成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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 W杯サッカーで前半戦の最大のニュースは、世界的に見れば優勝候補とされた強豪国の相次ぐ敗退だろう。ジダンのフランス、フィーゴのポルトガル、バチスツゥータのアルゼンチンは一次リーグで消え去った。トッティ、デルピエロのイタリア、ラウルのスペインも決勝トーナメント1回戦、準々決勝で韓国の餌食となった。強豪国の相次ぐ敗退は、審判の「誤審問題」を派生させた。準決勝のドイツ―韓国戦でFIFAは、それまでの慣例を破って、予備審判も含め全審判を欧州人で固めさせた。審判にとっては、史上最もつらいW杯になってしまった。

 しかし、日本国内に限っては、スタジアムの「空席問題」の方がむしろ最大のニュースになった。とうに完売になっていたはずのチケットが大量に余っていた。強豪国同士の試合も、日本戦でさえスタジアムが完全に埋まることはなかった。余ったチケットはどこにいってしまったんだと、日本中が大騒ぎした。

 スタジアムの空席問題は、「事件発生後」に新聞やテレビなで各メディアが大きく取り上げたので、ここでは詳しくは触れない。要するに問題は、日本の組織委員会(JAWOC)がFIFAとチケットを扱ったバイロム社――両者は一体の関係にある――からまともに相手にされなかったことにある。 

 FIFAはW杯前に巨額のスポンサー料とテレビ放映権料を得ている。会場が満杯になろうが、逆に空席だらけになろうが、彼らの懐には関係ない。一方、JAWOCは国内開催地での入場料収入を主な収入源にしている。入場料収入なしにはJAWOCの収支は成り立たない。しかし、JAWOCにはチケットの作製、販売について何の権限もない。正確に言えば、バイロム社から割り当てられた国内販売分を処理する権限しかなかった。通常の商取引や契約関係ではあり得ないことを、JAWOCが認めてしまったことがそもそもの原因だ。

 ところで、空席問題で筆者が関心をもったのは開催地自治体の長、つまり知事や政令指定都市の市長たちの激しい「怒り」だ。日本の初戦、対ベルギー戦の会場になった埼玉スタジアムも満席にならなかった。これに激怒した土屋義彦埼玉県知事は東京のJAWOC本部に怒鳴り込んだ。浅野史郎宮城県知事や桂信雄札幌市長なども、FIFAへの損害賠償の検討を表明するなど、怒りの輪に加わった。JAWOC組織の中心となった旧自治省出身の橋本昌茨城県知事でさえ、「損害賠償ものだ」と不満をあらわにした。組織内部に対してはともかく、日頃から外部に対してはおとなし過ぎるくらいおとなしい、彼らの振る舞いから見れば、極めて珍しい現象だった。

 開催地自治体の知事、市長らの怒りはもっともだ。W杯を誘致し、そのために巨額の税金を使って巨大な競技場を建設し、誘致、開催費用を支出した行政の責任者なのだから。また、地域活性化や地域アピールの機会だとして多くの県民、市民に協力を呼び掛けた責任者でもあるのだから。W杯後は行政の責任者として彼らはFIFAとJAWOCに対し、空席問題の責任をきちんと問わなければならない。知事、市長らの怒りは多くの県民、市民の怒りの代弁でもあるのだから、彼らが沈黙することは許されない。

 それにしても知事や市長たちの怒りは激しかった。彼らの怒りの背景には、これまでメディアが伝えてきたものとは違う何かがある。空席問題の根本にあるのはチケットではない。開催地自治体がつくった巨大なスタジアムだ。収容能力をみると、札幌ドーム42000人、宮城スタジアム49000人、新潟スタジアム42300人、茨城・カシマスタジアム42000人、埼玉スタジアム63000人、横浜国際総合競技場70000人、静岡スタジアム51000人、大阪・長居競技場50000人、神戸ウイングスタジアム42000人、大分総合競技場43000人。新潟、鹿島、大分などの地方都市でも4万人規模をもつ巨大スタジアムが建設された。しかし、こうした巨大スタジアムはW杯後、十分に利用されるのだろうか。将来的に必要とされる規模なのだろうか。

