成田好三のスポーツコラム・オフサイド

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04年のコラム

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 ■スポーツ界の反省のなさに驚き  TARO

 数十年前からこの種のことは時々聞いていましたが、いまだに実情は同じなんですね。スポーツ界の反省のなさに驚きます。野球とかサッカーなどのもっと有名なスポーツではさらにひどいことが続いているのでは? と思わずにはいられません。

 ■部員全体が監督のマインドコントロールに  yosihiro

 このような問題は中学にも及んでいます。そして、バレーボールの監督のようなやり方を支えているのまさに父兄でもあるのです。もう15年以上も前、私の娘が中学のテニス部に在籍していた時のことでした。テニス部の監督が、放課後の練習後、夜7時に親に送ってもらってまた学校に出てくるように指示がありました。そして9時半まで練習をするのです。地区別のPTAで、中学生のような体力が完成していない者に、このようなやり方は健全ではないと意見を述べたところ、教頭は「部活については各々の部の監督に一任していますから、監督と話し合ってください」といって逃げます。

 そして驚いたことに、同じテニス部員の親から、先生だって疲れているのをおして練習をしてくれているのにそんなことを言うのは失礼だとの意見がまかり通り、それがいやなら部をやめたらいいとまで言われました。熱が出たため練習を休むと監督に伝えると、「ああ、休め、休め。その代わりレギュラーから落ちても知らんからな」といわれ、娘は親の忠告を振り切って練習に行っていたことを思い出します。夏に帰宅して、高熱が出て、嘔吐を繰り返し、熱中症の一歩手前までいったこともありました。

 高校に入ってやっと、この馬鹿げたやり方を娘は客観的に批判することができるようになりましたが、中学時代はまさに部員全体が監督のマインドコントロールにかかってしまっていたようでした。たまりかねて辞めていく友人が友達を失っていくのを見て、残ったものはますます監督の言うことを聞かざるを得ないという状況でした。また教師は教師で自分の部が地域でよい成績をおさめなければ、教師としての存在価値が学校で認められないという、哀れな存在でもあるのです。成長過程にある青少年が、楽しみながら、心身の健康増進のためにスポーツを行うという、本来の目的が見失われてしまっているのです。春・夏の高校野球の華麗なマスコミ報道の影にも、昔の一種のファッショ的な狂信が隠されているようないやな気がしてなりません。

 ■教育優先が基本  elee

 高校生バレー児のあこがれの舞台を「春・高(しゅんこう)バレー」と呼び、我が児の高校のバレー部も県大会でいい所までいき、代表を狙っていました。我が家の年子の2人の子供は野球部で当然「甲子園」をめざしているのですが、違う高校なので、兄弟対決もあり親としてはどっちに応援に行くかなどさまざまな悩みもありました。

 3年間2人の対照的な監督を見てきて思う事は、筆者の言われる高校レベルでの「育成」と「勝利への意思」がどちらも「教育」が優先することが基本だということです。長男の監督は子供の動かし方・接し方が非常に上手く親として「この監督にあずけて良かった」と思い、次男の監督は、怒鳴りつけ萎縮させ・・・「監督を殴りつけたい」と何人かに言わせしめる人です。(それもまた「教育」か!?・・・・私は社会の不条理を学ぶ事も教育の場にあると思っている者なのですが・・・)その結果は両校とも2回戦まで進みましたが、同時に彼らの夏が終りました。
要は「監督=教師」の人格の問題です。

 2人の監督を決定的に分けたのは、長男が体の故障で「退部」を申し出た時、次男が戦外通告を受けた時です。一方は「他にやれる事は一杯ある。顔を洗って出直して来い!」といわれ、一方は「2軍残留か退部か選べ!」といわれました。「教育的な配慮」はどっちなのでしょうか。それともそんな事を部活に求めるほうが無駄なのでしょうか。部活には例の事件が発生するような下地は充分に存在するのです。
  
 ■管理された人間に独創的プレーはできない  村上 彰夫

 管理された人間には、ロボットのようなプレーは強要出来ても、人を感動させるような、独創的なプレーは期待出来ません。日本的な教育の相似形かも知れません。

 ■マスコミも背景を記載すべき  綾部 衛

 このような事件がおきると、マスコミは決まって一点だけをみて加害者(?)を総攻撃し、教育委員会と学校は簡単に処分してしまう。(コラムを読んで)事件の背後が良く判りました。マスコミもこうした背景を記載すべきであると思います。。(2004年6月)

