成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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02年のコラム

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 社会の一般的な慣習やルールに従えば、ある組織やイベントに多額の資金を投じた出資者や資金提供者は、その組織やイベントに対し特別大きな影響力をもつ。株式会社は大口投資者の意向を無視して経営できない。あらゆるイベントもスポンサー(資金提供者)のの意向を踏まえた上で運営される。
 
 この「法則」は洋の東西を問わない。あるいは今も昔も変わらない普遍性をもつ。スポーツ・イベントも、もちろん例外ではない。1988年のソウル五輪。国際オリンピック委員会(IOC)に多額の放送権料を支払った米国のテレビメディアの意向が、大会運営に大きく反映した。陸上男子100メートル決勝はソウル時間の早朝に行われた。――カール・ルイスとベン・ジョンソンが直接対決したこのレース。世界記録で優勝したベン・ジョンソンはその直後に薬物違反が発覚、金メダルと世界記録を剥奪された――

 早朝開催は100メートル決勝ばかりではなかった。米国で人気の高い競技の多くは、米国の特に東部時間に合わせて設定された。それが多額の放送権料を支払う米国テレビメディアの「条件」でもあった。米国のゴールデンタイムに生中継するため、大会日程を変更させることなど、彼らにとっては当然のビジネスだった。

 日本と韓国の「共催」で行われている2002年のW杯サッカー。スポンサーの意向はどう反映されているのか。あるいは反映されてはいないのか。

 2002年W杯サッカーのスポンサーは直接的には、ワールドワイドの「スポンサー」と、日韓両国のうち各1国だけに限定された「ローカルスポンサー」だ。彼らはW杯を自社製品と自社そのものの宣伝に利用するために、国際サッカー連盟(FIFA)に巨額の資金を提供する。だが、スポンサーは彼らだけではない。

 放送権料を支払う各国のテレビ局も広義で言うとスポンサーになる。日本では、有料放送のスカイパーフェクTVとNHK・民放の共同組織が100億円を超える資金を提供している。これら直接目に見える「スポンサー」とは別に、もうひとつの「スポンサー」がいる。国家(政府)とW杯開催自治体だ。

 直接のスポンサーはともかく、韓国のことも別にして考える。日本においてテレビ局はもちろん国家も地方自治体もFIFAの言いなりになっている。これは先に書いた社会の一般的慣習やルールから言って極めて不自然な現象だ。巨額の投資者や出資者の意向がまったく無視されているのだから。しかも無視された当事者が文句を言うどころかFIFAに対し「おべっか」まで使っている。

 FIFAは日本政府に対し、実質的な免税特権まで獲得している。いまから1年以上も前にFIFAのブラッター会長が来日し、当時の大蔵大臣(宮沢喜一氏)と直談判して得た「成果」だ。W杯開催後に社会的問題になったチケット販売問題を材料にして、宮沢氏とその背後にいる日本の官僚組織を恫喝して、その権益を手に入れた。

 FIFAに対し日本の国家は無力だった。ヨーロッパ主体の、IOCをしのぐ巨大な「スポーツマフィア」としての、FIFAの実態について何の理解もなかったからだ。理解しようともしなかった。彼らには『リスクを背負う』という意識がまったくないのだから、まともな交渉は不可能だった。

 W杯日本組織委員会(JWAOC)は、自治省の官僚とW杯開催自治体職員、そしてISL(スイスの代理店で実質的にFIFAの営業本部だった)の破綻後は有力なFIFA関連企業となった電通職員が中心になって構成されている。FIFAやチケット販売を担当した英国・バイロム社との交渉から、JWAOCはスタジアムの「空席問題」など事前に予測していた。彼らにはそのくらいの情報は入っていたはずだし、そのくらいの分析能力はもっていた。――もしこのことについて彼らが反論するとすれば、彼らは彼らの能力を否定することになる――

  日本のメディアは、少なくともW杯に関しては「批判精神」をまったくと言っていいほど失ってしまった。例をひとつだけ挙げる。5月31日、ソウルで行われた開会式。日本ではNHKが地上波で生中継した。木村拓哉をゲストに呼んだあの番組だ。NHK=日本のテレビメディアは、あの開会式での最も重要な「サイン」を見逃した。FIFAのブラッタ―会長の開会挨拶に対するする、韓国人観衆のブーイングだ。あるいは、見逃したのではなく無視したのかもしれない。

