成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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  『スポーツ裁判所』は不思議で理不尽な『裁判所』だ(2003年8月13日)

 世の中には何とも不思議な『裁判所』があるものだ。法律のことはよく分からないが、通常の民事裁判であれば、原告の提訴に対して被告が裁判所の出頭要請に応じなかったり、反論しなかったりした場合は、原告の全面勝利となる。しかしこの『裁判所』では、『被告』に裁判を拒否する権利が与えられている。『被告に』拒否されれば、『審判』そのものが成立しない。こんな不思議な『裁判所』に争いごとの解決を委ねる『原告』が今後現われるだろうか。

 この不思議な『裁判所』は、国内におけるスポーツ関連の紛争を解決するために2003年4月、日本オリンピック委員会(JOC)などが中心になって設立した日本スポーツ仲裁機構(JSAA)である。ドーピング(薬物使用)違反に対する処分や五輪など国際大会の選手選考をめぐるトラブルなどスポーツ界の紛争を、スポーツ界内部で『公正』かつ『迅速』に解決するために設けられた。

 スイスに本部のある国際スポーツ仲裁裁判所(CSA)にならって設立した。日本でもドーピング違反や五輪など国際大会の選手選考をめぐる選手と競技団体などとのトラブルは、スポーツの『商業化』や選手の『プロ化』に伴って増え続けている。2000年シドニー五輪の代表選手選考を巡って水泳の千葉すず選手が国際スポーツ裁判所に提訴したケースはまだ記憶に新しい。

 国内選考会で好成績を残しながらも代表に選ばれなかった千葉選手が提訴したこのケースは、千葉選手の敗訴に終わった。日本水連は否定しているが、留学先のアメリカで自由な気風と選手としての権利意識に目覚めた千葉選手を、水連が恣意的に排除したというのが、選考漏れの真相である。彼らは年端もない選手を『引率』するような意識で五輪や世界水泳など国際大会に派遣してきた。彼らにとって千葉選手は、派遣選手の『風紀』を乱す『異端児』だった。

 五輪など国際大会の代表選手選考をめぐるトラブルは頻繁に起きている。ただ、競技団体と選手が『上下関係』にあるとする、理不尽で時代遅れの認識がいまなお強く残る日本のスポーツ界では『表沙汰』になることは少ない。多くの場合、選手側が『泣き寝入り』してきた。

 こうした現状を打破するためにも、仲裁機構設立の意味は大きいと思っていた。改革に対して何ごとも中途半端な日本のことだから、機構そのものに『不備』があったり、運営上の曖昧さがあったりしても、『閉鎖性』と『上下関係』で成り立っているスポーツ界を変えていく力になると考えていた。

 もちろん仲裁機構は法律に基づいた司法機関ではない。しかし、司法に基づく正式な法廷以前にスポーツ界がその内部で紛争を解決するための機関であると位置付けているなら、仲裁機構は法律と一般常識に準拠した『体系』をもたなければならない。それは、スポーツが特定の『権力者』や『エリート』ではなく、普通の人々の『支持』によって成り立っていることを考えれば、当然のことである。

 仲裁機構は一般的には『スポーツ裁判所』として認識されている。国際スポーツ仲裁裁判所にならって設立されたのだから、そうした認識は的を得ているはずである。

 大学重量挙げ部の男子部員の不祥事をめぐり、日本重量挙げ協会からコーチ資格を6ヵ月間停止された元世界チャンピョンの大学女子部コーチが処分撤回を求めて提訴した『第1号案件』では、仲裁機構は8月4日、コーチの主張を認める裁定を下した。協会も裁定を受け入れ、処分を取り消すことにした。

 新聞各紙はこのケースをスポーツ界における新たな、かつ歴史的な『ムーブメント』として、ことの次第を『本記』と『解説』に分けて詳報している。メディアも仲裁機構の『意味』と『可能性』に期待していた。

 このように、仲裁機構は順調なスタートを切ったかに見えた。しかし、そんな期待はそれからたった4日後の8月8日、あっけなく裏切られた。高校ボクシング部に所属する高校生が起こした(正確には起こそうとした)『第2号案件』が『幻』に終わったからである。

 『幻』に終わった『第2号案件』の概要はこうである。8月9日配信の共同通信記事から引用する。

 選手資格を停止されて全国高校総体に出場できなかった高校生ボクサーが処分の撤回を求めて日本スポーツ仲裁機構(JSAA)に申し立ての書類を提出したことに関し、日本アマチュアボクシング連盟の吉森照夫専務理事は8日、「仲裁に応じない」と明言。JSAAの仲裁は双方の合意を前提としており、日本連盟の拒否で同件は仲裁事案として成立しないことになった。