 「おいおい、まだこんな教師がいるのかよ。これじゃまるで殺人未遂で罰せられる犯罪じゃないか。だから俺はスポーツが嫌いなんだよ。こんなことがまかり通っているなら、学校教育からスポーツを排除すべきだよ」

 飲み屋での友人の言葉である。彼は、スポーツにはまったく関心をもたない。プロ野球も、サッカーW杯や五輪でさえも興味がない。「五輪のTV観戦のために寝不足になる奴の気が知れんね」などと平気で言い、今夏のアテネ五輪時の寝不足を今から覚悟している人間(筆者)の気分を悪くさせるような男である。

 そんな彼が珍しくスポーツを話題にした。それも少し興奮気味にである。彼は、ある新聞に載っていた記事を読んで、驚き、そしてあきれてしまった。彼はスポーツ面など見ない。しかし、この記事は社会面に掲載されていたので、彼の目にとまったのだった。

 スポーツ嫌いの友人が驚き、そしてあきれた『犯罪』を扱った記事は、6月9日付読売新聞朝刊の社会面に、「風邪で高熱、入院させず練習 バレー部員一時危篤」の4段見出しで掲載された。以下、記事の一部を引用する。

 バレーボールの「春の高校バレー」で4度の全国優勝を誇る男子の名門、岡谷工業高校(長野県岡谷市)の前監督(48)が、今年3月に当時2年生の主力選手が風邪をこじらせた際、病院で診察を受けさせるなどの処置を怠り、この部員は一時危篤状態になっていたことが8日、分かった。(中略)家族などの話によると、この部員は3月4日に高熱がでて、近くの病院で、「設備の整った同市内の病院への緊急入院が必要」と診断された。しかし監督は入院させずに学校に連れ戻した。その後、全国大会に向けて無理を押して練習や遠征に参加し続けたために、部員は同月下旬に敗血症などで一時心肺機能停止に陥った。(以下略)

 前監督は妻を寮母役として自宅にバレー部員を住まわせており、一時危篤になった部員もこの寮で生活していた。

 この問題が明らかになったことから、長野県教委は前監督を県教委高校教育課付に異動させた上で、6月11日、停職6か月の懲戒処分にした。この懲戒処分を取り上げた読売新聞は、「生死の境をさまよった部員は闘病生活で81キロあった体重が今は50キロ台にまで落ちた」(6月12日付朝刊・スポーツ面サイド記事)と記している。また、この記事では、この部員が「見学に来ていた両親の前で監督から顔をたたかれて鼻血を出している」と、日付を特定して伝えている。同高バレーボール部では、指導の名のもとに、日常的にこうした体罰が繰り替えされていた。

 何ともおぞましい『事件』である。刑事事件としては立件されないかもしれないが、社会の常識では、前監督(教師)の行為は明らかに犯罪である。

 マスメディアはこの『事件』を例外的ケースとして扱っている。しかし、実態はそうではない。前監督の立場と、一時危篤状態に陥った部員の置かれていた状況には普遍性がある。高校スポーツの名門校ではほとんど当たり前の環境の中で、『事件』は起きたからである。

 ここからは、『事件』の背後にある根本的な問題について考えてみたい。根本的問題は二つある。その一つは高校生レベルでの『勝利至上主義』である。高校レベルでも競技スポーツであるから、各校が勝利を目指すのは当然のことである。競技スポーツから『勝利への意思』を削除したら、何も残らなくなる。しかし、高校レベルでの『勝利への意思』は抑制的であるべきである。

 高校レベルでは、『育成』と『勝利への意思』とのバランスを取る必要がある。選手が将来、大学、社会人レベルで活躍できるよう、ステップアップの時期と考えなくてはならない。しかし、野球など他の競技も含めて、現状はそうなってはいない。

 前監督にしても、春の高校バレーの時期ではなかったら、この部員に対してこれほどの無理はさせなかっただろう。全国レベルの名門校の監督として、前監督には学校、地域、部員の父母らの全国優勝への期待が重くのしかかっていたことは、容易に想像できる。

 もう一つの問題は、より深刻である。前監督が、絶対的な権威者、権力者として部員を管理していたことである。前監督は同校の教師でもある。全国から集まった部員は、前監督の自宅である寮で生活している。寮母は前監督の妻である。部員は寮で寝起きし、教室、練習場である体育館に通い、寮に戻るという生活を繰り返している。

 練習や遠征では、前監督は絶対的な権威と権力をもつ。寮では前監督の妻が前監督の代理人の役目を果たす。教室でも、他の教師を通して前監督は部員の情報をいくらでも入手できる。部員は生活全般にわたって前監督に管理されている。

