成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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01年のコラム

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 日本のスポーツは長く企業と学校が主体となって発展してきた。このため学校を卒業すると、スポーツに接する機会は急激に減る。また、企業に属さない人、企業を離れた人も同様になる。スポーツは企業、学校の枠内に位置付けられ、良くも悪くも「上位組織」に従属してきた。しかし、急激な社会の構造変化により企業も学校も組織の枠内で従来型のスポーツを維持し続けることが難しくなってきた。

 企業は戦後長く続けてきた年功序列、終身雇用型組織の改変を迫られている。学校も少子化や週休2日制の導入はもちろん、学校を構成する最も重要なファクターである学生、生徒の意識変化により、急激な対応を迫られている。企業、学校とも、その組織の閉鎖性が今、厳しく問われている。

 企業と学校を主体に発展してきたため、日本ではスポーツクラブは成熟していない。水泳など企業が運営する一部のクラブを除いて組織は脆弱だ。また、スポーツクラブはほとんど単一競技型であり、同一クラブで多様な競技を選択できることはまずない。クラブに参加する人たちの性、年齢、社会的階層なども大きく偏っている。施設面も不十分で、自由に使える練習場、クラブハウスをもつクラブはほとんどない。スポーツが企業と学校を主体に運営されてきたため、スポーツクラブは、それらを補完するだけの極めて小さな役割しか担っていないのが現状だ。

 学校や大きな企業に属しているか否かにかかわらず、性別、年齢はもちろん、障害者を含めどんな社会的階層にあろうと、スポーツを楽しみたい人にはその機会、「場所」を提供すべきである。文部省が総合型地域スポーツクラブを提唱しいてる。しかし、文部省の「雛型」をそのままの形で地域に持ち込もうとしても、根付くことはないだろう。あくまでその地域の実態に合った、地域の住民が主体となったスポーツクラブをつくる必要がある。

 スポーツは、世界中で最も多くの人が参加できる、人類共通の「財産」である。また、人間の身体を通してそれぞれの能力、個性を表現できる「文化」である。そうした大事な「価値」を、上位組織に従属する形態ではなく、スポーツに関わる人たち自らが創り出す形態に発展させることが必要だ。そのためには地域のスポーツクラブを育て、発展させていかなければならない。(2001年6月30日) 

スポーツクラブの原点

 2000年秋、日本のスポーツ史に長く刻まれるであろう「事件」が相次いでおきた。実業団スポーツ界をリードしてきた新日本製鉄が、会社に所属するスポーツ部のクラブ化を発表。奇しくも同じ日に、女子バレーボールで輝かしい歴史をもつ日立製作所がバレーボール部の廃部を発表した。新日鉄のスポーツ部は、大阪・堺市に拠点をおくバレーボール部や岩手・釜石市のラグビー部などが、地域密着のクラブとして再スタートを切った。陸上競技の分野でも、リクルートランニングクラブの金哲彦監督が、特定企業だけに依存する形態ではない、地域とともに育つ新たなクラブを立ち上げようと奮闘している。

 その一方で、会社の廃部決定の後、移籍先が見つからず、解散を余儀なくされていた日立のバレーボール部が、地域密着のスポーツクラブ「東京ベルフィーユ」として再スタートを目指すことになった。「後ろ向きの決定」をした会社に対し、監督や選手たちは苦難の末に新たな道を見つけようとしている。スポーツクラブの「原点」について、筆者なりに考えてみた。

 ちょっと郊外に出ると見かけるのがゲートボール(クロッケー)場だ。集落に一つは必ずと言っていいほどある。空き地をならして砂を入れ、あるいは芝を張ったりしてコートを整備している。そこで地域のお年寄りたちがボールを打ち、楽しんでいる。今の日本ではどこにでもある光景だろう。

 1999年5月から本紙スポーツ面に書き続けてきた、スポーツコラム「オフサイド」は、今回で最終回となりました。本来ならば3月末に、読者にお別れとお礼の意を込めた最終コラムを書かなければならないところでしたが、忙事にかまけてしまいました。失礼をおわびします。

 コラムを書き始めたきっかけは、実は筆者の「リハビリ」のためでした。記事を書く生活からしばらく遠ざかっていたため、「決まりごと」以外の記事をもう一度書けるかどうか、試してみたくなったのです。しかし、コラムを書き連ねていくうちに、日本のスポーツの置かれている現状、その在り方について、次第に強い疑問を抱くようになりました。その感はさらに強まっています。