 処分撤回を求めていたのは石川県の高校1年の選手(記事では学校名、氏名とも実名だったが、本コラムではその必要性がないので、学校名、氏名とも匿名扱いにする)。小学校時代から金沢市内のプロボクシングジムで練習している同選手は、ジムの興行で数回、スパーリングを行ったが、日本連盟はこれらの行為がアマチュア規定に抵触したとして、同選手を5月末から1年間の資格停止処分にした。

 仲裁機構の『仲裁』には『双方の合意』が必要なのである。選手側が提訴しても競技団体側がそれに応じなければ『仲裁』は成立しない。これは仲裁機構の抱える、致命的な『構造的欠陥』である。競技団体の『閉鎖性』と、選手との『上下関係』意識を考えれば、これから選手側が提訴しても、それに応じない競技団体が続出することは明白である。

 共同通信は仲裁機構専務理事の上田宗良氏のコメントとして、「JASSに合意してくれている競技団体もあるが、まだ少ない。こういうこともあり得る」との見解を示している。仲裁機構と文書などきちんとした形で『合意』した競技団体は、まだ10団体程度だという。仲裁機構は競技団体の『善意』を信じて『見切り発車』したのだ。しかし、競技団体の『実態』を少しでも知っている読者は、彼らの『善意』を信じられるだろうか。

 申し立てが却下される可能性が極めて高い上、その後も競技団体から陰に陽に『圧力』がかかることを覚悟して、しかもメディアへの『益』のない『露出』を覚悟してまで提訴する選手が現われるだろうか。

 仲裁機構、いや仲裁機構を設立したJOCなど日本スポーツ界の『上部団体』は、仲裁機構の『構造的欠陥』を直ちに『抜本修正』すべきである。そうしないならば、仲裁機構はまったく機能しないばかりか、JOCなど『上部団体』の『免罪符』になるばかりだ。世界中から日本のスポーツ界は笑いものにされるだけだろう。

 高校生ボクサーの件に関しては、共同通信が日本アマチュアボクシング連盟の吉森専務理事のコメントも配信している(8月9日)。『裁判なら受ける』との見出しのついた記事で、吉森氏はこう語っている。「(川島五郎)会長とも相談し、仲裁に応じないと決めた。相手が裁判に持ち込むなら受ける。プロ行為はアマチュア登録前であっても、本人の意思でなくても、それを他人が利用する可能性がある限り許すことはできない」

 吉森氏のコメントからは、ひと昔もふた昔も前の古さびたアマチュア意識、アマチュア至上主義が顔をのぞかせている。高校生ボクサーがアマチュア登録前に、それも小学校、中学校時代に行った行為を一刀両断に『裁断』しているのだ。

 アマチュアボクシング界とプロボクシング界で歴史的にどんなトラブルや対立があったかは知らない。しかし、吉森氏が信奉するアマチュア至上主義など、もうどこにも存在しないのだ。

 そのことについて幾つか例を挙げたい。かつて日本のアマチュアリズム、アマチュア至上主義の『権化』とも言えた日本ラグビー協会はどう変わったか。彼らはかつて選手とチームの『商業化』『プロ化』を徹底的に排除した。新日本製鉄釜石の7連覇に貢献した松尾雄治は「選手としての名声を商業活動に利用した」として厳しい処分を受けた。――『プロ化』とは無関係だが、松尾の前のキャプテンでありその後、監督に就任した、天才的ウイングであった森重隆を協会はどう処遇したのか――

 日本ラグビー協会はその後、大きく変化した。彼らは今では『プロ化』を受け入れるばかりか、協会が『プロ化』した選手を日本代表選手として抱え込むまでになっている。この『システム』にはアイロニーがある。協会がプロ化を容認したとき、既にラグビー人気は去っていた。傘下の実情団チームにプロ化を働きかけても、そうした要請に応じる大企業はなかった。大企業も長引く『バブル』のつけの清算に追われていたからだ。

 日本ラグビー協会は自ら、『プロ化』した選手を抱え込むしかなかった。国際大会、なかでも新設されたワールドカップで連戦連敗の日本ラグビーから、ファンも、スポンサー企業も、メディアも離れていった。日本代表が勝てないラグビーからは、最も大事な『資源』である子どもたちまでも離れていった。ことここに至って、彼らは『決断』したのだ。日本におけるラグビーの『生き残り』をかけて、彼らは『プロ化』に踏み切った。

 『センバツ』と『夏の甲子園』が国民的行事になっている、高校野球もこの際だから俎上に挙げる。何故、全国の私立高校、公立高校までが『甲子園』に血道をあげるのか。答えは簡単である。『甲子園』出場の『宣伝効果』は何ものにかえがたい。倒産寸前の高校が『進学校』になり、安定的な学校経営を行うに至ったケースさえ多い。