 それに加えて、前監督は「春の高校バレー」を含め全国優勝を何回も達成した、高校バレー界の名監督である。「バレーボールのまち」を標榜する岡谷市の名士でもある。県教委も校長も、他の教師も前監督の体罰を組み込んだ指導に異議をとなえることはできなかった。子どもを預けた父母はなおさらである。子どもが、前監督によってレギュラーに指名されるかどうかによって、その子どもの、その後のスポーツ人生が大きく変るからである。

 24時間体勢で管理される部員と、絶対的な権威、権力、情報をもって管理する前監督。極めて強固な上下関係、支配・被支配の関係が、あの『事件』を引き起こした。そうした関係が成立していなければ、前監督は医師の緊急入院の指示を無視してまで練習を強要しなかっただろう。部員も、命を落とす直前まで、前監督の命令に従ったとは思えない。こうした関係は、人間が本来もつ、自分の命の危険に関する防衛本能まで希薄にさせてしまうほど、強い力をもつ。

 高校レベルでの過度の『勝利至上主義』と、指導者と部員の支配・被支配の関係を抜本的に見直さない限りは、こうした『事件』はいつでも発生する可能性がある。(2004年6月20日記)

 2000年シドニー五輪・柔道女子52キロ級銀メダリスト、楢崎教子氏(旧姓・菅原、文教大専任講師)が5月7日付毎日新聞運動面のコラム欄「金曜カフェ」に寄せた文章「すべての感覚動員し相手を読む」を読んで、不思議な感覚にとらえられた。楢崎氏はこの短い文章で、格闘技の競技者(アスリート)として体得した特異な感覚を、後進や真の柔道愛好家のために語っている。

 それまでに楢崎氏の文章を読んだことはなかったのだが、「この文章は、以前どこかで読んだことがある」という『既視感』――この場合は『既読感』と言った方がいいか――を覚えたのである。

 しばらくたって、『既視感』あるいは『既読感』の理由がわかった。楢崎氏の文章は、およそ360年も前に剣豪、宮本武蔵が書いた『兵法三十五箇条』(以下『三十五箇条』)の一節と、ほとんど同一の内容だった。いや、武蔵の書いた一節を、具体例を示しながら書いたような文章だった。

 楢崎氏はシドニー五輪での銀メダルのほか、1996年アトランタ五輪で銅メダル、1999年英国・バーミンガム世界柔道で金メダルを獲得した。超一流の柔道家であり、競技者であった。菅原氏はシドニー五輪後に現役を引退した。

 楢崎氏の文章について語る前に、武蔵の『三十五箇条』に触れておく。『三十五箇条』は武蔵が1641年に書いた、自らの剣術とその背後にある、体のさばきかた、感覚、思想を端的にまとめた短い覚書のようなものである。武蔵はその4年後、1645年に、五輪書を書き終えて没した。62歳だった。

 『三十五箇条』は、同じく武蔵が書いた『五輪書』の下書き程度にしか評価されていない。しかし、この文章こそ武蔵が独創的に編み出した剣術と、その背景となる思想を生(き)のままに表している。『五輪書』はむしろ、武蔵の思想を一般化するために、水で薄めたようなものである。
 
 『三十五箇条』の一節に「目付の事」と題した次の文章がある。

目を付ると云う所、昔は色々在ることなれ共、今伝る処の目付は、大体顔に付るなり。目の治め様は、常の目よりもすこし細き様にして、うらやかに見る也。目の玉を不動、敵合近く共、いか程も、遠く見る目也。其目にて見れば、敵のわざは不及申、左右両脇迄も見ゆる也。観見二ツの見様、観の目つよく、見の目よはく見るべし。若又敵に知らすると云う目在り。意は目に付、心は不付物也。能々吟味有べし。(『兵法三十五箇条』(岩波文庫「五輪書」・渡辺一郎校注より)

 どこを探しても現代語訳が見つからないので、筆者が訳することにする。大意は以下の通りである。

目の向け方(治め方)は、昔はいろいろ試してみたが、今思うところはこうである。目は大体相手の顔に向ける。普段より少し細めるようにして、うららかに見るものである。目玉は動かさず、敵が近くても遠くても、遠くを見るようにする。そのように見れば、敵の技はもちろん、左右両脇まで見渡せる。(前段)

 ものの見方には「観」「見」の二つがある。「観」の目は強く、「見」の目は弱くするべきである。(中段)

 また敵に分からせる目というものがある。意思は目に生じるものであり、ものに現れるものではない。よくよく修練するべきである。(後段)