 スポーツは本来、最も根元的な「文化」の形態です。音楽や美術、文学などさまざまなジャンルを複合的、有機的に構成して成立する「演劇」と同じ意味においてです。スポーツには演劇と同様に、その中に人間が関わり得るあらゆる「分野]が存在します。最も基本的な陸上・水泳競技、格闘技をはじめ、ボールゲーム(団体・個人)、体操など美的要素の強いもの−等々です。そしてそのステージを見ても、エベレストの頂上から大気中、陸上、海面、海中まで、人間が生活できるほぼすべての環境の中を利用して行われます。

 しかし、日本のスポーツは、プロ野球の圧倒的な人気、サッカー・日本代表の異常なほどの注目度とは裏腹に、極めてきわどい、しかも危機的な状況に陥っています。企業スポーツの存立そのものが問われていることは、根元的には日本の戦後政治、経済、社会そのものが問われているのと同じ意味をもちます。

 書き連ねたいことはまだまだありますが、本紙には似合わないこのコラムを読み続けていただいた、少数の読者へのお礼を最後の言葉として、このコラムを終わらせていただきます。ありがとうございました。

 スポーツコラム「オフサイド」は、若干の加筆、修正を加えて筆者のホームページに収録します。今後は新作もホームページ上で公開する考えです。アドレスは htttp://www.mito.ne.jp/~narita/  です。ご一読ください。(「最後に、感謝の意を込めて」は紙上での「オフサイド」最終回として2001年4月に書きましたが、紙面には掲載されませんでした)

野茂とボンズの対決

 イチローがさっそうとアメリカ・大リーグにデビューした2001年3月末から4月にかけて、あるコラムを書きたいと思っていた。タイトルは決まっていた。「それでも野茂英雄は特別だった」。このコラムは以下の二つの理由によって、書くことができなかった。一つ目の理由は簡単だ。筆者がスポーツ取材関係の業務(デスク)を離れたため、紙面での発表の場を失ったためだ。

 もう一つは、野茂自身の「復活」だった。今年の野茂はシーズン前、多くを期待されていなかった。所属チームはなかなか決まらなかったし、やっと決まったボストン・レッドソックスには、「大リーグを代表する右腕」などという常套句では表現できない絶対的なエースがいる。ペドロ・マルチネスだ。野茂がどう頑張ったって、P・マルチネスを超えることはありえないし、野茂自身の力も衰えてきた。だれもがそう思っていただろう。私もそう思っていた一人だ。まさか今季初登板で、大リーグで自身二度目のノーヒットノーランを達成するとは、夢にも思わなかった。

 野茂は1995年のシーズンから海をわたってアメリカ・大リーグに挑戦の場を求めた。ナショナル・リーグ、ロサンジェルス・ドジャースだ。その前後、日本におけるマスコミの論調(そう言えるとするならばだが)は、耐えがたいものだった。まるで、軍隊用語で言う「敵前逃亡」する兵士のように、野茂を扱った。誰もが試みたこともない挑戦をする若者に対し、日本のマスコミは「敵意」を持っていた。彼が、日本のプロ野球を構成する「ギルド」の破壊者だと本能的に判断した経営側の判断を、無意識的に、あるいは意図的に追随した結果だったのだろう。

 書き損ねたコラムを今、何故書くのか。野茂に関するあるイメージが今も、私の脳裏に焼きついて離れないからだ。きょうはそのことを書こう。

 その年、1995年の野茂は不思議な使われ方をした。野茂は、大リーグで最も安打を打たれない投手だったのではないか。ベンチの信頼がないのか、新参者を大事に扱った結果のなのか分からないが、野茂の投球イニングはだいたい4、5回どまりだった。それだけなら普通の新人先発投手と同じ扱いだろう。だが、被安打はいつも2,3本だった。四死球はその倍はあった。野茂は、ヒットは打たれないが、いつも得点圏に走者をためて投球する、「一風変わった投手」だった。

 その年、最も面白かったのは、野茂とバリー・ボンズ(サンフランシスコ・ジャイアンツ)との対決だった。「走走守」そろった大リーグを代表するスラッガー。今季はオールスター前、驚異的なペースで本塁打を量産している。昨季まで騒がれたマーク・マグワイア、サミー・ソーサを上回るペースで打球をスタンドに放り込んでいる。その対決は何回も野茂の「勝利」に終わった。野茂が重い速球とフォークボールを投げ分ける。そのたびにボンズのバットは「空」を切り刻む。最初は、単純に野茂の快速球に拍手を送った。だが、そのうちに気づいた。何故、ボンズのバットは、何度も何度も空を切るのかと。ボンズほどの才能と身体能力があれば、「対野茂戦略」を立てることは、簡単なことだったろう。だが彼は、そうはしなかった。

