成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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 ■顧問・指導者は「参考書」、団体役員は「黒子」であるべき  匿名

(高校で実習助手をしている「匿名」さんからのメールです。個別のコラムへの感想、意見ではなく、高校スポーツ・部活動の指導者である顧問、つまり先生たちの「生態」が、当事者の立場から生々しく書かれています)

私は4年前に会社を退職し、現在は地元高校で実習助手として働いています。(但し臨時です)

主に、1年前から高校で必修教科となった「情報」の支援と生徒指導、学校司書なる名目で図書館業務にも携わっています。部活動では、郷土文化系の文化部(第1顧問)と陸上競技部(第3顧問)を担当しています。

同じ学校で過去、水泳部の第2顧問だった時期もあります。当時を振り返り、そして現在の状況と照らし合わせると、陸連・水連に関する記事に「なるほど」と思わされます。

私の場合、あくまで「県高体連○○部△△支部」「△△陸上競技協会」のレベルでしか分かりませんが、当地においては「水泳はドライ、陸上は浪花節」という印象を持っています。

水泳では、他校顧問との上下関係・横のつながりは殆どありません。選手経験者や、自分の専門分野(保健体育教員)として牛耳っている人はいますが、顧問の殆どは選手歴がありません。しかし、試合だけに現れる御年寄り(大会名誉会長)だけは、閉会宣言の前にマイクで「かつて強豪だった○○高校が来ていない!」など、的外れな演説でご意見番ぶりを発揮しています。これは参加校の関係者、選手に対する「侮辱」にも聴こえます。この人、地元CATVのインタビューでも似たようなことを仰っていました。

試合会場でも、ソフトなやり取りが中心でした。地区において、我々以前の世代では高校水泳の選手層が薄かったこともあり、顧問になって初めて水泳と向き合った人が大半です。

県大会レベルの遠征においても、行動は終始「学校単位」で、試合会場の外で他校との交流(例えば飲みに呼び出される)はありませんでした。

初心者が多く、周囲に気を遣うことも無い。本校で水泳部は、「楽に対応できる体育部」として毎年、面倒くさがりな教員からの希望が殺到します。

一方の陸上ですが、顧問のほとんどが「高校・大学、陸上一筋」で来られた人です。陸上歴が「中学どまり」の私には、場違いな印象を持たされます。それでも、若手(社会人歴8年の私は30代で転職したので年下の専門家が多 い)には謙虚な人が多く、「何でも聞いてください」と好意的です。

但し、40代以上は「親分肌」の人が増えます。例えば地区の大会。事前に学校へ依頼文書が来ますが、その中に「前日に準備作業を行いますので来てください」という文言が必ずあります。しかし実際に準備に赴くと、実際の準備は現地高校の部員、中堅クラスの指導者たちが準備の一切を進めています。私も最初は手伝っていたのですが足手まといになりがちで、今は「持ち帰りが必要な資料の確認」にとどめています。

改めて周囲を見ると「雑談」だけの人も多く、親分たちは時折別室から陣中見舞いに現れます。誰が来ているか、どの学校が来ているかチェックしているようです。

宿泊を伴う遠征をする場合、親分クラスの先生から「呼び出し」が必ずあります。「天ざる大盛り」で満腹になった後、居酒屋に呼び出されたことがあります・・・。

また部員に対しては第1顧問から、「前回の試合の事で、◎◎先生から応援態度を注意された。気をつけておけ!」なる指導が出ることもあり、専門家クラスになると「他校顧問の顔色」さえ気にしているようです。

部員たちが純粋に競技に打ち込もうとする一方で、専門家顧問は「自分が他校 の批判にさらされないよう」部員に釘を刺し、親分顧問たちはそれらの顧問や部員たちが、自分たちの価値観に合った行動をしているかチェックする。

中学時代、試合結果を顧問から認められることなく、高校進学後は陸上を捨てた私ですが、20年ぶりに関わることになったとき、「本当は高校でも続けたかった」ことに気づかされました。同時に、この世界が「純粋に競技に打ち込むことが出来る世界ではない」こと にも気づかされました。