 武蔵は、文字通り真剣でもって命のやりとりをする戦いの場で、敵をうららかに見ろと語っている。この一言だけでも、武蔵の剣術の特異さ、あるいは独創性を表していると言えるだろう。

 ここからは、楢崎氏と武蔵の文章を比較してみる。楢崎氏は毎日新聞に寄せた文章の冒頭でこう述べている、

 「格闘技の目の使い方は特殊で、相手と至近距離で組み合っているが、決して相手をにらみつけているわけではない。頭からつま先まで相手の全体が見えるようにしながら、双手(もろて)刈りのような奇襲技をかけてきても対応できるようにしている」

 この部分は武蔵の「目付の事」の前段部分に対応している。試合中の楢崎氏もまた、視線(焦点)を一点に合わせるのではなく、相手の全体を見渡しながら戦っていたのである。人の目は、文字を読むときのように、一点に集中すると周囲が見えなくなる。そうした使い方とは逆の目の使い方を、格闘技の世界ではしていると、楢崎氏は指摘している。

 この後、楢崎氏はバーミンガム世界柔道の決勝戦で体験した特異な感覚について語っている。決勝の相手はベルデシア選手(キューバ)である。2人は長い間、ライバル関係にあった。アトランタ五輪で銅メダルを分け合い、バーミンガム世界柔道では僅差で楢崎氏が勝利した。シドニー五輪決勝では、今度はやはり僅差でベルデシア選手が楢崎氏を下した。

 世界柔道決勝戦での感覚を、楢崎氏はこう書いている。

 「この日のベルデシア戦では、(会場に)大きなスクリーンがあり、私は彼女を見ながら彼女の背後にある映像も同時に捉(とら)えていた。本来なら、彼女だけを見ているはずなのだが、何とも不思議な感覚だった」

 この部分は、「目付の事」の中段部分にあたる。武蔵の「見」の目とは、一般的な目の使い方である。「観」の目とは、どこか一点に焦点をあてるのではなく、対象物全体を見る目のことである。この試合中に楢崎氏は、実際にベルデシア選手と戦っている自分と、それを見ているもう一人の自分を意識していたのではないか。こう考えると、先の楢崎氏の文章は、武蔵の「観」「見」の目の使い方を具体的に示した文章だといえる。

 楢崎氏の文章は、「いかに相手には自分の情報を与えず、自分だけ相手の情報を得るかが重要になってくる」という言葉で終わっている。これは、武蔵の後段の文章「敵に分からせる目というものがある。――」と同調した言葉と言えるだろう。

 楢崎氏が武蔵の文章を盗作したなどと言うつもりはまったくない。恐らく、楢崎氏は武蔵の文章など読んでいないだろう。

 柔道、剣道など現代武道は、明治期以前の古武道とは大きく離れた存在になってしまった。なかでも、東京五輪以来、五輪の公式競技となった柔道は、明治期以前の柔術(体術)とはまったく違う方向を選択した。国際競技スポーツとして、実質的にポイント制を採用するなど、欧州で発生した近代スポーツとの同化の道をたどっている。

 武蔵の時代の武術家とはまったく違う世界に生きる現代の柔道家が、武蔵が晩年に到達したものとほとんど同じ感覚(境地)を獲得していたことに、驚きと、すこし大げさに言えば、楢崎氏への畏敬の念を感じてこのコラムを書いている。

 楢崎氏も、試合中いつでもこうした感覚を体験したわけではないだろう。長年のライバルとの、ほとんど極限状況での試合中だからこそ体得した。

 現代の柔道家である楢崎氏が体得した感覚は、西洋化した現在の社会ではほとんど顧みられることのないものである。しかし、こうした特異ではあるが独自の感覚からこそ、新しい技術やスタイル、そして思想が生まれるのではないだろうか。(2004年5月29日記)

 ■ ホントの「文化」が泣いちゃいそうです  元持さ

最後の「この国のスポーツ界は、選手と競技団体・役員との関係の倒立性、そして競技団体と政治家との相互依存性を正さない限りは、本来の主役である選手とファンのために存在する、透明性をもった組織に生まれ変わることはできない」。理路整然としたご意見でもっともだと思います。"この国のスポーツ界は"とありますが、ほとんど例外なく各分野において行われていることです。