 日本のテレビメディアは巨額の放送権料の代償として本来有すべき「発言権」の代わりに、FIFAへの「追従」を獲得した。韓国人慣習のブーイングに何の反応も示さないのは、メディアの立場を放棄したのと同じことだ。スタジアムの「空席問題」にしても、メディアはJWAOCと同じく、十分にそうした事態が起こりえることを予想できた。

 彼らは時流に流されるだけだった。それにさお差すことなど彼らには思いもよらないことだったのだ。メディアは取材相手に対し、「真相」の告白をせまるが、メディアこそ「自らの真相」を語るべきだ。他の領域とは違って、メディアは告発する「場所」を探す必要がないのだから、決断すればすぐできることだ。返す刀でFIFAと日本政府と、日本政府と自治体の隠れ蓑であるJAWOC実態をされけだしてしまえばいい。だが、それはとてもできないだろう。日本のメディアは、ことW杯に関しては政府やJWAOCと同様に、FIFAに追従する「当事者」になってしまったからだ。(2002年6月12日)

 日韓共催のW杯サッカーは、それまでの日本では考えられなかったような、新たな社会現象を次々と引き起こしている。日本戦がある日は、普段なら若者であふれている映画館やゲームセンターが空っぽになったり、日本戦のハーフタイムの時間だけ水道の使用量が異常に増えたりしていると、メディアが伝えている。日本人がみんな、いつのまにか急に日本代表のサポーターになってしまったんだろう。その中でも、最も興味深い現象は「パブリック・ビュー」への多くの市民の参加、しかも熱烈な参加だろう。

 「パブリック・ビュー」は聞きなれない、『新語』の類に属している言葉だ。メディアは解説もせずにいきなりその言葉を垂れ流している。突然起こった社会現象に対応が追いつかないのだろう。新聞には解釈(能書き説明)がないので、インターネットで調べてみた。言葉の『定義』は見つからなかった。定義などまだない言葉のようだ。要するにこういうことだと理解した。

国際サッカー連盟(FIFA)の承認を得てW杯日本組織委員会(JAWOC)が国内開催自治体などと共同で試合開催地とは別の会場で実施する、大型画面によるテレビ生中継だ。最大の会場が東京・国立競技場だ。各開催地ではJリーグが開催される競技場や体育館、コンサートホールなどを会場に提供している。多額の税金を使ったJAWOCと開催自治体が、「金銭亡者」のFIFAに頼み込んで実施にこぎつけたイベントだろう。

 6月9日夜の日本―ロシア戦では、試合会場の横浜国際競技場を66000人の大観衆が埋め尽くした。しかしそれは事前に予想された範囲内の出来事だ。予想をはるかに超えたのは、各地の「パブリック・ビュー」会場の観衆だった。国立競技場では50000人がテレビ画面に熱狂した。国立競技場がテレビ画面を通した『間接的会場』として満杯になることなど、だれが想像できただろうか。埼玉・駒場競技場では入場をめぐって「事件」まで起きた。筆者の住む茨城でも、取手競輪場に3000人、ひたちなか市の総合運動公園体育館に2500人が集まったと、地元メディアは伝えている。

 6月9日夜は、北海道から九州まで恐らく何十万人という市民が『間接開催地』である各地の競技場や体育館に集い、『直接開催地』である横浜国際競技場の雰囲気を『共有』した。個人や家族、少数の仲間とではなく、少なくとも何千人単位の人たちとともに横浜国際競技場の臨場感を共有した人たちが何十万人単位で生まれた。そんなことは、これまで日本にはなかった。

 スポーツは、もともと試合会場に足を運んだ人たちだけが見ることができた。だが、テレビの登場によって極めて多くの『間接的観衆』を獲得した。しかし、間接的観衆の多くはは競技場にいる『直接的観衆』とは違った道をたどることになる。彼らは孤立して観戦する。プロ野球の日本シリーズなどでは、少数の仲間と馴染みの居酒屋で観戦したり、最近ではスポーツバーで見ず知らずの他人とともに観戦したりする機会もできたが、どちらにしても競技場の雰囲気を『疑似体験』できるほどの場所ではない。

