成田好三のスポーツコラム・オフサイド

スポーツ全般をテーマに新たな視点からスポーツの面白さや様々な課題に焦点を当てたコラムサイト。無料メルマガも配信中です。

宮本武蔵『三十五箇条』現代語訳

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 (10)糸とかねという事

 平常時であろうと、敵と対したときも、剣を交えたときも、糸(直線も曲線も描けるもの)とかね(矩=矩尺、直角に曲がった金属製のものさし・常に直線であり曲がらないもの)をこころの中に持つべきだ。

 相手の心に糸をつけてみれば(相手の心と相手の五体を糸でつなぎ、その糸を見れば)、その糸の突っ張り方が強いところ弱いところ、糸がまっすぐなところ歪んでいるところ、糸が張っているところたるんだところがある。

 それを自分の心の中の矩尺をまっすぐにしてその糸に当ててみれば相手の心が分かる。

 その矩尺を以ってすれば、円い物も角張ったものも、長いものも短いものも、歪んでいるものもまっすぐなものも知れる。その糸と矩尺が自分にとってどういうものか、つまり相手を分析する方法を自分で探し相手の長所、短所の見抜き方をよく工夫しなさい。

 2つの座標軸、判断基準を同時にもつ

 【やぶにらみ解説】
相当に高度な分析法のようです。相手を知るためには、自分の中に2つの、しかも相反する座標軸をもつべきであると、あるいは、まったく違った判断基準を持つべきであると、武蔵は語っています。「糸」と「かね」はそのことを象徴する言葉として使われています。

 相反する座標軸や判断基準を同時にもつことは、ちょっと考えただけでは邪魔なことのように思われます。しかし、本当にそうでしょうか。たった1つの判断基準をよりどころにしての行動は、正しい結果を生むでしょうか。

 小泉首相は「ぶれない政治家」だと言われています。発言や行動に一貫性があるということでしょう。しかし、彼の一貫性は、矮小な歴史観、国家観と類稀な政局観に支えられているように思われます。彼は、極めて複雑に、複合的に構成されている社会を、多次元の視点でとらえて、判断しているのでしょうか。強い疑問を感じるのは、筆者だけでしょうか。

 社会の変化が激しく、しかもマスメディアによる強制的とも思える世論形成力が強まった現代では、1つの判断基準、1つの座標軸だけでは、自らを支えることはできません。一見して矛盾するような2つの判断基準、2つの座標軸をもつことは、急激に変化する環境に対応するためには有効はことではないでしょうか。

 人間は、2つの目でものを見て、それが何であるか、何処にいて、次に何処に動くのか、判断しています。2つの目があってこそ「遠近」が分かるのです。

 複雑な環境に対応するためには、武蔵の言うように「糸」と「かね」が必要になります。その能力を獲得し、維持することは、現代社会ではますます難しくなってきています。

 【はしやすめコラム・その3】チャールズ・ミンガスの練習方法

 世界的なジャズピアニストにして作・編曲家であり、米国で最も優れたジャズ・オーケストラの指揮者、主宰者であった(このオーケストラは最近解散した)秋吉敏子氏が、NHK教育TV「人間講座・私のジャズ論」(2004年6〜7月放送)の中で、こんな話をしていました。

 ジャズ界の巨人であったチャールズ・ミンガスのコンボでの練習方法について語った内容です。手元にテキストがありますので、その部分を書き写します。NHKのこうした講座ではハプニングやアドリブはあり得ません。放送でも、この通りに秋吉氏は語ったはずです。

 「(19)」60年代にチャールズ・ミンガスのグループにいた時、彼の練習方法というのは、彼が意図しているメロディを彼が歌い、それを私たちがその場で覚えるという方法でした。譜面を読むということは、眼から頭にインフォメーションが行き、それを実際に行うという、一過程を通しての演奏になる。つまり、理性が中間に入ることになります。ですから、私は今でもミンガスの練習方法というのが一番理想的だと思っています」

 C・ミンガスや秋吉氏を含めたメンバーが譜面を読めなかった訳ではありません。彼らは、音楽はもちろん他の分野においても十二分に教養人でした。譜面を使わなかった理由についても、秋吉氏は語っています。眼だけを通して入ってきた情報(インフォメーション)には「理性」が働きます。「理性」は既成概念にとらわれています。ですからC・ミンガスは、彼と彼のメンバーが「理性」にとらわれることなく、曲想を膨らませることを意図して、口移しの練習方法を採用したのでしょう。