 野茂のフォークボールに何度も何度も、ボンズのバットは空を切った。その後、何の悪びれる風情もなくベンチに戻るボンズ。勝利したはずなのに、マウンドに立ちつくす野茂。野茂は大リーグでも一風変わった投手だ。チームの勝利を最優先すると言いながらも、大打者との一球一球、一打席ごとの勝負を楽しんでいる風情がある。ベンチにとっては扱いにくい投手だが、そこがまた野茂の独特の魅力にもなっている。

 あるとき、突然に気づいた。この光景こそ、とてつもないシーンだったのだ。野茂は、彼の全存在をかけてボンズと対決する。それは、新参者として当たり前のことだ。だが、ボンズの矜持は別のところにある。彼は、対野茂用に特別のバッティングスタイルを取ることもできた。たぶん、彼にとっては容易なことだろう。しかし彼は、けしてそうはしなかった。野茂用のスタイルをつくれば、ほかの投手の球を打てなくなるという、打算も十分に込めて判断してのことだろう。そうした判断をした上で打席に立つボンズに、野茂が「必殺のフォークボール」を投じる。ああした光景は、もう二度とは体験できないだろう。(2001年6月28日)

 イチローの大リーグ挑戦に難癖をつけ続けてきた「専門家」たちがあおざめている。彼らは何年も前からイチローの大リーグ挑戦に何かと難癖をつけてきた。いわく、「年間162試合を戦う体力がない」「大リーグの投手の速球に対応できない」「時差を伴う長距離移動に耐えられない」―などだ。多くの専門家、つまりプロ野球解説者たちは、こうした「危惧」や「疑念」を、テレビなどマスメディアを通して流し続けた。

 結果はだれでもが知っている。イチローは、アメリカン・リーグトップを独走するシアトル・マリナーズの一番打者として絶対的な存在となった。前半戦最終盤の時点で彼はリーグの首位打者の位置にあり、オールスター戦もリーグトップで選出されようとしている。しかも彼はオールスター戦の公式プログラムの「表紙」にもなった。新人の彼が、大リーグを代表する選手たち、ケン・グリフィーJr、デレク・ジーター、ペドロ・マルチネス、マイク・ピアザと並んで、オールスター戦の「看板」になった。

 イチローの年収よりは少ないが、年数億円の収入を捨てて大リーグに挑戦した新庄剛志の大リーグ挑戦に、専門家たちは大笑いした。新庄がインターネットで売り出した「赤いフェラーリの一件」は、彼らの格好の侮蔑話のネタになった。彼らが新庄の大リーグ挑戦を無謀と判断した理由は簡単だ。いわく、「日本で二流の結果しか残せなかった打者に、大リーグで活躍できる可能性はない」。

 イチローの目覚しい活躍に、専門家たちは一変して彼の「賞賛者」に変身した。まるで、何年も前から大リーグ挑戦を薦めていたかに思えるほどの言辞で彼を称え、自らの先見性を喧伝している。だれか、彼らのここ数年間の言辞をビデオにまとめてはくれないか。民放テレビでよくやる「珍プレー集」のように。専門家と呼ばれる人たちの無責任さ、いいかげんさが、だれにでもよくわかるだろう。

 イチローの活躍を賞賛せざるを得ない彼らにとって、新庄の活躍はもっと「難物」だった。日本でイチローや野茂英雄のような実績を残さなかった新庄に対し、さすがの彼らもすぐ「賞賛者」に変身できなかった。最近の新庄の故障に、彼らはホット胸をなでおろしているのではないか。

 年配のプロ野球ファンならだれもが知っている大打者がテレビでとんでもないことを言っていたことを思い出した。たぶん、プロ野球選手会の労働組合化と高騰する年棒の問題を話していたと記憶している。彼は、日本では監督の経験はなく、むろん球団の経営にも携わったこともないはずだが、彼の言辞は選手やファンの立場ではなく、まったくと言っていいほど経営側の代弁だった。

 日本の専門家たちは、極めて少数の人たちを除いて、どんな分野においてもいつも「体制派」「守旧派」なのだ。彼らには「経験」しかない。経験しないものは存在しないのだ。自ら「リスク」を背負って戦おうとは、けしてしない。彼らは変革者ではありえない。変革者はこの国ではいつも、素人の側から出てくる。 (2001年6月27日)

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