 日本がW杯誘致活動に入ると、各自治体が開催地の名乗りを上げた。しかし、それは日本単独開催が前提だった。単独開催なら6、7試合の開催を見込める。地域振興策、地域アピールを考えて知事たちはそろばんを弾いた。だが、韓国との共催が決まって、試合数は半減した。知事たちも4、5万人規模のスタジアムを希望した訳ではない。FIFAの要求をやむなく受け入れただけだ。各自治体はFIFAの要求を受け入れ、少なくとも100億円以上の巨費を投じてスタジアムの新設・改修工事に入った。FIFAの改修要求を拒否して、開催地を降りたのは広島市だけだった。

 知事や市長たちにとっては、単独開催の6、7試合でも将来の活用法を考えると、スタジアムの建設、改修は大きな賭けだった。共催決定によって試合数は半減したのだから、彼らのリスクは倍増したことになる。W杯後に向け地方のスタジアムの活用法を打ち出した自治体はない。打ち出したくてもそう出来ないのが現実だ。

 茨城県の橋本知事は6月議会・本会議でW杯後のスタジアムの活用法を問われ、「3万人以上(観客が)入る試合を年に何度か見たい」「(コンサートなどについても)積極的に行うかは別として、プランが持ち込まれれば検討する。排除はしない」と答弁した。しかし、「何度か」とか「排除」などという、のんきなことを言っている現状ではない。

 W杯用に新設、改修された巨大なスタジアムは、日本の地方自治体がつくった最後の、最大の「箱物」になるだろう。カシマスタジアムを間近に見ると、それは巨大な原子力空母・エンタープライズを連想させた。広大な台地に浮かぶ、あるいは夜空の下で光輝く巨大空母。こんな巨大な施設を使いこなせる術を、日本の地方自治体は持ち合わせているのだろうか。

日本の地方都市に4万人規模のスタジアムが必要なのか。必要ならその前提になるものは何なのか。W杯後にどう使うのか。彼らには何の算段もなかった。W杯開催自治体の知事、市長たちは、勝算なしに軍隊に行軍命令を発した将軍たちに似ている。彼らにとって唯一の「免罪符」はこうだった。少なくともW杯の試合だけはスタジアムを満杯に出来る。何故ならば、JAWOCがチケットは完売したと公表している。しかし、彼らは当日、会場に来て愕然とした。スタンドには空席がある。しかもまばらにあるのではなく、ゾーンとして巨大な空席の「穴」があちらこちらにある。

 彼らはだまされたと怒った。そして「恐怖」を感じた。W杯後はともかく、W杯の試合だけは、巨大なスタジアムは満杯になる。そう信じていた彼らの「神話」が目の前で崩れたからだ。使い道のない巨大なスタジアムを抱え込んだ彼らの「恐怖」はまだ始まったばかりだ。(2002年6月28日) 

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 2002年の日本・韓国共催ワールドカップサッカー(W杯)で決勝トーナメント進出を果たした日本代表チームが6月19日に解散した。決勝トーナメント1回戦でトルコに0−1で敗れた翌日だった。解散と同時に、1998年のフランスW杯以降、日本代表を指揮したフィリップ・トルシエ監督もその任を離れた。

 この不思議なキャラクターをもつサッカー監督に興味がある。日本にW杯初の1勝、ベスト16進出をもたらした彼の実績は評価されて当然だ。その一方でトルシエは極めて人好きのしない、独善的で猜疑心、嫉妬心の強い人間でもある。そんな彼を無批判に英雄にしてしまった日本人にも興味がある。

 日本の本格的なW杯挑戦は、1993年のJリーグ発足によって始まる。Jリーグ自体が、W杯に出場するため、W杯で勝つためにはプロリーグが不可欠だという動機付けをしている。逆に言えば、日本代表チームがW杯出場をはたし、世界最高のステージで勝利すること、そのことによって日本でのサッカー人気を高めることなしにはリーグの存続はない。そうした認識の上に立ってJリーグは発足した。

 1994年のアメリカW杯。日本はあと一歩のところで出場を逃した。アジア最終予選における「ドーハの悲劇」である。ハンス・オフト監督率いる日本は、ロスタイムの同点ゴールによって希望を失った。今にして思えば、すべては準備不測だった。Jリーグ発足と同じ年に行われたアジア予選の段階では、日本はまだ国際大会で戦う術を知らなかった。

