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人は何故、プールで泳ぐことができるのか。何故人は、プールで泳ごうとするのか。こんな問いを発すれば、一笑にふされるか、なんとばかなことをと、軽べつされるのが落ちだ。プールは人が泳ぐためにつくられたものだから、そこで泳ぐことは当たり前のことだ。生真面目な人は苦笑しながらもそう答えるだろう。しかし、先の問いは笑われるか軽べつされるしかない「愚問」なのだろうか。
学校プールや公営プールがなかったころ、30、40年前の子どもたちは、身近にある水の中で遊び、泳いだ。川であれ、湖であれ、海であれ、彼らの水泳場はプールとはまったく違った環境条件をもっていた。流れや、波、風など違い多くあるが、最も違うのは背が立たないことだ。泳ぎ始める所では背は立つが、少し泳ぎ出せば、水深は子どもたちの背丈をはるかに越えた。背が立つ所で泳ぎたくてもそんな場所は見つけられなかった。
当時の子どもたちにとって、泳ぐこと自体が冒険であり、常に「恐怖心」が付きまとっていた。技術の未熟さや不注意、慢心は溺れることに直結した。だから、親や学校は子どもたちだけで泳ぐことを禁止した。あるいは川や湖、海がすぐそこにあっても、泳ぐことそのものを禁止した。しかし、そんな「法律」に従う子どもたちはほとんどいなかった。戦後の高度経済成長期前後だったあの当時、子どもたちの泳ぎに付き合ってくれるほど暇をもてあました大人などどこにもいなかった。
たとえそんな大人がいたとしても、当時の子どもたちは大人の「監視下」での泳ぎなど楽しまなかっただろう。水辺は子どもたちにとって、大人たちから独立して存在する「特別な楽園」だった。溺れることの危険性、つまり「死の恐怖」でさえ、水辺で遊ぶこと、泳ぐことの魅力には勝てなかった。いや、そうした恐怖こそ魅力を倍加させた。
いまの子どもたちは小学校に入る前から、母親に連れられてプールに通う。小学校低学年や就学前の子どもたちにとって、あるいは彼らの母親にとって最も人気のある「習い事」は水泳だ。子どもたちは自然の中ではなく、完全に密封された人工的空間(温水プール)で、大人たち(水泳指導者)の管理下で遊ぶことから泳ぐことまでを学ぶ。母親たちはガラス越しにわが子の水泳体験を見守る。
子どもたちにとって水泳は、昔と今ではまったくの「別物」になってしまった。大人たちの目の届かない、秘密の楽園で「禁断の実」を食べるような「喜び」は消え、逆に大人たちが推奨する、最も健全で健康的な「学習」の場になってしまった。子どもたちの「遊び」が「倒立」してしまったことは、何も水泳に限ったことではないのだが――。
ここからは重い自閉症の障害をもつ、ヒロ君の「ちょんちょん泳ぎ」について書く。
彼の独自の泳法に触れる前に、彼と彼の障害について少し語らなければならないだろう。自閉症は不思議な病気である。これだけ科学と医学が発達した現在でも、この病気のメカニズムはほとんど解明されていない。胎児期から幼児期にかけての、脳の発達障害に原因があるとされているが、要するに現代科学と医学の知識では何も分かってはいない。
ヒロ君の場合は言語機能に強い障害を負った。十数年かけて彼が身につけた「単語」は十数語に過ぎない。それが彼のもつ「言葉」のすべてである。彼はその十数語と彼の「表情」によって意思を伝達する。そして、最も重い障害は「他者」の不存在である。あるいは「他者」が極めて希薄にしか存在しないことである。このため彼には競争心が決定的に欠けている。競争心と裏腹の関係にある協調心も彼にはとっては無意味である。
この春に高等擁護学校を卒業、民間作業所に通うヒロ君は、水が大好きである。水辺で遊ぶことはもちろん、川、湖、海であれ、そこが人工のプールであっても、泳ぐことが大好きである。水の中に浸っていること自体が、彼にとって幸福感に満ちた時間のようだ。
ヒロ君の泳法は彼独特のものだ。誰に教わったわけでもなく、自分でおぼえたものだからだ。幼児期には健常児と一緒に水泳教室のプールに入ったが、どんなに優秀なコーチでも彼に泳ぎを教えることはできなかった。
ヒロ君は海で遊んでいるうちに泳ぎをおぼえた。水が大好きな彼は真冬でもない限り、海に行くとすぐ水に入ってしまう。付添い人がちょっと目を離したすきに、いや、目をきった瞬間に彼は背の立たないくらいの深さまで行ってしまう。そこで自然に立ち泳ぎを覚えた。そして移動のために体をやや前傾させる。そうして、変形の平泳ぎを覚えた。それからもぐり、潜水を始めた。抜き手やクロールには興味を示さなかった。覚える必要のない泳法と判断したようだった。
夏の海に入ると、ヒロ君は1時間は泳いでいる。もっと正確に言うと立ち泳ぎと変形の平泳ぎで浮いているか、極めてゆっくりとしたスピードで移動している。1時間といったのは、それが付添い人の体力と忍耐力の限界だということだ。放っておいたら、いつまで海に入っているか分からない。
最近、困ったことが起きてきた。ヒロ君はプールではまともに泳がなくなったことだ。付添い人の体力と忍耐力が弱まったことで、海に行く機会は減った。その代わりにプールに行く。夏場の屋外プール以外は公営の温水プールに行く。公営の温水プールはどこも水深が浅い。泳ぐより水中ウオーキングに最適な水深のプールまである。障害者専用プールは幼児用に近い水深だから、そこは彼の泳ぐ場所ではない。
そうした浅い水深のプールでは、ヒロ君は「完全な泳ぎ」をしなくなってしまった。泳ぐことを勝手に定義すれはこうなるだろう。体の全体を水面か水中において移動することだ。体の一部でも水底に触れさせては泳ぐことにはならないだろう。しかし、浅い水深のプールでは、体の一部を水底に触れさせて移動する。プールでも立ち泳ぎを変形させたような平泳ぎで移動するのだが、キックのたびに左右の足の、親指の先を交互に、プールの底に触れる。それが、ヒロ君の「ちょんちょん泳ぎ」だ。力や重心を指先にかけているわけではない。軽くリズムをとるように指先でプールの底をたたいている。
ヒロ君にはその泳法が「ルール違反」などという意識はまったくないのだから、修正は不可能だ。彼はたぶん、こう考えているのだろう。水深の浅いプールでは親指の先を底に突いたほうが楽だし、移動のスピードも速い。付添い人はなぜ、あんなにしつこく親指を突くなと騒いでいるのだろう。付添い人も僕の真似をすればもっと楽に泳げるのに――。
ヒロ君に「完全な泳ぎ」をさせるには背の立たないほど深い水深のプールが必要だ。しかし、そんなプールはどこにも見当たらない。大人たちは平泳ぎをすれば膝が底についてしまうほど浅いプールの中で懸命に泳いでいる。水泳教室の時間帯では、母親に付き添われてやってきた子どもたちが、大人たちに命令されるままに遊び、泳ぎ続けている。その方が、ヒロ君にとっては不思議なことなのだろう。(2002年9月11日)
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