 秋吉氏の言うように、「理性」を介してのインフォメーションではなく、「体感」を通して得た能力にこそ本当の価値があるのではないでしょうか。そこからこそ創造性や独創性が生まれるからです。

 現代社会では、秋吉氏の言うように、眼を通して「理性」を介しのインフォメーションから得た能力が幅をきかせています。しかし、それらの能力は、本当に価値のある能力でしょうか。

 人は、自転車の乗り方を、どんなにたくさん座学で学んでも習得できません。物理や力学、運動生理学をいくら学んでも自転車に乗ることはできません。泳ぎ方やスキーやスケートでの滑り方についてもそうです。そうした能力は、「体感」つまり自らの体を使った上での感覚を通してしか、身につけることはできません。

 人にとって最も基本的な動作である、立つこと、歩くことも、「体感」を通してしか身につけることのできない能力です。人は誰でも、赤ちゃんのときに、試行錯誤を繰り返した末に、立つこと、歩くことの能力を身につけます。そして、その方法と能力が、その後における彼の行動の、すべての「出発点」になります。

 (9)兵法における上・中・下の位を知る事

兵法には身構えがある。太刀(剣術)にもいろいろな構えがあり、強く見えたり、速く見える戦い方があるがそれは位で言うならば下段である事を知らなければならない。

 また、兵法にはこまやかで、小手先の技を見せ、テンポよく、派手なようで優れて見えるものがあるが、これは中段である。

上段の位に位置付けられる兵法とは強くもなく、弱くもなく、いかつくもなく、速くも、優れたようでもない。動きが見苦しくなく、「大」にして「直」、「静」に見える兵法こそ上段と言える。今の自分がどうであるのかよく吟味すべきだ。

 「がちんこ勝負」にみてくれは無用

 【やぶにらみ解説】
逆説的なレトリックが鼻につく人がいるかもしれません。一読しただけでは、少し抹香くさい文章です。ひと昔前の道徳家が語ったような臭いがします。しかし、戦いの実践を考えてみれば、納得のいく言葉です。生死をかけた戦いの場では、みてくれのよさなどという「美学」は意味をもちません。

 武蔵が語りたかった文意とは違ってしまうかもしれませんが、この項目から筆者は、格闘技の真剣勝負、つまり「がちんこ勝負」を連想しました。

 ショーアップされたプロレスの試合では、「強く見えたり、速く見える戦い方」は大事なことです。「こまやかで、小手先の技を見せ、テンポよく、派手なようで優れて見える」戦い方は、観客の喝采を浴びます。それらのパフォーマンスはすべて、事前の「設定」があってこそ成立している訳です。

 しかし、「がちんこ勝負」では、みてくれのよさは通用しません。実利がすべてです。もうだいぶ前のことになりますが、アントニオ・猪木とモハメド・アリが東京で対戦した試合を思いだしました。現在流行している「異種格闘技戦」の先がけとなった試合です。

 当時、猪木の戦い方は不評を買いました。パンチ力では圧倒的に劣る猪木は、この試合である戦術を選択したからです。猪木はスタンディングでの戦いを避け、試合中の多くの時間を、背中をマットにつけた姿勢で戦いました。スタンディングの場合も、ローキック攻撃に終始しました。

 観客やメディアの不評を買いましたが、猪木の戦い方は実利にかなったものでした。ボクシング・ヘビー級チャンピョンであるアリのパンチの破壊力は圧倒的です。いくら体を鍛え上げたレスラーでも、あのパンチを一発浴びたらそれで、試合は決まってしまいます。しかも、猪木のあの「あご」ですから、アッパーでもくらったら、それでもうおしまいです。

 ボクサーの能力はパンチに特化していますから、パンチを封じてしまえばレスラーに勝機が見えてきます。この試合は「ドロー」に終わりましたが、肉体的な消耗度は、アリの方がはるかにひどかったはずです。