 1998年のフランスW杯。加茂周―岡田武史と続く代表監督の下で日本は、ようやくのことでW杯初出場をはたした。だが、結果は世界の壁の大きさに打ちのめされた。フランスW杯では一次リーグ3戦全敗、勝点0、中山雅史のこすったようなゴールしか、結果を得られなかった。

 完敗したフランスW杯後、日本サッカー協会はある「特別な決断」を下した。フランス人のフィリップ・トルシエに日本代表の指揮を任せたことだった。この選択は、日本サッカー協会にとってさいころを転がすような決断だった。新監督は、サッカー先進国である欧州、南米においてまったく実績がない。彼は活躍の場をアフリカ諸国のクラブ・代表監督に求めた。そこで彼は南アフリカをW杯に出場させるなどの実績を残した。その一方で彼は常にトラブルメーカーだった。

  しかし、同じフランス人のアーセン・ベンゲル(現プレミアリーグ・アーセナル監督)ら実績のある有名監督に就任を断られた日本サッカー協会には、ほかの選択肢はなかったのだろう。あるいはトルシエに関する「素行調査」がずさんだったかもしれない。

 とにもかくにも、フランスW杯から4カ月後、彼は日本代表の監督に就任した。」それから3年8カ月。日本サッカー協会は、彼と愛憎半ばする不思議な「同棲関係」を続けることになった。

 日本代表監督就任直後から彼は、まったくコントロール不能な監督だった。協会の方針ははなから拒否した。そして代表監督に付与された権限以上の権限の取得を要求した。当初は協会幹部との対立の範囲内のことだった。しかし、2000年のシドニー五輪直前、対立は極度に深まった。トルシエを「排除」するか否かで協会は真っ二つに割れた。

 そのころ、トルシエ率いる代表(A代表)は「結果」を得られなかった。テストマッチで勝てなかった。勝手も、明日につながるゲームという納得が得られる内容ではなかった。しかし、22歳以下の代表がシドニー五輪で「奇跡」を起こしたことで、トルシエは彼にとって最大の危機を乗り越えてしまった。ブラジルを破ってしまった。そのときから、彼を引きずりおろそうという勢力は力をもてなくなってしまった。

 ブラジルに勝利した結果を、トルシエは最大限に活用した。代表(候補)選手、協会、選手を供出するJリーグと所属チーム、メディア、スポンサー――。だれも彼をコントロールできなくなった。そのころから彼の権力の肥大化が始まった。もう誰も彼を止めるものはいない。あらゆることが彼の思うがままになった。

 トルシエの特異なキャラクターはW杯本番の1次リーグと決勝トーナメント1回戦(対トルコ戦)に端的に表れた。とくに「契約事項」を達成した後の対トルコ戦では、彼の本質が顕在化した。

 フィリップ・トルシエが日本代表を指揮する最後の試合になった対トルコ戦。W杯決勝トーナメント1回戦だ。この試合、トルシエは何か「よそゆき」の雰囲気を漂わせて競技場に現れた。テレビ中継のアナウンサーが目ざとく指摘した。いつものダークスーツではなく、ライトグレーのスーツだった。

 この試合で日本はトルコに完敗した。数字こそ0―1だったが、日本の見せ場は前半の終盤、サントスのFKだけだった。サントスの蹴ったボールが左のサイドバーとクロスバーの角に当たってはね返って来たとき、試合はもう決まってしまった。試合を通して、トルコは球際で半歩速かった。そして強かった。

 トルシエはこの試合で不思議な采配を見せた。それまで3試合、出番のなかった西沢明訓をFWに起用、サントスとの2トップの布陣を敷いた。それまで練習試合でも試したことのない布陣だった。トルコの強さを認めた上での「奇策」なのか。それとも、トルシエにとってのW杯は、一次リーグ3試合ですでに終わってしまっていたのか。

 日本代表は、特異なキャラクターをもつトルシエ抜きにしては語れない。どんなチームでも監督名を「冠」につけたがる日本のスポーツメディアは、日本代表を「トルシエ・ジャパン」と名付けた。しかし、日本代表は、「ナカタ・ジャパン」でもあった。中心選手でイタリア・セリエA、パルマ所属の中田英寿である。