 メディアを通すことによって、スポーツ観戦はその機会を増やしたが、そのことによって逆にスポーツ観戦は個人の『孤立した楽しみ』の場に変質してきた。ひと昔前、サラリーマンのお父さんたちの楽しみは、会社から帰宅後、ビールを片手にプロ野球の巨人戦を見ることだった。息子や娘が野球好きだったなら、彼らは恵まれた人たちだ。多くは野球には無関心なかみさんや子どもたちに、「いいかげんにして、バラエティー番組にチャンネルを回して―」などと、悪態をつかれながらチャンネル権を死守ってきた。

 「パブリック・ビュー」的な観戦方法はは日本に定着するのか。あるいは2002年W杯サッカー限りの一過性のものなのか。それは分からない。定着すれば、日本のスポーツ観戦のあり様を大きくかえるだろう。一過性だとしても、全国各地であれだけ多くの市民が『疑似体験』を共有したことは、何らかの変化を日本人と日本の文化に起こすに違いない。仮に有料化すれば大きなビジネスチャンスも生み出す。「パブリック・ビュー」は、それを企画したJAWOCや開催自治体の思惑とは別に、一人歩きをする可能性がある。(2002年6月10日) 
 

 この国の社会では、『子どもの遊び』という言葉ほど蔑みの意味をもって使われる言葉はない。いわく、「あいつのやっていることは、子どもの遊びに過ぎない」、「それは子どもの遊びのような幼稚な仕事だ」――等々だ。

 極度に固定化された社会の枠組みの中に生き、しかもそのことに何の疑問も感じない。そういう生活を続ける「大人たち」から見れば、それはそうなのだろう。

 だが、そうした「制度」を打ち破る力は、「子どもの遊び」がもっている。いや、「子どもの遊び」の心を大人になっても捨てきれない、極めて少数の「風変わりな大人たち」だけがもっている。

 いまや日本の社会制度は完全に行き詰まった。政治や経済や文化も、それらを次世代に受け継ぐ教育もそうである。政治は国民の信頼を失い、経済は危機的状況が続くばかりだ。文化は独自性を失い、米国流の「コピー文化」になり下がった。この国を支えてきた官僚制度は崩壊しようとしている。

 こうした、この国の惨状は、「変えることを阻み続けた」制度による。成功体験が極度に固定化され、それに反旗を掲げることは許されなかった。

 日本がいまのような「袋小路」に陥ったまま身動きもできないままでいることは、「子どもの心」をもった人たちを排除し、育てなかったからだ。彼らに生きる場を与えなかったからだ。その結果そうなった。

 子どもの遊びの特徴は、その自由性、独創性、発展性にある。子どもたちを観察する機会があれば、あるいは自らの幼児期や少年(少女)期を振り返ってみれば、誰でも気づくはずだ。(2002年12月14日)

  この子どこの子こ猫の子

この子どこの子
こ猫の子
この子はこ猫
どこの子のこ猫

この子はこ猫
猫の子のこ猫
小猫の子

あんぐり
あんぐれ
あんぐりい

この子がこ猫をつれてきた

この子はこ猫
猫の子のこ猫
この子どこの子
こ猫の子

あんぐり
あんぐれ
あんぐりい

この子がこ猫をつれてきた

あんぐり
あんぐれ
あんぐりい

この子がこ猫をつれてきた
  (2002年12月5日)

イラクで戦争が始まる

イラクで間もなく戦争が始まる。

国連による査察は、イラクの『武装解除』とほとんど同じ意味をもつ。
戦争は今も昔も一面では情報戦である。
現代の戦争は、目に見える武器よりも、その裏面で武器を動かす情報戦の要素が極度に高まっている。

どんなに優れた武器をもっていたとしても、その武器に関する情報が暴かれてしまえば、武器の威力は半減どころか、極小にさえなってしまう。
だから、イラクが国連による査察を全面的に受け入れることなど考えられない。
査察の全面受け入れは軍隊を丸裸にしてしまうからだ。
イラクのような独裁、かつ軍事国家が自らの意思で自国の軍隊を実質的に解体してしまうなどということはあり得ない。

イラクは査察の意味をよく知っている。
国連に要求して査察を行わせる、唯一の超大国・米国も当然、そのことは織り込み済みである。

イラクで間もなく 戦争が始まる。
(2002年12月1日)

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