水泳も陸上も、学校の部活動です。教育の範疇で行われる活動、競技の前に 「人間形成」が最優先です。 しかしそれを口実に、部員たちの「もっと速く・もっと高く・もっと遠くへ」という素朴な欲求を、それらに純粋に応えてやろうとする顧問たちの熱意を奪い取ってしまうことには、理解できません。

私は、顧問・指導者は「参考書」、団体役員は「黒子」だと思います。スポーツ・部活動は、「権力誇示」の場であってはならないと、常に考えています。(2004年10月19日)

 日本人をすべて「夜型人間」にしてしまったようなアテネ五輪が終わった。新聞の紙面を埋め尽くし、TVの放送時間枠をほぼ独占した「アテネフィーバー」もやっと終わった。1964年の東京五輪と同数の金メダル16個を獲得したのだから、日本中がアテネ五輪に夢中になったのも当然のことだった。

 スポーツの最高の舞台である五輪は、人々の想像力と創造力を強く刺激する。これからは、アテネ五輪にインスピレーションを受けた「創作物」が様々な分野で生まれてくるだろう。

 アテネ五輪は、筆者の脳みその奥底に眠っていた古い記憶を呼び覚ました。中学時代の記憶だ。古い記憶は、こんな「物語」となって脳みその表層に再び浮かび上がってきた。

 ■革命的技法「背面跳び」の誕生

 1968年のメキシコ五輪で陸上競技に「革命」が起きた。走り高跳びにおける「背面跳び」の誕生だ。この奇妙な跳び方――当時はだれもがそう思った――を見て驚いた記憶がある。

 米国の大学生、ディック・フォズベリーは自ら考案したこの跳び方で、メキシコの金メダリストになった。超人的な体格と筋肉をもつ有力選手に比べ、彼は普通のジャンパーに見えた。だが彼は五輪新で優勝した。彼の革命的な跳び方の勝利だった。

 1990年代に男子走り高跳びは黄金期を迎えた。北欧の貴公子と呼ばれたパトリック・ショーベリ(スウェーデン)と褐色の肉体美を誇ったバビエル・ソトマヨル(キューバ)の両雄が競い合って世界記録を塗り替えてきたからだ。

 彼らの跳び方はむろん背面跳びだ。フォズベリーがメキシコで成功して以来、それまで主流だった正面跳び、ロールオーバー、ベリーロールを試みる競技者はいなくなった。

 ■独創的な跳び方は唯一のルール違反

 ここで話は突然、筆者の古い記憶に移る。中学生だったから、東京五輪とメキシコ五輪の間の記憶だ。

 運動神経は抜群にいいのだが、背の低い友人がいた。彼は体操が得意だった。放課後だか休み時間だか忘れたが彼は突然、それまで見たこともない走り高跳びの技を披露した。

 彼の技は今も記憶の片隅に残っている。バーの正面から走り込んできて両足で踏み切り、体操のあん馬のように頭からバーを跳び越え1回転して着地する。背が高く運動神経に自信のあった友人たちは、いたくプライドを傷つけられた。背の低い友人が彼らの記録を軽く超えてしまったからだ。

 それから仲間たちは彼の跳び方に夢中になった。それもしばらくの間だけだった。

 体育大学を出た先生が彼の独創的な跳び方を禁止した。当時の中学校の走り高跳びは砂場の前にバーを置いただけだったから、彼の跳び方では危険きわまりない。それ以上に決定的な「宣告」が先生からあった。

 今思い出せば、こんな内容だった。

 走り高跳びのルールは、競技者が片足で踏み切らなければならないという以外には何の制約もない。だから、両足で踏み切るのは唯一のルール違反だ。

 友人と仲間たちの独創的な走り高跳びの技法はそれで終わった。

 フォズベリーがメキシコで革命的な走り高跳びの技法を披露する前に、日本の田舎の片隅にも、とびっきり素敵な冒険を試みた少年がいた。(2004年9月11日記)

 アテネ五輪の陸上・女子棒高跳びで、4メートル91の世界記録を樹立して金メダルを獲得した、エレーナ・イシンバエワ(ロシア)の集中力のすごさ、もっと正確に言えば、集中力を高める方法のすごさに驚かされた。

 女子棒高跳びは4年前のシドニーから五輪の正式種目になった。1984年のロス大会から正式に採用された女子マラソンと同様に、これから人気の高まる可能性の大きい種目である。