 チーム内外の全ての権力を掌握しなければ気がすまないトルシエと、血無の中心選手として圧倒的な存在感を示してきた中田英。日本代表には「二人の王様」がいた。日本代表には、他のナショナルチームと戦う一方で、もうひとつの戦い、内なる戦いがあった。「二人の王様」の主導権争い、権力闘争である。

 この戦いは常にトルシエが仕掛けてきた。2001年のコンフェデレーション杯。日本は決勝進出をはたしたが、中田英はトルシエの晴れ舞台を前にイタリアに戻ってしまった。当時所属していたセリエA、ローマのリーグ優勝戦に立ち会うためである。戻っても出番がないことは分かっていた。それまでくすぶり続けていたトルシエと中田英の対立、確執はそのとき頂点に達した。その後しばらく、トルシエは中田英を起用しなかった。そして、中田英抜きの日本代表の構成を公言した。

 日本代表がW杯で決勝進出をはたした最大の要因は、トルシエと中田英がW杯直前になって、突然折り合いをつけたことにある。けして和解したのではない。「二人の王様」は互いの最大目標を達成するために折り合いをつけたのだ。

 それにしても、トルシエは不思議な人物だ。それまで日本人は、彼のような人物とまともに対じした経験はないのではないだろうか。彼は自信家であり誇り高い。だが、同時に狡猾で猜疑心、嫉妬心が強く、独善的、独裁的な人物でもある。それは母国・フランスでその才能を受け入れられず、アフリカ諸国を転々とした彼の経歴と、それによる内面の屈折によるものなのかもしれない。

 トルシエはスター主義の排除、つまりチーム内に特別な選手(スター)はいらないと公言してきた。皮肉にもこの言葉を言い換えれば、自分以上の、自分を超えるスターはいらないと言っているのと同じだ。彼はチーム内のスターを次々と排除してきた。三浦知良、中山雅史、秋田豊たちだ。しかし、中田英だけはその圧倒的な存在感、実績、実力のために排除できなかった。代わりに排除されたのは、中田英より小粒なミニスターだった。中村俊輔である。W杯決勝の会を本拠地とする横浜マリノスのヒーローだった中村にはW杯を前に巨額なスポンサーもついていた。トルシエは中村のスター性を許さなかった。

 彼の屈折した内面は、W杯本番の選手起用にも表れていた。1次リーグ1,2戦で連続ゴールを決めた稲本潤一はなぜ、1次リーグ3戦目と決勝トーナメントのトルコ戦で後半、交代を命じられたのか。柳沢敦、鈴木隆行のアントラーズコンビもトルコ戦では先発しなかった。トルシエの執った戦術により「守備的FW」の役目をになった二人は、ゴールよりも前線でのつぶしを監督から要求されていた。その役目を忠実にはたした結果が、トルコ戦でのスタメン落ちだった。

 トルシエはしかし、最後の最後である「ミス」を犯した。韓国の実力を見切ったと思い込んだことだ。アジア選手権、コンフェデレーション杯とも日本代表は韓国を上回る実績を残していた。W杯での日本のライバルは共同開催国の韓国だ。オランダ人のフース・ヒディンクが4強入りするほど韓国の実力を積み上げていたとは考えなかった。だから、トルコ戦でトルシエは手綱を緩めてしまったのだ。

 日本人はそれでもトルシエを本当の意味では批評しない。英雄は批評の対象にはならない国なのだろう。セネガルを8強に導いたブルーノ・メツ監督の顔を突然、思い出した。同じフランス人ながらまったく違う風貌とキャラクターをもつ監督だ。しかし、日本人にはメツ監督は似合わない。日本人に似つかわしい人物やはりトルシエしかいなかった。(2002年6月26日)

 2002年6月までの4年間――もっと正確に言うと3年8カ月間――、日本と日本人は、それまで遭遇したことのない類の特異な外国人と出会った。そして、愛憎相半ばする関係で彼と付き合い続けるという、これまた特異な体験をした。

 特異な外国人は、平成の時代の「御雇外国人」として、全国的に注目されている、ある巨大組織に招聘されて来日した。彼は、それまでの日本と日本人が体験した「御雇外国人」とはまったく異質なキャラクターをもつ人間だった。

