成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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02年のコラム

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 スポーツと「道具」は不可分の関係にある。あらゆスポーツは、それぞれ「比重」の違いこそあれ、道具なしには存立できない。そして、道具と技術の進化が連動し、さらにそれらが一体化することによって、スポーツは「進化」、あるいは「分化」していく。

 五輪の競技で考えれば、夏季のメーン競技である陸上、水泳は、裸で競技するものだった。

 古代ギリシャのオリンピックでは、競技者は裸、裸足で競技した。裸、裸足で競技することはは公正である証であるとともに、その方が競技する上で有利だったからだ。

 近代スポーツの陸上では、競技者はシャツとパンツを身にまとい、スパイクシューズを履く。シャツとパンツは近代ヨーロッパの価値観の表れでもあるが、スパイクシューズは明確に目的達成のための手段、つまり道具である。

 ローマ五輪のマラソンで、ビキラ・アベベは裸足で走ったが、東京ではシューズを履き、世界最高記録で五輪2連覇を達成した。

 ロードレースにおけるシューズ以上に重要なのは、陸上競技場内で使用されるスパークシューズだろう。

 シドニー五輪のころ、市川昆監督の名作記録映画「東京オリンピック」をテレビで見た。印象的なシーンに、男子100メートルがある。米国のボブ・ヘイズが10秒0で優勝した。手動計時で行われた最後の五輪だった。市川監督は執拗に競技者のアップを追う。スタートの瞬間、スパイクシューズがトラックを蹴る。削り取られた土が空中に舞う。東京五輪当時、陸上競技場のトラックは、土を固めてできていた。

 トラックはその後、急速に進化する。記録を伸ばすために、土に変わって新たな素材の使用が試みられた。そして、いまの高速トラックが完成したのだろう。

 スパイクシューズもそれに連動して進化してきた。カール・ルイスが超軽量のスパイクシューズにこだわったように、自動計時のもと、100分の1秒を争う競技者たちは、スパイクシューズにも、自らと同じくぎりぎりの可能性を求める。

 陸上短距離は、道具(スパイクシューズ)と競技環境(トラック、これも広い意味で道具といえる)の進化と自動計時の採用によって、技術が進化し、それらが連動して記録を伸ばしてきた。

 水泳の場合、「道具」は逆の意味をもっていた。水着を道具と考えてみると、水着を着けるより裸で泳ぐほうが水の抵抗が少ない。水着はマイナス要因だった。だから、競技者と技術者はマイナス要因を蹴らすための改良を加えてきた。人の体に比べて抵抗の大きい水着の面積を減らす努力を続けてきた。

 しかし、その方向性はアトランタ五輪で終わった。シドニー五輪前、日本のメーカーが革命的な水着を開発した。サメ肌水着だ。人の肌より水の抵抗の少ないこの水着は、それまでの技術の方向性を一変させた。いや、技術を逆方向に向かわせた。水着の面積は大きいほうがいい。全身を覆う水着が誕生した。

 夏季スポーツの話が長くなってしまったが、このへんで冬季スポーツに話を移す。冬季スポーツでは道具の比重が夏季スポーツより高くなる。それはそうだろう。冬季スポーツの舞台は雪と氷の世界だ。人は裸では、裸足ではその舞台に立つことさえできないからだ。

 冬季スポーツにおける主な道具はスキーとスケートだ。ほかに「そり」もあるが、これはスキーとスケートの変種と考えていい。―人の移動とともに、彼の運ぶ荷物の量と移動時間が長くなれば、そりが必要になってくる―

 スキーは競技化されるにつれ、急斜面を滑走するためのアルペン用、より平地に近い所を走る(歩く)ためのノルディック用に分化。ノルディック用は距離用とジャンプ用にさらに枝分かれした。最近はフリースタイル用も生まれた。

 スキーは競技用とは別の分化も進んだ。山スキー用、テレマーク用、それに雪の野山を散策するためのの道具も―。人はそれぞれの目的によって道具をどんどん進化、あるいは分化させていく。