 関東の私立大学が『箱根駅伝』になぜあれほど『熱狂』するのか。その答えも、実情を知る者にとっては極めて簡単だ。『箱根駅伝』の宣伝効果ははるかに『甲子園』を超えている。正月2、3日の2日間、最高視聴率を独占するTV中継に『露出』し続けることができるのだから。こんな『チャンス』をはなから諦める関東の大学はない。だから、彼らは『箱根駅伝』に異常なまでに執着する。
アマチュアリズムの『根源』であると、当事者やメディアが喧伝する『甲子園』『箱根駅伝』にしても、『実態』はこんなものだ。

 しかも『箱根駅伝』の場合は、関東のローカル大会が全日本大会を『超越』するという、『倒立』した形態をもつ。そして、そのことについてメディアは誰一人として適切な論評を加えようともしない。

 五輪や世界選手権ばかりか、国内の大会でさえ純粋な」『アマチュア』選手がタイトルを取ることなどまず不可能だ。前述したように、高校生レベルの大会までそうなのだ。そうした現実に目をそむけたまま『アマチュア至上主義』を標榜し続ける競技団体と、彼らを『容認』し続けるJOCなど日本の『上部団体』の関係性こそ異常なののだ。

彼らが設立した『スポーツ裁判所』は中途半端なものである。しかし、そんな中途半端な機構でさえまともに機能させないのであれば、彼らからスポーツを解き放つ以外に日本のスポーツの『未来』はなくなってしまうだろう。(2003年8月13日)

 7月上旬、ある日の夕方のことだった。行きつけの喫茶店に久しぶりに立ち寄って、高齢のマスターと世間話をしていた。「ああ、そうだった。やっているんだ」。そう独り言を言ってマスターはテレビをつけた。

 テレビは筆者の席からは見えない。マスターは最近、だいぶ耳が遠くなってきている。テレビのボリュームはかなり大きい。大相撲の中継だとすぐ分かった。

 時間はもう6時前だ。テレビのスピーカーから歓声ともどよめきともつかない音響が流れてきた。その時、マスターが大きな声を出した。「おお、いいぞいいぞ。あいつ負けよった。モンゴルへ帰りやがれ―」。マスターは手をたたいて喜びを表した。

 その日は7月7日。大相撲夏場所2日目だった。結び前の横綱・朝青龍と前頭・琴ノ若の一番。朝青龍があびせ倒しで琴ノ若に敗れ、座布団が舞った。

 その時、何とも不思議な違和感を覚えた。大の大相撲ファンであるマスターが6時前までテレビをつけないということは、これまでなかったことだ。遅くても幕内中位の取り組みがある5時ごろにはテレビをつけていた。筆者にしてもそれまでなら、マスターが忘れていたなら「相撲やってるよ。テレビをつけて―」と催促していたはずだ。二人とも大相撲のことなどすっかり忘れていたのだ。

 違和感以上に驚いたのは、朝青龍の初黒星に対するマスターの極めてストレートな反応だった。相撲ファンにとって何とも憎たらしい「悪役」が無様な敗北を喫する。そのパフォーマンスに大喝采をする。横綱が悪役になってしまった。

 春場所で朝青龍は横綱として初めて優勝はしたものの、同じモンゴル出身の先輩である前頭・旭鷲山に敗れ、土俵上でさがりを振り回すなどの「暴挙」にでた。マスターにとって春場所での朝青龍の態度は我慢できないものだった。心技体とも充実し他の力士の模範たるべき天下の横綱にあるまじき行為と写ったのだろう。

 マスターにとって横綱・朝青龍は大相撲の価値を汚す、許すべからざる悪役という存在になってしまったようだ。

 「ヒール」という言葉を思い出した。そうだ。マスターにとって朝青龍はヒールそのものになっていた。観る人すべての憎悪、嫌悪を一身に背負ったヒールとしての横綱がいる。そんなことは、大相撲の世界ではこれまでなかったことだ。

 古典的なプロレスの世界では、レスラーは二つのカテゴリーに分けられていた。観客の声援を受けフェアプレーで戦うベビーフェイス(善玉)と観客の批難、嫌悪を一身に浴びて反則技を多用するヒール(悪役)である。

 ヒールが汚い技を使ってベビーフェイスを徹底的にたたきのめす。ヒールの悪行に耐えに耐えてきたベビーフェイスは最後に堪忍袋の緒を切ってフィールに反撃を試みる。そしてついにベビーフェイスはヒールを打ち負かす。

 草創期の日本のプロレスで言えば、空手チョップの力道山と赤毛の噛みつき男・フレッド・ブラッシーの世界である。当時の日本人は本気でブラッシ―を憎んだが、リングを下りたブラッシ―は穏やかな紳士であることが後に紹介された。

