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死角から飛んできた球はよけられない
野球を長いこと見続けていると、感覚が次第にすれっからしなってしまうようです。相当にエキサイティングなプレーでも、そのプレーを見た瞬間、思わず声をあげてしまうなんてことは、ほとんどなくなってしまいました。
昨年、松井秀喜がスライディングキャッチを試みて、左手の小指を骨折したプレーがありました。あのプレーはNHK・BSの生中継で見ていましたが、「あっ、やっちまったな」と心の中で叫びましたが、声にはなりませんでした。
ファウルボールを追いかけたデレク・ジーターが観客席にダイブして、二枚目の顔を傷だらけにしたプレーでも、声はでませんでした。ナショナルリーグの優勝決定シリーズで、シカゴ・カブスのモーゼス・アルーが応援する側の観客にファウルボールをかすめとられたシーンでも、「なんてこった」とは思いましたが、TVの前でブーイングはしませんでした。
しかし、あのシーンだけは思わず、「あっ」と声をあげてしまいました。井川慶がMLBで初先発した4月8日(日本時間)のヤンキース対オリオールズ戦です。井川にとっては、5回7失点と散々なデビュー戦となった、あのゲームです。
井川の乱調で序盤に大量失点したヤンキーズは、8回裏に3点を還して1点差として9回裏の攻撃を迎えました。
簡単に2死を取られた後、一番打者のロビンソン・カノーが安打で、デレク・ジーターが粘った末に四球で出塁しました。ここで登場したのが、巧打者のボビー・アブレイユです。相手投手はオリオールズのクローザーで、くせ球が持ち味のクロス・レイです。
この場面でレイがとんでもない投球をしました。右投手のレイは左打者のアブレイユに対して、腰を引かせるための布石を打とうとしました。打者の体のそばに向かって(あるいは打者の体に向かって)投球し、そこから大きく右側にスライドする球を投げようとしたのです。
しかし、実際の投球は、レイの意図とはまったく違っていました。投球は打者のさらに左方向に向かって投じられました。アブレイユの立つ位置からさらに1メートル近くも左に向かって投じられたのでした。そのとんでもない投球は、急激に右側に曲がってアブレイユの右膝を直撃しました。
野球でこれほどの「ノーコンピッチャー」は見たことはありません。MLBの投手で、しかもオリオールズのクローザーが、こんな投球をするなんて、考えてもいませんでした。
思わず、TVの前で「あっ」と声をあげてしまいました。10分の1秒、あるいは10分の数秒単位の時間のことです。しかし、この一瞬は長い時間でもありました。その時間を再現すると、筆者はこんなことを考えていました。『おいどこに投げるんだ。やばいぞ。あっ曲がってくる。ぶつかるぞ。とんでもないことになった』
アブレイユの立場になって、この投球を考えてみましょう。レイがくせ球を持ち球にする投手であることは、当然ながら知っていたはずです。しかし、自分の立つ位置から1メートル近くも背中側に投じられた球が自分の膝を直撃するとは考えられないでしょう。
しかも、投手と相対する打者の視覚は極めて狭い範囲に限られてしまします。150キロ前後で微妙に揺れ動く速球、140キロ前後で直前に曲がる変化球に対応するためには、打者の視覚は投球の軌道とその周囲にしか見ることはできません。
アブレイユの視覚では、あの球は投球の直後には視覚から離れてしまったはずです。その球が視覚外から突然に現れて、打者にとって最も重要な部位である膝を直撃する、これほどの恐怖は、他にはないでしょう。
アブレイユが膝を痛めたことを代償に満塁となった場面で登場したのが、ヤンキースの四番打者、アレックス・ロドリゲスでした。MLB最高年俸のこの強打者はヤンキース移籍以来、不名誉な評価を得ていました。
打率、本塁打、打点とも数字は残すのですが、決定的な場面での結果がでていないということです。数字的には彼の下に位置するデレク・ジーターに貢献度では及ばないという評価です。
しかし、この場面でA・ロドリゲスはレイの低めの速球をたたいてバックススクリーンに放り込みました。死角から飛んできた投球が、ヤンキースの新たの「物語」の始まりを告げたように思えます。
ところで、アブレイユの体の強さはどうなっているのでしょう。膝を直撃された直後は、まともには立ち上がれませんでした。一塁ベースには両脇を抱えられて歩いていきました。そんな彼が、次の試合では平気な顔をしてプレーしていました。
死角から飛んできた球に膝を直撃されても、一瞬の体のさばきで身をかわし、衝撃を最小限にとどめたのに違いありません。それくらいのプレーができなめれば、文字通り生き馬の目を抜くようなMLBで、スタープレーヤーとして生き残れないということなのでしょう。(2007年4月11日記)
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