓名』を名乗る必要のないほど、取材する側と取材される側との関係が緊密であるということである。彼らは双方とも小競り合いを繰り返してきたのだろうが、そうしたことは『予定調和』の範囲内のことである。

 彼ら双方の『予定調和』は、リアルタイムで中継するTVカメラが会見場に入り込んで以来、崩れてしまった。TVの前の視聴者は『答弁』だけでなく、『質問』も評価している。『質問者個人』と彼の『所属会社』も評価の対象にしている。そのことを認識できないでいるのは彼ら、取材する側の人間だけである。

 リアルタイムで中継するTVカメラにさらされた上で、取材する側は『匿名性』に隠れて、何を国民に伝えようというのだろうか。(2003年9月26日)


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事