 古典的なプロレスの世界では、リング(舞台)の上でレスラー(役者)がそれぞれの役を演じきる。観客は演目の前提を知ったうえでレスラーの技や演技を楽しむ。それが欧米で完成したプロレス「文化」である。プロレス文化は、日本で言えば新派芝居のようなものでもある。プロレスはこうした「虚構」=文化を前提に成り立っている。

 大相撲「文化」はプロレスのそれとは対極的な位置にある。力士は互いにフェアプレーで戦うことを前提にしている。汚い技を使う力士は観客から嫌われるばかりでなく、ペナルティーの対象となる。ましてや全力士の頂点に立ち模範となるべき横綱は、大相撲文化の体現者であらなければならない。

 プロレスと同じく、大相撲文化もこうした「虚構」=文化を前提に成り立っている。これまでの横綱はハワイ出身の曙、武蔵丸も含め、横綱は相撲文化の体現者であるという前提でふるまってきた。しかし、春場所の朝青龍はそうした虚構=文化を自らぶち壊してしまった。昔からの大相撲ファンである喫茶店のマスターの怒りと嫌悪の出所はここにある。

 夏場所で朝青龍は相撲文化をさらにぶち壊した。春場所の因縁を引きずった朝青龍は5日目(7月10日)の旭鷲山戦で相手のまげを故意につかんで反則負けを喫した。その帰りには旭鷲山の送迎用車のミラーを壊した。風呂場での旭鷲山との口論では乱闘寸前の騒ぎにまでなった。

 朝青龍は現役の中では地位だけでなく実力もナンバーワンの力士だ。相撲を始めたのは日本の高校に留学してからだ。入門後は一気に最高位に登りつめた。格闘家としての才能は天才的なものがある。春場所前の横綱総見をテレビで見た印象が強く残っている。千代大大海との三番稽古は圧巻だった。十数番連続でとったが、千代大海が勝ったのは3番ぐらいだった。ほかの勝負はすべて朝青龍の圧勝だった。
 大相撲人気は長期的に低迷している。長期低迷どころか、大相撲は今やこれまで経験したことのない危機に直面している。そのことは後日書くことにする。

一時代を築いた若乃花、貴乃花、曙が引退。貴重なバイプレーヤーとして土俵を盛り上げてきた舞の海、寺尾、貴闘力、安芸の島も土俵を去った。そうした逆境の中で大相撲は、相撲文化を無視する横綱という存在に耐えられるだろうか。

 相撲文化を無視する横綱という存在は、高齢者を中心とする多くの相撲ファンにも、相撲協会にも、そして当事者である朝青龍自身にとっても、ひどく耐えがたいものになってくるだろう。(2003年7月17日)

 自然界の中に溶け込んで生きる他の動物に比べ、人間は何とも不器用でつりあいの取れない生きものである。

 人間が長い時間をかけてつくりだした文明、なかでも西欧近代文明は、自然界に対抗して、人間のためだけの「人工的空間」を創造し、それをより精密なシステムに組み立てることだった。そして、人工的空間で生きるための技術と道具を獲得することが、個々の人間にとって最も重要な課題になった。

 自然界から離れるにつれ、人間の不器用さとつりあいの悪さはさらに拡大していった。
 立つこと、座ること、歩くこと、走ること――。これら最も基本的なことでさえ、ほとんどすべての人間にとって、完ぺきな動作は存在しない。

 以前、アフリカのサバンナを描いたテレビのドキュメンタリー番組で、獲物を獲得するため全力で疾走するチーターの姿を見た。どこにも非の打ち所のない、完ぺきな走りだった。完ぺきな走りは、あのチーターだけのものではないはずだ。テレビカメラマンが無作為に選んだとしても、どのチーターもカメラの前で完ぺきな走りを見せてくれるだろう。


 自然の中に溶け込んで生きる、人間以外の動物にとって、完ぺきな走りは特別なものではなく、ごく普通の動作なのである。

 自然から離れることによって、人間は走りだけでなくすべての動作から完ぺきさを失っていった。そのことは、人間と人間がつくりだした文明に対する、自然界からの『復讐』とも思えてくる。

 人間が舞踏や演劇、スポーツを見ずにはいられない理由のひとつは、自ら失った動作の完ぺきさを、その中に「発見」したいためなのかもしれない。

 人間としての完ぺきな動作は、天才的な舞踏家や舞台人とスポーツ・アスリートが見せる、一瞬のパフォーマンスの中にしか、存在し得なくなった。

 アスリートの動作(フォーム)にしても、完ぺきさは極めて稀にしか出現しない。1990年代に陸上短距離と走り幅跳びの分野に君臨したスーパースター、カール・ルイス。100メートル、200メートルでの走り、走り幅跳びでの「空中遊泳」にはそんな完ぺきさがあった。しかし、C・ルイスにしても、いつでもその完ぺきさを披露できたわけではない。完ぺきなパフォーマンスは、絶頂期の、五輪や世界陸上など特別なレースに限られていた。