 女子棒高跳び決勝はイシンバエワと、彼女のライバルである同じロシアの選手、スベトラーナ・フェオファイワとの一騎打ちになった。メーン会場である五輪スタジアムを埋めた5万人の前で、重力に逆らう高さへの挑戦が、2人の間で繰り広げられた。

 ひと昔前なら、「目から火花が飛び散る戦い」と表現される激しい勝負になった。しかし、イシンバエワは目から火花など散らさなかった。ライバルとは視線さえ合わさなかったからである。

 それどころか、イシンバエワはライバルの存在自体を無視していた。いや、意識的にライバルの存在を排除していた。

自分の試技が終わるたびにイシンバエワは、棒高跳びが行われるゾーンの脇にあるベンチに、試合場から完全に背を向けて座り込んだ。そればかりか、大きなバスタオルを頭からかぶってしまう。これでは、ライバルの試技を見たくたって見られない。

 人には目にするものに「伝染」してしまう性質がある。人はまた、目線の方向に移動する性質をもつ。自動車事故に遭遇する(しそうになる)際、人は目線の方向にハンドルを切ってしまう。目線の方向を避けようとしても、実際にはそうしてしまう。

 イシンバエワはライバルの試技を見ないことによって、彼女の心と体がライバルに引きずり込まれることを、徹底的に回避したのである。

 この行為は、言うは易く行うは難い行為である。五輪の決勝。金メダルは彼女か彼女のライバルが獲得する状況にある。巨大なスタンドを埋め尽くした観客が、彼女と彼女のライバルを見つめている。TVを通しては、世界中で何億もの人々が注視している。

 そうした極限状況の中でライバルの存在を無視することは、至難の技である。だからこそ、彼女は試技の行われる場所とは反対の方向に座り込んで、しかも頭からタオルをかぶって、彼女のライバルに向かおうとする意識をおしとどめていたのである。

 彼女は試合後、メディアに対してこう語っていた。今後は1センチずつ世界記録を更新していく。旧ソ連の英雄、男子棒高跳びのセルゲイ・ブブカ(ウクライナ)と同じやり方で競技生活を続けると宣言した。

 ソ連崩壊の時代に競技生活をしていたブブカは、国家から得られなくなった支援のかわりに、1センチずつ世界記録を更新し続けることで世界中のメディアの注目を集め、そのことによってスポンサーから資金を得てきた。

 彼女もブブカと同じ道を選択した。そして、言葉の通り、五輪閉幕直後の9月3日、ブリュセルでの競技会で1センチだけ世界記録を更新した。競技場に背を向けて座り込み、頭からタオルをかぶって集中する姿は、その会場では見られなかっただろう。彼女は既に「競技ビジネス」の中で生きることを選択したからである。

 イシンバエワの、競技場に背を向けてタオルを頭からかぶって座り込む姿は、アテネをライブで見た人だけの「特権」になった。極限状況での集中方法は、スポンサーの意向には添わないし、アテネ総集編のハイライトシーンでもカットされてしまうからである。(2004年9月11日記)

 野口みずきが金メダルを獲得したアテネ五輪のマラソンほど過酷な「レース設定」(コースと開催時期の設定)はない。

 マラトンの丘から第1回五輪会場のパナシナイコ競技場へと続く高度差200メートルもある起伏の激しいコースは、確かに難コースだが、世界にはアテネ以上に難しいコースはあるだろう。スタート時35度という暑さにしても、高橋尚子が独走した1998年のバンコク・アジア大会は、高温に加えて湿度が極めて高かったから、体に感じる暑さに関してはアテネ以上の過酷さだった。

 アテネの過酷さは、難コースと暑さ、それに4年に一度しかない、世界一を決める五輪レースであることが、複合的に組み合わされて生まれたものである。

 その過酷さは、ゴール後の選手の姿に表れていた。野口を終盤に猛追して2位でゴールしたキャサリン・ヌデレバ(ケニア)は、ゴール直後にトラックに倒れ込んで、胃の内容物を白い糸状に吐き出した。このシーンを国際映像のTVカメラがはっきりと映しだしていた。後半に追い上げて3位に入ったディーナ・カスター(米国)も嘔吐したと実況中継のアナウンサーは伝えている。