 スケートも競技目的によってスピードスケート用、フィギア用、ホッケー用、ショートトラック用と細分化してきた。

 そのうちスピードスケート用について考える。細部の改良、変更は数多くあっただろうが、基本的な構造と道具に対する概念は長く変わらなかった。それが突然、1988年に開催された長野五輪の直前になって大きく変わった。

 スラップスケートの誕生だ。この革命的な道具の変化は、屋根つきの高速リンクの誕生と連動して、スピードスケートという長い伝統のある競技自体を大きく変化させることになる。(2002年2月19日)

 五輪の公式競技に選ばれるほどのメジャーな競技の中で、ここ10年ほどの間に、競技をめぐる環境、道具、技術とも急激に変化したスポーツは、スピードスケートをおいてほかにないだろう。

 これらの急激な変化は、極東のスケート小国にひとりのスーパーヒーローを生み出した。その一方で、彼の僚友であった世界的なトップ選手を一瞬にして奈落の底に突き落とした。変化に対応できずに突き落とされた多くの者たちの中で、スケート大国のひとりは4年後に劇的な復活をはたすが、スーパーヒーローの僚友の復活は、ついに見果てぬ夢と消えた。

 競技をめぐる環境変化とはスケートリンクのことだ。自然の風が吹き、雪が降り、ときに雪が降り積もる天然リンクが、屋内リンクに変わった。カルガリー、長野、ソルトレイク―。屋根と壁によって人工的な気象条件を備えることになった屋内施設は、それと連動する製氷技術の進歩とあいまって、リンクの極度の高速化を進めた。

 屋内リンクの誕生以来、スピードスケートの世界最高記録は、いまではカルガリーやソルトレイクなどの屋内リンクでしか誕生しなくなった。―余談だが、長野のMウェーブはいかにも日本的なことに、中途半端な高速リンクになってしまった。世界最速のリンクにすることは可能だったのだが、役人が変に介在してしまったからだ―

 道具の変化は、1998年に開催された長野五輪の直前に起きた。スラップスケートの誕生と、その使用が競技団体によって公式に認められたことだ。

 スラップスケートは、スピードスケート界にとって革命的な道具の改良だった。だが、スキー愛好家でアルペンとノルディック双方を楽しむ人たちにとっては、その効果、効用は簡単に理解できるものだ。

 スラップスケート以前のノーマルスケートは、いわばアルペンスキーだ。アルペンではスキー板と靴はつま先とかかと部分がビンディングによって固定される。急斜面をスキー板のエッジを使って滑り降りるためには、スキー板と靴とをしっかりと固定することが必要だからだ。

 一方、ノルディックではスキー板と靴とはつま先部分だけで固定されている。かかと部分は自由(ヒールフリー)だ。かかと部分を動かすことによって、歩くときに近い状態でスキー板を滑らせることができる。―スラップスケートは、靴のかかと部分とスキー板をつなぐバネがついているから、ノルディックでもジャンプ用に近いものだろう―

 スピードスケートは、スラップスケートの採用によって新たな時代を迎えた。歩くように、走るように、足首を自由に使える。そのことによってもっと長い時間、氷を押さえつけることができる。この道具の採用によって氷上をそれまでより速く移動できるようになったのだ。

 技術の変化は、素人には当然、うまく説明はできない。だが、これだけ短期間のうちに競技をめぐる環境と道具が変化すれば、技術が変わるのは当たり前のことだろう。素人には想像もつかない技術上の変化が進み続けている。

 長野五輪の男子500メートル。当時、「3強」と呼ばれていたのは、日本の清水宏保、堀井学、カナダのジェレミー・ウォザースプーンだった。

 結果は、高速リンクとスラップスケート、そしてそれらに技術的にいち早く対応した清水が優勝、ウォザ―スプーンが準優勝した。対応の遅れた堀井は13位と惨敗した。

 今にして思えば、堀井の気持ちがよく分かる。3強の中でも職人肌の堀井は、ノーマルスケートと最もマッチングしていたのだろう。自分のイメージ、感覚、筋肉の指令を的確に氷に伝えるノーマルスケートを棄て去ることに躊躇した。その躊躇が長野での決定的な敗因となった。