 室伏広治の動作に完ぺきさを見つけた。室伏のフォーム、なかでのフィニッシュの美しさは完ぺきだった。

 日本のハンマー投げの第一人者である室伏のことだ。2001年の世界陸上(カナダ・エドモントン)で2位入賞、2002年の国際グランプリファイナル(パリ)で優勝し、世界のトップアスリートになった。日本人が世界のトップの位置に立ったのは、女子マラソンの高橋尚子を除いては、初めてのことだ。

 室伏の目標は今夏の世界陸上、そして2004年のアテネ五輪での優勝、そして世界記録の達成になった。

 5月10日、大阪・長居陸上競技場で開かれた国際グランプリ大阪大会。今季初戦にこの大会を選んだ室伏は、6回の試技すべてで81メートル台を記録する圧倒的な強さを見せ付けて優勝した。4月26日、中京大での記録会でも6回の試技すべて80メートル台をマークしたというから、極めて高いレベルでの安定度は群を抜いている。

 中京大の記録会も記録が公認される公式大会である。大阪大会は国際陸連主催の世界最高峰の大会である。その2つの大会を通して計12回の試技とも80メートル台を超えたことは、驚くべきこと。すべて80メートルを超えたということは、逆に言えば1回もファールしなかったということだ。ハンマー投げという極めてデリケートで高度な技術を必要とする種目であることを考えれば、12回ともファールなしという結果は、さらに驚くべきことだ。

 5月10日の大阪大会はNHK総合テレビで中継された。どこかの民放テレビ局とは違って、アナウンサーがやたらと吠えないので、じっくりと室伏のパフォーマンスを見ることができた。

 1回目、2回目、3回目――と見続けているうちに、あることに気付いた。ハンマー投げに関してはテレビカメラの位置は固定されている。室伏がサークルに入る。ハンマーを回転させ始める。1回転、2回転、3回転、4回転――と回転の速度が急激に上がる。それと同時に室伏の身体が滑るようにサークルの先端部に移動する。そして室伏とワイヤーとワイヤーの先端にある鉄球に蓄えられたすべてのエネルギーが瞬時に放出されるフィニッシュを迎える。

 何回試技を見ても、フォームに寸分の狂いがない。一定の動作が繰り返される。そしてフィニッシュの「かたち」はどの試技でも同じだった。そして美しかった。室伏は試技によってはフィニッシュ直後に吠えたり、吠えなかったりする。しかし、身体全体のかたちは同じだった。

 室伏が、「アジアの鉄人」呼ばれた父親の室伏重信氏と「二人三脚」で継続し、研ぎ澄ましてきた技術は、ほぼ完成の域に達したのだろう。室伏のフォーム、なかでもフィニッシュは完ぺきだった。そして、とくにすべてのエネルギーが解き放たれた後のフィニッシュ――「動」から「静」への急激な変化と一瞬の「沈黙」――はたとえようもないほどに美しかった。

 室伏のフィニッシュの瞬間を切り取りたい。そんな思いが試技を見るたびに頭の中をよぎっていった。カメラマンならあの瞬間をフィルムに固定させるべきだ。画家ならあの瞬間を描くべきだ。彫刻家ならあの瞬間を立像に再現すべきである。

 ミケランジェロがイタリアに現存し、テレビでこのシーンを見たのなら、彼はすべての約束をキャンセルして大阪に駆けつける。室伏のフィニッシュの姿は、彼の傑作「ダビデ像」より完ぺきで美しかったからだ――。そんな「妄想」まで思いついてしまった。

 しかし、日本のスポーツメディアは、室伏の完ぺきなフォームとその美しさについて、何も語ろうとはしない。写真に切り取ることもしないし、動画映像に定着しようともしない。新聞など活字メディアも、室伏のフォームを言葉につぐもうとはしない。彼らにとってスポーツは、記録と順位によって勝った負けたを争うだけの、単なる肉体的パフォーマンスにすぎないのだろうか。

 スポーツにおいて、美しさとフォームを競うのは、一般には「採点競技」だとされている。しかし、本当にそうだろうか。体操、新体操、フィギャアスケート、シンクロナイズドスイミング――。採点競技の美しさ、完ぺきさにはどこかに『媚』が付きまとう。競技者は採点者の「基準」に合わせるしかないからだ。採点者の基準から個人やグループの「好み」を完全には排除できないからだ。フィギャスケートの採点基準のうち、「アーティスティック・インプレッション」――今は別の言い方になったはずだ――をどうやって公平、公正化できるのだろう。