 彼は、彼を招聘した組織とほとんどあらゆる面で対立し、組織との激しい摩擦を引き起こした。組織は何度か彼の「排斥」に動いたが、すべては組織側の失敗に終わった。排斥運動は、彼の「権力」の拡大をもたらすだけだった。

 「御雇外国人」は、彼を雇った側が勝手に設定した、ある目標の達成だけを求められる。言い訳は通用しない。どんなに、雇った側との良好な関係を築いても、結果を達成しなければ、彼は何の逡巡もなく切り捨てられる。

 そのことを彼は、来日前のアフリカでの経験からよく知っていた。彼は、組織との一切の妥協を拒否した。もっと言えば、彼は、彼の独善的、独裁的な考えや行動を組織に押し付け、ついには組織にそれを追認させた。そして彼は、彼に襲いかかってきたすべての危機を乗り越えた。

 彼を雇った組織との間で結んだ最終目標を達成した後、彼はオプション契約を求めなかった。それ以上の仕事は、自らの役目ではないし、自らの利益にもならないと判断した。

 最終目標達成後、彼は意を決した。これ以上の「成功」は彼のためにならない。腹の底では彼を憎みきっている組織を喜ばすばかりだ。喜ばす以上に、組織にはふさわしくない「贈り物」を与えるばかりだと――。

 最終目標達成後の仕事に、彼はちょっと変わったスタイルで現れた。いつもはダークスーツで決めていたのに、その日ばかりはなぜかライトグレーのスーツに身を包んでいた。そして、それまでとはちょっと違った仕事のスタイルを採用した。彼には似つかわしくない、いままで試したことのない、「よそゆき」のスタイルだった。

 日本人がそれまで遭遇したことのない、特異なキャラクターと類まれな才能をもった「御雇外国人」はまもなく日本を去る。彼の「饒舌」と「哲学」に負けない「質問者」が現れない限りは、彼が日本での経験と思索を、真剣に答えることはないだろう。(2002年6月19日)

 スポーツ、なかでも団体球技の監督(ヘッドコーチ)で、選手と同じくユニフォームを身に着けるのは、野球(ベースボール)の監督だけだと思っていた。しかし、アイルランド代表を指揮するミック・マッカーシー監督によって、私の「常識」は覆ってしまった。

 バスケットボールのヘッドコーチはスーツにネクタイ姿でコートの側に立つ。全米プロバスケットボール(NBA)も日本のスーパーリーグも同じだ。日本人にはあまり似合わないが、かつてマイケル・ジョーダンのいたシカゴ・カブスを指揮し、いまはシャキール・オニールやコービー・ブライアントのいるロサンゼルス・レイカーズのヘッドコーチを務めるフィル・ジャクソンのスーツ姿は決まっている。
 
 サッカーもスーツにネクタイ派が主流だ。W杯サッカーでも、ほとんどの監督はそうだ。日本と韓国の蒸し暑さに耐えかねてスーツを脱ぎ捨てた監督もいるが、多くはネクタイだけははずさない。ちょっと変わり者はドイツのルティ・フェラー監督とセネガルのブルーノ・メツ監督だ。フェラー監督はジャケットにノーネクタイ姿だ。長身、長髪のメツ監督はスーツの下に白いTシャツ姿だ。その上着がやたら厚ぼったく見えるのはどうしたことか。そんなに暑ければ上着を脱いでかわりにワイシャツを着ればいいのにと思うのだが。しかしそれが彼のスタイルなのだろう。

 そんな個性的な二人もアイルランドのマッカーシー監督ほど異彩を放ってはいなかった。

 マッカーシー監督は一次リーグの対カメルーン戦、対ドイツ戦で、選手と同じ試合用のパンツをはいて指揮をした。――対サウジアラビア戦は観戦する機会がなかった――パンツばかりではない。シューズもストッキングも選手と同じだった。シャツは上にはおったトレーナーに隠れて見えなかったが、たぶん選手と同じものだっただろう。野球の監督がユニフォームの上にウインドブレーカーを身に付けるようなものだ。

 日本のサッカー監督も今ではスーツにネクタイ派が圧倒的に多くなった。日本リーグ時代は、今年5月に亡くなった宮本征勝氏(鹿島アントラーズ初代監督)のように、トレーニングウエア派が多かったのではないか。しかし、マッカーシー監督のように、選手と同じユニフォームを着て試合の指揮を執る監督はこれまで見たことがない。