 どう考えても、科学的に分析してもスラップスケートの方が上回る。ほかの選手もスラップスケートを履く。堀井も決断したが、もう長野には間に合わなかった。

 長野から4年後のソルトレイク五輪。スポーツの神さまは不思議な舞台を用意していた。男子500メートル。清水の最大のライバル、ウォーザースプーンは初日、5歩目で転倒した。極度の腰痛をおして出場した世界記録保持者・清水は米国の伏兵、ケーシー・フィッランドルフに100分の3秒差で敗れた。
 神さまのいたずらはなお続く。男子1000メートル。スラップスケートへの対応が遅れたため、長野への出場がならなかった、スケート大国・オランダのへラント・ファンフェルデが世界記録で優勝をさらってしまった。

 極度の腰痛の清水は1000メートルにはエントリーしなかった。500メートルでこけたウォザ―スプーンは気負いのためか自分のレースができずに下位に沈んだ。復活にかけた堀井は、500メートルに続き1000メートルでも惨敗した。

 スピードスケート・短距離を代表した「3強」は長野、ソルトレイクとたどりながら、違う道を歩き始めた。(2002年2月19日)

 2002年冬季五輪、ソルトレイク五輪が始まった。競技初日のスキー・フリースタイル、女子モーグルで里谷多英選手が銅メダルを獲得、日本は幸先良いスタートを切った。上村愛子選手もメダルに値する滑りだったと素人ながら思うが、6位入賞に終わったのは採点競技のあやなのだろう。上村選手は競技後、採点への不満を口にしなかった。2大会連続のメダリストになった里谷選手の笑顔もよかったが、一見、「飛んでる女の子」風(もう死語ですか)の上村選手の態度も立派だった。スキー・モーグル、ジャンプ(複合)、スピードスケート―と、テレビで五輪中継をなんとなく見ているうちに、変な思いが頭をよぎった。いつもそうなのだが、生来の天邪鬼なので、つまらないことばかり考えてしまう。
         □
 ほとんどあらゆるスポーツは、ある一定の「進化の法則」に従っている。その競技が高度化するにつれ、「屋外競技」から「屋内競技」化する。
 競技が高度化する。つまり競技スタイルや技術、戦術が成熟するにつれその競技の人気が高まる。逆に人気が高まるにつれスタイルや技術、戦術が成熟する。その相互作用の中で人気はさらに高まる。そうなると、その競技は必然的に巨大なビジネスに組み込まれてゆく。そして、発生当初は、広い意味での「アウトドア・スポーツ」だったスポーツは、いやおうなくインドア、屋内競技化していく。

 今では室内競技の代表的存在となったバスケットボール、バレーボールも屋外競技だった。アメリカの都市でよく見られるストリートバスケットは、発生当初のなごりのようなものだ。日本では屋外競技のイメージのまったくないボウリングにしても、庭の芝生の上でボールを転がし、ピンを倒す遊びから始まった。

 スポーツの屋内競技化はいまや、加速度的に進んでいる。野球(ベースボール)まで屋内競技化している。巨大なドーム球場で行われる野球は、厳密にいえば屋外競技とはいえない。サッカーにしてもそうだ。3月に開幕するJリーグでは、札幌ドームがコンサドーレ札幌のホームスタジアムになる。

 トラックアンドフィールドと呼ばれる陸上競技も、インドア陸上の開催が当たり前のこととなった。川や海をステージにして始まった水泳にしても、いまやほとんど屋内競技になった。五輪や世界選手権など国際大会はもちろん、主要な国内大会はすべて屋内プールで開催される。屋根なしのプールで行われるのはローカル大会だけだろう。