 採点競技とは対極の位置にある格闘技、ボールゲーム、陸上や水泳などにこそ、本物の完ぺきさ、美しさがある。記録や得点、そして文字通り生身の人間が1対1で勝ち負けを争う格闘技の中に、一瞬の完ぺきさと美しさが現われることがある。選ばれた人間だけがその一瞬に、サバンナでのチーターの疾走を取り戻すのだ。

 国際グランプリ大阪大会での室伏には、そうした本物の完ぺきさと美しさがあった。

 人間が自然から離れることの代償として失った完ぺきな動作は、ある瞬間にアスリートの一瞬の「かたち」として復活する。スポーツにとって最も重要で本質的な、絶対に見逃すべきではない一瞬がそこにある。((2003年5月24日)

 ――パトリック・ジョンソンは5月の風の中を走り抜けた――

 初夏の青空のもとをさわやかな風が吹き抜ける。まだ若い緑に囲まれた地方都市の陸上競技場。ある外国人選手が100メートルを9秒93で駆け抜けた。速報は9秒92だった。記録はすぐ訂正され、0秒01遅くなった。スタンドからどよめきが起きた。

しかし、外国人選手に笑顔はなかった。それどころか、トラックの中で彼は一人ぼっちだった。ゴール付近でレースを見守っていた記者、カメラマンは誰一人として彼のもとにはやって来なかった。すべての記者、カメラマンは、彼に敗れた日本人選手の周囲を十重二十重と取り囲んでしまった。

日本人選手は、日本人初、いやアフリカ系黒人以外では初の、100メートルを9秒台で走るランナーに最も近い位置にいると評価されていたからだ。

 外国人選手はレース直後、ゴール脇のフィールドにある電光掲示板の脇で、片ひざをついてポーズを取った。掲示板にはまだ「9・93」が表示されている。スプリンターが世界新記録など「特別な記録」をマークした際に取る、あの定番のポーズである。しかし、そこでも彼は笑わなかった。掲示板脇でポーズを取る彼のもとに、記者、カメラマンは集まってはこない。彼らはまだ、日本人選手から離れなかった。

 しばらくたってから何人かの記者、カメラマンが彼のポーズに気付いて集まりだした。それでも、彼の周りにやって来た記者、カメラマンは全体の5分の1か4分の1程度だった。彼は、掲示板脇のポーズを手早く切り上げた。ポーズの延長を求める記者、カメラマンはいなかった。

 レースから30分ほどたって行われたメーンスタンド前での表彰式。彼に敗れた日本人選手を従えて表彰台の一番高い段の上にたった彼は、その時初めて笑顔を見せた。

 2003年5月5日、水戸市立陸上競技場で開かれた水戸国際陸上大会での、男子100メートル決勝とその後の場面である。

 外国人選手は、オーストラリアからやって来たアボリジニ系のパトリック・ジョンソン。日本人選手は末続慎吾である。追い風1・8メートルという絶好の条件に恵まれ、P・ジョンソンはこのレースで、アフリカ系黒人以外では初の100メートルを9秒台で走るランナーという栄誉を手にした。末続は前年のこの大会でマークした日本国内最高記録を0秒02更新したものの、10秒03に終わった。末続は2年続けて9秒台のチャンスを逃した。それまでの自己ベストが10秒10のP・ジョンソンは一発でチャンスをものにした。

 水戸陸上の5日後に行われた国際グランプリ大阪大会(5月10日、大阪長居陸上競技場)。100メートルで末続とP・ジョンソンは再度対決した。大阪大会では、2002年に世界記録を更新(9秒78)したティム・モンゴメリも同じレースを走った。記録の出にくい追い風の中、結果はT・モンゴメリが10秒04で優勝、P・ジョンソンは0秒01差の10秒05で2位、二人に水をあけられた末続は10秒16で3位だった。

 世界記録保持者と競り合ったP・ジョンソンは水戸国際陸上での記録がフロックではないことを、彼がいわゆる「一発屋」ではないことを、大阪で見事に証明してみせた。

 P・ジョンソンはアボリジニ系の母とアイルランド系の父をもつケアンズ生まれの30歳という。スポーツ大国・オーストラリアも陸上・男子短距離ではこれまで大きな実績は残していない。2000年のシドニー五輪で聖火の点灯役を務め、女子400メートルで優勝したキャシー・フリーマン――レース後、アボリジニとオーストラリアの2つの旗を持って大観衆で埋まる競技場内を一周した。このシーンは、シドニー五輪を象徴するシーンとして長く語り継がれるだろう――に続き、P・ジョンソンは先住民の英雄になるのだろうか。

 今年夏は世界陸上、来年夏にはアテネ五輪が開催される。「人類最速のランナー」を決める大会である。「最速」への可能性を秘めた異色のランナーは、日本の地方都市のすこし古びた小さな競技場で、静かに誕生した。この場面に立ち合った観戦者は2000人ほどだった。((2003年5月15日)