 野口もレース後のインタビューで「私ももどした」と答えている。ゴール直後に、TVカメラの死角になるような位置にしゃがみ込んで水を飲む姿は、もどした後の映像だったのだろう。

 野口はやはりレース後のインタビューで、何度も振り返っていたが、2位の選手を確認できていたのかと尋ねられて、分からなかったと答えている。最終盤には10秒ほどの差まで追い詰めてきた選手を、通常なら振り返れば確認できるはずである。しかも、世界記録保持者のポーラ・ラドクリフ(英国)とともに、レース前に最もマークしていた前世界記録保持者のヌデレバなのだから。野口を追いかけることができる有力選手の中で、長身で細身の黒人選手は彼女しかいない。

 それでも野口は分からなかったと答えている。勝者の野口が嘘を言う理由はない。本当に確認できなかったのだろう。それほどまでに体力を消耗し、意識が朦朧とした中で、野口は優勝のゴールを切ったのだ。

 ちょうど36キロ地点でリタイアしたラドクリフについては、TV解説の有森裕子氏が競技者の視点でユニークな心理分析をしていた。有森氏はこう見る。

 ラドクリフがちょうど36キロ地点でリタイアしたのは、彼女がゴールではなく36キロを「目標」に走っていたからだ。ラドクリフはそれ以前に、既に心身に大きなダメージを受けており、何とか36キロ地点までは走り続けようと心に決めていたのだ。目標に到達した時点で、もはや限界を超えていた彼女の心と体は、走ることを拒絶したという訳である。五輪も含めて国際大会の経験豊かな有森氏らしい分析だった。

 このレースでは出場82選手のうち、ラドクリフやシドニー五輪銀メダルのリディア・シモン(ルーマニア)ら有力選手を含む16人がリタイアした。完走した選手、リタイアした選手にも、この過酷なレースは、大きなダメージを与えた。ダメージは選手の足裏や筋肉、足首や膝の関節だけではない。選手の内臓にも大きな負担を強いた。レース直後の「嘔吐」シーンは、選手の受けたダメージの大きさを象徴するものである。

 スポーツは本来、過酷なものである。スポーツは危険と隣り合わせの文化だともいえる。格闘技や格闘技的性格の強いラグビーなどの球技では、生命の危険すらある。「美」を採点基準にする体操にしても、鉄棒からの落下は、選手生命を危うくする大けがにつながる。

 スポーツは本来、危険なものである。スポーツは本質的に危険を内在しているともいえる。スポーツから危険を完全には排除できない。そうすると、スポーツは成り立たなくなるからである。だから競技者や大会主催者、競技団体は、スポーツの本質を損なわない範囲で、スポーツから危険を取り除こうとしている。

 アテネのマラソンの過酷さとそれに伴う危険性は、スポーツに本質的に内在する回避不可能な危険性とは違う種類のものである。関係者が回避しようと努めれば、回避できる危険性であるからである。

 IOCや国際陸連、アテネ五輪委員会は、2004年にアテネで五輪を開催すると決めた際に、「アプリオリ」的に、マラソンコースはマラトンの丘からパナシナイコ競技場へ続くコースと決めたはずである。108年ぶりにアテネに帰ってくる五輪のマラソンコースは、古代オリンピックを象徴するあのコースしかあり得なかった。しかも、開催時期は観光シーズンの8月と決めた。

 出場選手のダメージを避け、健康管理を考えれば、8月にあのコースで五輪マラソンを開催することは「最悪の選択肢」である。しかし、IOCなどはこの最悪の選択肢を敢えて選択した。TVで世界中に生中継されることを前提とした、現在の巨大化、商業化した五輪では、最悪の選択肢しか彼らには選択の余地はなかった。

 IOCや国際陸連、スポーツ医学の関係者は、過酷なコースで過酷な時期に開催されたこのレースをどう考えているのだろうか。あれでいいと考えているのだろうか。

 ゴール直後に倒れ込んで「嘔吐」した選手たちの姿は、国際映像で放送されたから、世界中で何億人、いやもっと多くの子供たちが見ただろう。あの映像は流すべきではなかった。いや、生中継だからそれはできない話である。ならば、選手たちがゴール後に「嘔吐」しないような「レース設定」を組むべきである。そうしないと、五輪は過酷で危険なだけの「怪物」として、未来を担う子供たちの脳裏に焼き付けてしまうことになる。(2004年8月25日記) 