 武蔵の言葉とは相当ずれてしまったとは思いますが、猪木の選択した戦術は、格好のよさ、みてくれのよさは、「がちんこ勝負」では無用のものであることを示した例になるのではないでしょうか。

 【はしやすめコラム・その2】人間の目の不思議な機能

 人間の目は不思議な機能をもっています。普段は意識しませんが、「複眼」的機能をもっています。

 カメラは、人間の目に合わせるために、次第に複雑な機能を組み込むことになりました。接写、魚眼、標準、望遠と、様々なレンズを取り替えることになりました。しかし、人間の目はそんな面倒な操作は必要ありません。ある一定の範囲内ですが、水晶体の調整と神経細胞の働きによって、カメラのもつ多くの機能を、二つの目で使い分けることができます。

 こうした機能は、人間の目にとっては「序の口」の機能にすぎません。人間の目は、カメラとは違って、同時に二つの機能を使い分けることができます。それが、武蔵の言う「観」の目と「見」の目ではないでしょうか。

 「観」の目、「見」の目とはどういうことでしょうか。車を運転しているときの目の使い方を考えてみてください。車は高速で移動していますから、ある1点を見続けて運転することはできません。いや、そんなことをしたらすぐ事故につながってしまいます。ですから、運転しているときは、視界に入る全体を見ています。どこか1カ所に焦点を合わせるのではなく、進行方向(視界に入る風景全体)を「ながめている」ことになります。

 「ながめている」状態は、意識が散漫になっていることではありません。人間の目は、本能的に「動くもの」に反応します。

 なかでも、想定(予想)以外の動きには、強く反応します。他の動物と同様に、森や草原で生きてきた時代に、危機を察知し獲物を獲得するために見につけた能力でしょう。

 車を運転しているときは、傍目には意識が散漫になっているように見えます。しかし、想定外の動き、歩行者の飛び出しや対向車の予告(ウインカー)なしの右折など、緊急事態には即座に反応します。こうした機能が「観」の目、ではないでしょうか。

 一方、運転中に「案内板」などの文字情報を読み取る際は、目は別の機能を果たします。文字を読み取るために、文字の書かれた範囲内に意識を集中させます。意識を集中させることは、逆に言えば、視界にある他の対象(情報)を消去することになります。

 意識を文字に集中させることによって、文字は判読できますが、その代償として文字以外の視界にある対象は意識から排除されてしまいます。文字情報は、人間がかなり後になって獲得した能力です。ですから、この新しい能力を使うことは、人間の意識にとってはかなりの負担になります。見えていても見えない状態になります。文字情報を判読するといった機能が「見」の目ではないでしょうか。

「見えないものを見ることが詩人の仕事だ」という言葉があります。「観」の目を強くもち、それによって「見」の目では見ることができない世界を言語で表現することができる人間こそ、本来の意味での「詩人」であると言えるのではないでしょうか。

(8)心持の事

 (8)心持の事

 心の持ち様はめらず(めげず、気持ちをくじけさせずに)、駆らず(焦らず)、たくまず(企まず)、おそれず、「直」に(身構えたりせず)心を広く持ちしなさい。

 「意」のこころは軽く、「心」のこころは重く、こころを水のように(乱れなく揺らぎのない水のようにして)、その時々で敵と相対したり、何か突発的で予想外な出来事があったときであろうと対応していきなさい。

 水(こころ)にはへきたん(増減=変化)があり、一滴の水の時(気が沈んでいたり心が狭かったり、不安定な時)もあれば滄海の時(海のように心広く穏やかで冷静で寛容な時)もある。そういった自分の精神状態を常に把握して、その時々の対応の仕方をよく工夫しなさい。

 「意」のこころは軽く、「心」のこころは重く

 【やぶにらみ解説】
体(体勢)と同様に、心(心の持ち様)も、歪まず、偏らず、バランスが取れていることが大事だと、武蔵は語っています。「(4)身の構えの事」と対になるな条項といえるでしょう。

 誰かに、あるいは何かに強くこだわった状態ではではなく、体と同様に心をいつも「センター」におき、いつどんなことが起きても対応できる状態にすべきだということです。

 『「意」のこころは軽く、「心」のこころは重く』は特に重要な言葉です。意思的、分析的な精神状態ではなく、見える対象全体を偏りなく見る精神状態が大事だということです。


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事