 個人的な話から始める。私は、ちょっとした家庭菜園をやっている。春先のエンドウマメから夏場のキュウリ、ナス、ピーマン、スイカ、秋のサツマイモ、サトイモまで、季節ごとに野菜を収穫する喜びは格別なものがある。しかし、草取りだけは苦手である。

 高温多湿の日本では、菜園の草は取っても取っても次々と生えてくる。夏場は、1週間ほど草取りをさぼっただけで、草はもう手に負えない存在になる。巨大化した草を根こそぎ引き抜いたり刈り取ったりするのは、かなりの体力と忍耐力を要する力仕事になる。

 ある年、草取りをひと夏さぼったことがあった。菜園は、巨大化した草のはびこる「草原」になってしまった。その年の秋に菜園にばらまかれた種からは、毎年たっぷり草が生えてくる。

 ■菜園の草取りは手抜き作業で

 菜園は今もどうにか続けている。しかし、草取りは相変わらず苦手である。菜園を続けられるのは、ある「手抜き作業」を覚えたからである。手抜き作業とは、カマを使った草取りを放棄したことである。私のような怠け者には、週に1回の草取りなどできるはずもない。

 それである方法を考えた。菜園をかき回し続けることである。週に1回程度、クワを使って菜園全体をかき回す。かき回した後で草を拾い集める。野菜の株の回りだけは手で草を抜く。

 この方法だとカマはまず使う必要がない。地面を定期的にかき回すから、菜園の表土は固くならない。この手抜き作業ゆえ、初夏から秋口にかけての菜園を、何とか菜園らしく維持できるようになった。

 ■草を憎む? 農家のおばあさんたち

 農家のおばあさんたちの草取りは、私の手抜き作業とは正反対の、徹底的なものである。まるで草を憎んでいるかのように、小指の先、いやマッチ棒の先ほどの草まで、カマを使って根こそぎ地面からはぎ取っていく。

 真夏の最も暑い季節でも、夏だからこそ草は生えるのだが、彼女たちは体を地面に伏せた窮屈な姿勢を維持しながら、長時間にわたって草を取る。彼女たちが作業した後の屋敷回りや畑には、小さな草の1本さえ残ってはいない。まるでなめるようにして草を地面からはぎ取っていく。

 農業は草との闘いでもある。人間が育てる品種改良された作物より、自然のままに伸びた草の方が生命力は当然強い。作物のためにまいた肥料は草に横取りされる。大きく育った草は、作物にとって最も大切な太陽の光を奪ってしまう。

 高温多湿の日本では、草取りなしの農業はありえない。あるいは大量の除草剤を使うしかない。私の手抜き作業などは、ほんの小さな菜園だからこそ可能なのである。

 ■欧州近代スポーツは芝(草)の上で成立した

 日本ほど自然が豊かではなく、牧畜中心の農業を営んでいた欧州では、草は日本の農家のおばあさんたちとは逆のものとして受け止められてきた。貧しい自然では、表土を保護するには草が必要だった。欧州、なかでも英国やオランダはいまや世界的な「園芸大国」だが、欧州原産の園芸植物は驚くほど少ない。欧州の園芸植物はほとんどすべて、中近東やアフリカ、アメリカ、日本を含むアジアから持ち込まれ、欧州で品種改良されたものである。

 貧しい自然しかもたない欧州にとって、草は国土保全のためにどうしても必要なものだった。産業革命がそのことに拍車をかけた。欧州中の森林はエネルギー資源、建築・土木材料として切り取られたからである。

 森林を奪われた大地に残ったのは草だけだった。草の上に近代欧州文明は成立したともいえる。そして、草は芝生へと「進化」していった。

 欧州で成立した近代スポーツにはある前提がある。スポーツは芝(草)の上でプレーするということである。ゴルフはもちろんテニスもサッカーもラグビーもそうである。現在では室内競技になったバレーボールやボウリングも、当初は芝の上でプレーすることが前提になっていた。

 ■欧州の「芝の文化」と日本の「土の文化」

 明治以降の日本は、欧州で成立した近代スポーツを導入した。しかし、導入は限定的なものにとどまった。明治政府の大方針である「富国強兵」政策に沿って、軍事教練目的だったからである。学校体育にしても、将来徴兵される「兵士予備群」を欧州式に体を動かせるよう教育するためのものだった。

 このため日本のスポーツは、スポーツが本来もつ、心と体を束縛から解放する行為であるという、内面的な動機付けからは、かけ離れた存在になってしまった。その結果、どの競技でも「上下関係」と「精神主義」が幅を利かせることになった。ひと昔前までの学校運動部は「擬似軍隊」的な組織だった。