 日本代表への「バッシング」の嵐が吹き荒れたサッカー・アジア杯。日本のマスメディアは、中国人観客の観戦態度を「ブーイング」と呼んでいたが、それは違う。

 ブーイングには相手チーム・選手への何がしかの敬意が含まれている。メジャーリーグでは、イチローやA・ロッド(アレックス・ロドリゲス)は敵地で激しいブーイングを浴びるが、敵意だけが込められている訳ではない。

 しかし、アジア杯での中国人観客の観戦態度は、日本たたきとしか言いようのないものだった。ドーピング(禁止薬物使用)とともに、現代スポーツを蝕む病根である、偏狭でむき出しのナショナリズムが噴出した。

 中国代表との決勝前日(8月6日)の記者会見で、日本代表・ジーコ監督が名言をはいた。中国人記者の挑発的質問「中国には幸運は三度続かないということわざがあるが―」に答えた言葉である。

 中国人記者の言う「幸運」は、準々決勝・ヨルダン戦での奇跡的なPK戦の勝利、準決勝・バーレーン戦での退場者をだした上での延長戦の勝利を指している。日本は既に「幸運」を使い果たしてしまった。だから、決勝戦では中国には勝てない、という意味が込められていた。

 ジーコ監督は苦虫をかみつぶしたような、何とも不快そうな表情でこう答えていた。

「ここまで勝ってきたのが幸運とは思わない。勝つべくして勝った。コイントスの場合は裏表を当てるのは幸運だが、サッカーでは幸運と言われるものを得るためには練習を積んでいなくてはならない。幸運を呼び寄せるものも大きなものだ」

 ジーコ監督はこう言いたかったのである。日本は幸運で勝ったのではない。しかし、運を味方につける能力も、チームや選手にとって実力のうちである。運を呼び込めないチームに勝利はない。しかし、日本は運を呼び込むだけの準備を積んできた。

 W杯や五輪といった大きな国際大会では、どんな試合内容であるかよりも、勝つこと、勝ち続けることが重要になる。

 PK戦で勝とうが、延長戦のロスタイムで決勝点を挙げようが、あるいは前後半とも相手チームを圧倒して勝とうが、勝ちは勝ちである。1勝の価値に変わりはない。

 見栄えのする試合展開、見てくれのよい派手なプレーは、大きな大会ではそれほど重要な要素ではない。逆にそうした展開やプレーは、当然ながらそれに見合った大きなリスクを伴うものだから、危険でさえある。

 PK戦での勝利では、川口能活の神がかり的なスーパーセーブばかりに注目が集まったが、より重要な局面はその前にあった。中村俊輔、サントスが連続して失敗した直後、主将の宮本恒靖が主審にピッチの状態が悪すぎるとクレームを付けたことである。

 あのクレームがなかったら、主審がPK戦を行うゴールを変更することはなかっただろう。チームにとってぎりぎりの状況で主審にクレームをつけるという、宮本の瞬時の判断と行動が、日本代表を土壇場で生き返らせたのである。

 負ければ後のない国際大会では、強い者が勝つとは限らない。勝った者が強いのである。勝つ意志をより強くもった者が勝つのである。そして、勝ち続けることによってさらに強くなる。

 アテネ五輪が始まった。女子サッカーでは日本代表が強豪・スウェーデンを下して初戦を突破した。スコアは1―0。TV観戦者の多くは、もっと点を奪ってもいい試合だと考えただろう。しかし、あれでいい。五輪本番、しかも初戦だからである。

 女子とは対照的に、男子サッカーは初戦でパラグアイに敗れた。しかし、嘆くことはない。同じグループの試合でイタリアとガーナが引き分けたからである。可能性のある限りは、最大限の知恵とエネルギーを使って、勝利するという強い意志をもって戦い続ければいい。

 ジーコ監督の言うように、幸運を呼び寄せることも実力の範疇に入る能力だからである。(2004年8月14日記)


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