 ソルトレイク五輪が開幕したが、屋内競技化は冬季競技にも及んでいる。スキーやスケートなど冬季競技は、人間にとって最も困難な自然条件の一つである雪や氷を逆に楽しもうと北欧で始まったものだ。屋外で行うことが当然、その前提だった。

 スケートの屋内競技化はずっと前から始まっている。フィギアスケート、アイスホッケーが屋内で行われることは、もう当たり前のことだ。だが、スピードスケートの屋内化は簡単には進まなかった。

スピードスケートのコースに屋根がついたのは、そんなに昔のことではない。たぶん、カルガリー(カナダ)あたりからだろう。屋根がついたことで気象条件に左右されなくなったことと、それと連動した製氷技術の発達で、スピードスケートは大きく変わった。

 サラエボ五輪でのスピードスケートを思い出す。そのころはスケートコースの上に屋根はかかっていなかった。司会開始時間を変更して行われた男子500メートルは猛烈な吹雪でコース上に雪が積もってしまうという悪条件だった。金メダルを期待された黒岩彰はこの悪条件に泣き、伏兵の北沢欣也が銀メダルを獲得した。こうした番狂わせは、スピードスケートが屋内競技化したいまでは起こらないだろう。

 代わって、屋内競技化したことで競技の高速化はさらに進む。自然条件を克服するための荒々しさは消え、選手はより精密機械のような正確さが要求されてくる。

 スポーツが屋内競技化するのには、ある前提がいる。冒頭にも書いたが、その競技の人気とともに発生するビジネス化だ。どんな競技であろうと、その競技が経済的メリット、つまり利益を生み出さなければ、屋内競技化は進まない。野球のドーム球場は、プロ野球の人気とそれがもたらす経済利益なしには誕生しなかった。
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 スピードスケートの屋内競技化も、サマランチ前IOC会長のもとで五輪が巨大ビジネスに組み込まれた、いや五輪そのものが巨大ビジネスそのものになったことから実現した。
 だが、巨大ビジネス化したスポーツからは、何かとても大切なものが削ぎ落とされていくのではないか。スピードスケートから自然条件を克服するという側面が失われてしまったことは、そのいい例だろう。(2002年2月10日)

 2002年FIFAワールドカップ(W杯)サッカーのMVPにドイツのGK、オリバー・カーンが選出された。決勝戦でカーンの強固な「城壁」をぶち壊した、ブラジルのストライカー、ロナウドではなかった。

 MVPはW杯を取材するために世界中からやってきたサッカー記者たちの投票で選ばれる。彼らは何故、ブラジルを5度目の優勝に導いた立役者であり、決勝戦で2ゴールを挙げ、大会得点王に輝き、しかも前回フランス大会の屈辱から復活を遂げたロナウドではなく、決勝戦でロナウドにたたきのめされたカーンを選んだのか。

 それはたぶん、「天才」への驚嘆よりも、圧倒的な戦力に立ち向かう、並外れた精神的パワーをもつ男への共感が上回ったためだろう。カーンはまた、何とも不思議な魅力をもつ男でもある。彼のキャリアや人柄など知らなくても、その風貌とプレースタイルによって見る人をひきつけてしまう。彼への知識は、彼を見るうえでむしろ邪魔になってしまうと思えてしまう。

 こんな不思議な魅力をもつGKは、かつてエリック・カントナ(フランス)とともにイングランド・プレミアリーグのマンチェスターユナイテッドでプレーした、ピーター・シュマイケル(デンマーク)くらいしか思いつかない。

 それでもやはり、大会MVPはロナウドがふさわしい。カーンは素晴らしかったが、決勝戦でロナウドにたたきのめされたことには変わりはない。カーンはむしろ、「ベストパフォーマンス賞」にふさわしい男だ。そんな賞があればの話だが――。

 大会MVPチームはもちろんブラジルだ。だれも異存はないだろう。では、カーンの例にならってベストパフォーマンスチームを選ぶとしたら、どのチームがふさわしいのか。

 私は何の躊躇もなく韓国チームを挙げたい。それまで半世紀近くも成し遂げられなかった初勝利を挙げ、一次リーグを突破し、決勝トーナメントでイタリア、スペインに勝利した。その戦績はもちろん高く評価する。しかし、受賞対象は、そのこととは別の次元のパフォーマンスに対してである。