 近代スポーツの導入に際して、日本が受け入れなかったものがもう一つあった。欧州の「芝の文化」である。あまりに自然が豊かなゆえに、草をはぎとった表土こそ最高であると考える「土の文化」をもつ日本は、芝の文化は受け入れなかった。相撲を芝の上ですることなど、日本人には考えられないことである。

 ■コンクリートの上では心と体を解放することなどできない

 学校の校庭はいまも土で覆われている。小学校の校庭は、子どもたちが最初にスポーツを「体感」する場である。体を使った遊びがスポーツに「進化」する場でもある。その場は今も土で覆われている。そのこと自体には異論はない。しかし、現在の校庭の土は柔らかい土ではない。テニスコートのように強く踏み固められている。都会ではコンクリートで固められていることさえある。転べば確実に体を傷つけるコンクリートの上で、子どもたちは、どうして心と体を束縛から解放することができるのだろうか。

 ゴルフと同じく、芝の上だからこそ成立するはずのサッカーでさえ、日本では土のグラウンドの上で行われてきた。ひと昔前の子どもたちにとっては、芝の上でボールを蹴ることは夢のような出来事だった。1993年のJリーグ開幕のころには、TV映りをよくするために芝に緑色の砂をまくことさえ行われた。

 そのころ、サッカーのクラブ世界一を決める「TOYOTAカップ」は国立競技場の、冬枯れの高麗芝の上で行われた。欧州や南アメリカ大陸の人たちは、その映像を見て驚いたはずだ。「世界一を決める最高レベルのゲームは何と、枯れた芝の上で行われている」。高麗芝が冬場には冬眠するなどということを知らない彼らは、驚きそしてあきれたことだろう。

 そして長い間、芝はまたその上で遊んだりスポーツをしたりする場ではなく、「鑑賞」する場であった。公園の芝は例外なく、竹ひごで囲まれた「立ち入り禁止」の区域内にあった。

 ■「国際標準球場」と日本独自の球場

 米国で発明された野球(ベースボール)も芝の上でプレーするという前提で成り立っている。野球場のフィールド全体は芝で覆われている。ただ、プレー頻度の高いピッチャーズマウンドと、本塁―1塁―2塁―3塁―本塁間、つまり「ダイヤモンド」部分だけは芝がはげてしまう。

 フィールド全体は芝で覆われるべきだが、物理的に無理な部分だけは土がむきだしになる。それが本来の野球場の形態である。そしてこの形態が日本以外では当たり前である。「国際標準球場」になっている。

 明治期に野球を導入した日本では、球場の形態を折衷的に取り入れた。外野は芝である。しかし、ダイヤモンドを含む内野は土がむき出しになった。この形態は、極めて少数の例外を除いて、今も日本の球場に広く取り入れられている。

 球場に関して言えば、日本は欧州や米国の「芝の文化」を半分だけ受け入れ、日本の「土の文化」をやはり半分だけ残したことになる。

 ■「鎖国スポーツ」から国際競技スポーツへ

 日本で最高の人気競技でありながらも、野球は国際競技スポーツとしてではなく、国内に封じ込められた「鎖国スポーツ」として発達してきた。メジャーリーグ選抜チームや球団が何年かごとに日本にやってくるが、それらはいずれも「親善目的」である。「競技」するために来日するわけではない。そのため、球場の形態も基本的に変化することはなかった。しかし、野球も国際競技スポーツの時代に入った。

 野球は五輪の正式種目になり、アテネ五輪には全員プロ選手の日本代表が出場する。メジャーリーグ機構はサッカーと同様の、ベースボールのW杯を構想している。日本の一流プロ選手は続々とメジャーリーグに進出する時代になった。

 こうした時代に、日本だけの独自な球場の形態を残しておいた方がいいのだろうか。国際競技となった野球で、日本だけの独自な球場でプレーする日本チームや日本選手はハンディを背負うことになる。

 バント処理や内野ゴロの処理では、土と芝では明らかに違いが出る。それ以上に、日本で国際大会を開催する場合、「日本の球場は独自なものだから」で済むのだろうか。国際大会開催に際しても大きなハンディを背負うことになる。

 私の知る限りでは、内野が芝で覆われている球場は山形県鶴岡市の「鶴岡ドリームスタジアム」と、オリックス・ブルーウェイブの本拠地であるヤフーBBスタジアム(旧名称・神戸グリーンスタジアム)だけである。シドニー五輪前、日本代表チームは内野に芝生のある球場に慣れるため鶴岡市で合宿した。ほかには内野に芝生のある球場がなかったからである。

 「土の文化」と「芝の文化」を折衷させた、あるいは融合させた日本独自の球場は当時の日本人の知恵が生み出したものだ。しかし、野球が国際競技になった現在でも、日本の球場は独自の形態のままでいいのだろうか。 (2003年12月27日記)


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