 欧米のスポーツは、なぜ監督はスーツにネクタイなのか。野球だけなぜ監督はユニフォームを身に付けるのか。そして、マッカーシー監督だけはユニフォーム姿を通すのか。それとも単なる蒸し暑さ対策なのか。W杯には数え切れないほどの記者が集まっているのだから、その中でだれか、こんな素朴な疑問に答えてくれる記者はいないのか。

 アイルランドは6月15日の決勝リーグ1回戦で、優勝候補の一角であるスペインと対戦した。PK戦にもつれこむ壮絶な消耗戦の末に、アイルランドは敗れた。

 この試合でもマッカーシー監督はユニフォームを身につけていた。しかし、ひとつだけ違いがあった。試合用ではなく、たぶん練習用のパンツをはいていた。主将のロイ・キーンを「追放」して臨んだW杯で、マッカーシー監督率いるアイルランドは驚異的な試合運びを見せてくれた。しかし、最後の最後にPK戦で、3人連続でゴールをはずすという信じられない幕切れになった。

 この試合、マッカーシー監督はなぜ、試合用の、ピッチの選手たちと同じパンツをはかなかったのだろう。(2002年6月17日)

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 日本が決勝トーナメント進出を決めた6月14日の対チェニジュア戦。後半39分、小笠原満男が中田英寿に代わってピッチに立った。この試合のロスタイムは1分だったから、小笠原の出場時間はたった7分間だった。それでも持ち味を発揮するには十分な時間があった。

 得意のスルーパスを出す機会はなかったが、自陣ゴール近くまで相手選手を追い回した直後には、小野伸二のスルーパスに合わせ相手相手ゴール近くに走りこんだ。センターサークル付近からの超ロングシュートも披露した。

 小笠原が出場した時間帯には、選手も監督もスタンドのサポーターも、そしてテレビの生中継に釘付けになっていた人たちも、つまり日本中の人たちが日本の決勝トーナメント進出を確信していた。だから、小笠原のプレーに注目した人は極めて少なかっただろう。

 しかし、小笠原は決勝トーナメントで日本の「秘密兵器」になる。小笠原の「7分間」を見て、そう確信した。いや、確信がさらに強まった。

 日本は中田英中心のチームだ。いや、中田英のチームと言ってもいい。だから、決勝トーナメントでは中田英は徹底マークに遭う。相手チームは確信犯的に「中田英つぶし」を戦術として選択するはずだ。中田英をつぶしてしまえば、あるいは中田英をピッチの外に追い出してしまえば、日本はシステムとして機能しなくなる。相手はそう考えるに違いない。1試合ごとに勝つしかない決勝トーナメントは、1次リーグとはまったく違う戦いになる。中田英に代わってチームを機能させる才能は、小笠原以外にはいない。

 J1・鹿島アントラーズの若き司令塔である小笠原はなぜか日本代表とは縁が薄かった。中田英、小野、中村俊輔の陰に隠れた存在だった。フィリップ・トルシエ監督に「泣きそうな顔をしてプレーする」と揶揄されたこともある。今年初めて日本代表として出場する機会を得たが、見事なパフォーマンスを見せても結果(ゴール、アシスト)がついてこなかった。日本代表の最終選考では人気者の中村と選考枠を争うことになった。

 決勝トーナメントでの小笠原の出場機会は極めて限られたものになるだろう。中田英がつぶされるという、日本にとって最悪の状況での機会しかない。しかし、彼にはそうした最悪の状況を切り開く才能、アイデア、独創性がある。「秘密兵器」の顔見せとして、対チェニジア戦の「7分間」は、ちょうどいい時間だった。(2002年6月15日)

 <後日メモ>予想は外れました。決勝トーナメント1回戦、日本はトルコに完敗しました。小笠原満男の出番はありませんでした。負け惜しみに聞こえるでしょうが、いまではこう考えています。1次リーグ最終戦となった対チェニジア戦で、トルシエ監督が後半39分、中田英寿に代えて小笠原をピッチに入れたことには「意味」があります。日本の、既存のスポーツ文化――もしそんなものがあったとしたらですが――の破壊者であったトルシエ氏は、無言のうちに中田英の「後継者」は誰かということをを、あの交代によって示したのです。

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