 今大会で韓国ほど大会中に変貌したチームはない。選手、監督、サポーター、そしてW杯における広義のサポーターである国民も変わった。さらにそれらの相互関係も変わった。

 いい悪いはともかく、W杯は最もナショナリズムが高揚されるスポーツの場である。W杯と並ぶスポーツの巨大イベントである五輪も、実態はともかく建て前は個人と個人の戦いに立脚している。W杯にはそんな建て前は存在しない。国家対国家、あるいは国民対国民の戦いとして、大会は展開される。

 今大会期間中、最もナショナリズムをむき出しにした国のひとつは、間違いなく共同開催国である韓国だろう。韓国のスタジアムを真っ赤に染めたサポーターの群れは、『大韓民国』の連呼を片時もやめなかった。スタジアム内ばかりではない。ソウル市庁舎前をはじめ、全国の各都市の広場は、真っ赤なTシャツと絶叫で埋まった。

 韓国のナショナリズムは、一次リーグの対米国戦で象徴的なシーンを演出した。同点ゴールの直後、韓国の選手たちは列をつくって「スケートダンス」のパフォーマンスを披露した。ほんの数カ月前、米国ソルトレイクシティーで開催された冬季五輪で、韓国の国民は米国によって男子ショートトラックの金メダルを不当にも略奪されたと確信している。

 ソルトレイク冬季五輪における超大国、米国のナショナリズムには辟易した。弱小国のナショナリズムには精一杯背伸びしようとする姿勢、いわば心意気がある。しかし、アルカイダによる同時多発テロの後とはいえ、唯一の超大国がなりふりかまわずにナショナリズムに走る姿には異様なものがあった。偏狭なナショナリズムを超えよと世界に説教してきた超大国が、偏狭なナショナリズムの道を突っ走ったのが、ソルトレイク冬季五輪における米国の姿だった。

 そんな前提があっての韓国選手たちの「スケートダンス」だった。競技場のサポーターも、街頭の市民も選手たちのパフォーマンスに熱狂的な支持を送った。韓国のナショナリズムがある種の頂点に達した瞬間でもあった。

 それは韓国が極めて厄介の問題を抱え込んだことでもある。しかし、今大会で韓国は幾重もの幸運によってナショナリズムの危うさを乗り越えた。

 準決勝でドイツに敗れたあとの3位決定戦。相手はトルコだった。試合は2−3で韓国が敗れた。その直後に、それまでのW杯ではけっして見られなかった光景がテレビ画面に映し出された。韓国とトルコの選手が一列になって、しかも手をつないでスタンドに歩み寄ってきた。そして、つないだ手を大きく高々と天に差し出した。韓国、トルコの選手たちのパフォーマンスにスタンドを埋めた真っ赤なサポーターたちが大歓声でこたえた。

 このパフォーマンスは、先に少し触れたように幾重もの幸運によってもたらされた。W杯で勝てなかった国が3位決定戦にまで進んだ。ライバルの日本はとうに敗退している。しかも、選手と監督、サポーター、国民との関係が極めて良好だった。代表監督のヒデリンクはすでに英雄になっていた。

 日本のメディアは、3位決定戦の試合終了直後に起きた、この特別なパフォーマンスを見逃した。メディアは論評どころか事実関係さえほとんど報じなかった。あるいは、同じ日に発生した韓国、北朝鮮両海軍の銃撃戦に目を奪われたのかもしれない。

 今大会の中で、最もナショナリズムに燃えたチームである韓国が、その最終戦で偏狭なナショナリズムを超えた。それは幾重もの幸運がもたらした一瞬の幻かもしれない。しかし、幻でもいい。ナショナリズムを超える道は、ナショナリズムを避けることではなく、ナショナリズムと正面から対じする以外にはないからだ。人類の未来につながる幻なら、つまらない真実なんかよりずっと価値がある。(2002年7月3日)

 試合終了のホイッスルが鳴った。彼は、それまで彼の領分であったゴールポストの中で、ボトルから一口、二口とゆっくり水を飲んだ。そして、力なくボトルをゴールネットに向かって放り投げた。しばらくたって、彼はメーンスタンド側のゴールポストに背をもたせかけた。長い時間がたったのかもしれない。あるいはほんの少しの時間、そうしていただけかもしれない。彼の僚友が何人か彼に近づいた。彼の体にそっと触り、何ごとか彼にささやいた。

 彼に僚友たちの言葉は聞こえたのか。あるいは聞こえなかったのか。たぶん、彼は僚友たちの言葉は聞いた。しかし、意味を持つ音声、つまり「言語」としては、彼は何も理解しなかった。彼はポストに背をもたせかけたまま静かに沈み込んでいった。力尽きて崩れ落ちたのかもしれない。彼はまだ、焦点の定まらない目で、どこか遠くのものを見ていた。それが何だったのかは、彼自身にしても、もはや分からないだろう。

 2002年6月30日夜。小雨の横浜国際総合競技場は満員だった。ブラジル―ドイツ戦、31日間にわたって開催された日本、韓国共済W杯サッカーの決勝戦だ。天才『3R』を擁したブラジルが、GK、オリバー・カーンのドイツを打ち砕いた直後の光景だった。

 決勝戦を放送したNHK総合テレビは試合終了後、当然ながら勝者であるブラジルに焦点を当てた。この試合で2ゴールを挙げたロナウド、絶妙のアシスト役を果たしたリバウド、奔放にピッチを走り回ったロナウジーニョらを丹念に映し出していた。カーンの映像は断片的だった。だから、先の模写は中継映像とその後のニュース映像を勝手につなぎ合わせたものにすぎない。

 ブラジル『3R』は、誰が見てもとてつもない『天才』たちだ。円熟期に達した栄光の『10番』を背負う『左足の魔術師』、リバウド。ペナルティーエリア内で信じられないほどのスピードと能力、アイデアを発揮するロナウド。草原に棲む狼少年がボールと戯れているようなロナウジーニョ。

――ロナウジーニョについては、特別な感慨をもった。事実上の優勝決定戦といわれた対イングランド戦のある場面だ。右サイドからのFKをループ気味に決めた直後にレッドカードを受けた。そのときの対応だ。彼は必死に主審に抗議する。テレビ画面はそのシーンを大写しにする。彼は必死に抗議しているのだが、そうは映らない。彼の抗議は笑っているようにしか見えない。ペレの再来ともいわれるこの天才は、プレーを離れたその瞬間から22歳の、そこらへんにいる「あんちゃん」に変貌するのだ。逆に言えば、そこらへんにいる「あんちゃん」がプレーを始めていた瞬間から、とんでもない『超人』に変身する。彼の、近い将来の栄光と挫折はこの短いシーンに凝縮されている――

 彼らの鋭い牙を封じ込めてきたカーンがついに崩れた。リバウドの中央からの強烈なシュートをカーンが弾いた。いつもの彼なら、弾いたとしてもボールは彼の守備範囲にあったはずだ。だが、そのときだけは、ボールは彼からほんの少し離れてしまった。そこのロナウドが走り込んできた。そしてすべてが終わってしまった。

 試合終了後、ボトルの水を飲み、ポストに背をもたせかけ、そして静かに沈み込んでいったカーンの心情を考える。

 彼は何も考えなかったはずだ。いや、そのときあらゆる想念が彼の頭の中で駆け回っていたはずだ。だが、それらはすべて言葉にはならない。彼は、言葉にならない世界、言葉が成立しない世界に、そのときそこに在った。僚友たちの慰めや感謝の言葉は、そのときそこに在った彼には、理解できないメッセージだった。

 しかしカーンは、そのときそこに存在していることに、不思議な『幸福感』を得ていたはずだ。(2002年7月2日)


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