政治家、経済界との癒着、でもそれらがなければ成り立っていないのが現状ですね。私は日中文化交流の小さな活動をしていますが、そのような繋がりは全くないので、驀進《笑》するのみです。「清く 正しく 美しく 」も良いけれど、何だか限界を感じるときがあります。多くの問題は多分、日本人ひとり一人の根底に流れている何かが起因しているのでは・・・。日本は文明から文化の社会になった、なんて言われますが私はそう思いません。こんなのが文化なら、ホントの「文化」が泣いちゃいそうです。

 ■近所の公園の草野球にこそ  かたくわ こうすけ

私はメディアが大扱いするスポーツは大抵見る気がしないどころか、どうにも嫌な気分になって仕方がなかったのですが、成田さんの記事を拝見するたび、「こんなよこしまな動機であれば道理なわけだ」と得心がいきます。どうもスポーツ自体が殺伐としているような気がしてなりません。競争でも、「競う」よりは「争う」ほうに重心が傾いているような。勝利が、排他的、とでも言うのでしょうか、そう、分かち合われるものでないような気がします。

今回の記事での競技団体のように、誰か特定の人・団体のために。だからこそ、今のスポーツが普遍性を失ってきているのではないでしょうか。バレーボールで、他国との試合中ひっきりなしにニッポン、ニッポンと叫ぶシュプレヒコールが私は大きらいです。近所の公園で行われている草野球の試合に、そのメンバーに知り合いなんて誰一人いもしないのに、その試合を観戦して応援したりもする。そんなスポーツの光景の方がいっそ心地良いです。 (2004年4月16日)

 この国ではいつも、何か事がある度に、『超法規的措置』によって、問題を決着させてしまう。問題を解決させるのではない。問題の本質をえぐりだし、最終的な解決に至らせようとはしない。問題は常に先送りされ続ける。1990年代の『失われた10年』にしても、そうだった。

 韓国発祥の格闘技であるテコンドーの、競技団体分裂によるアテネ五輪代表選手派遣問題とその決着への経緯は、問題を解決させるのではなく、決着させるだけの、この国の問題先送り体質を顕著に示す例になった。

 シドニー五輪銅メダリスト・岡本依子選手の五輪派遣問題で、日本オリンピック委員会(JOC)は4月5日、岡本選手を個人資格でエントリーする方針を決めた。「五輪憲章は、国内競技連盟(NF)が存在しない場合、例外として個人エントリーを認めており、JOCの竹田恒和会長は、未承認の2団体が対立している日本には競技団体が存在しないと解釈した」と4月6日付毎日新聞は報じている。

 対立する2団体の統一なしには五輪に選手を派遣しないという立場を取ってきたJOCは、4月1日の記者会見でも、「国内には競技団体があり、個人資格でのエントリーは五輪憲章違反になる」との見解を示し、2団体に対し統合するか解散するかの判断を求めていた。JOCの決定は、『超法規的措置』によって岡本選手の五輪派遣を認めただけで、問題の本質に対する解決策を先送りにしただけである。

 テコンドーの五輪派遣をめぐっては、2つの本質的問題がある。1つは競技団体と選手との関係の『倒立性』であり、もう1つは政治家と競技団体との『相互依存性』である。いずれも、日本のスポーツ界が抱える本質的かつ根源的な問題である。

 スポーツは誰のためにあるのか。第一義的には選手本人のためにある。第二義的には選手のパフォーマンスに喜びを見いだすファンのためにある。競技団体は選手をサポートし、ファンとの関係を仲立ちするためにある。

 こんな当たり前の関係が、この国では成立していない。選手と競技団体との関係が倒立している。競技団体とその役員は、選手の上に立って指導する立場であると考えられている。競技団体の中では、選手は個人としては、あるいは一人格としては、ほとんど無視された存在である。

 競技団体の意思決定は理事会で行われる。しかし、日本では現役選手の理事枠をもつ競技団体など聞いたことがない。日本陸連や日本水連にしても、現役選手の理事はいない。選手をサポートするために存在する競技団体の意思は、選手とは無関係に決定されている。

 この倒立した関係の最たるものが、テコンドーの岡本選手と、分裂したまま抗争を続ける2つの競技団体である。彼らは何のために、誰のために競技団体は存在するかという、最も大事な前提を無視したまま対立している。2002年9月の釜山アジア大会への選手派遣は、団体間の抗争によって見送られた。

 スポーツ関係者の間では、「選手は競技団体の『財産』である」という言い方がよく使われる。この言い方とその元になる考え方自体に問題がある。選手は財産ではなく、競技団体の主体でなければならない。選手を競技団体の財産だと考えたとしても、彼らは貴重な財産をよってたかって食いつぶしている。五輪銅メダリストの岡本選手は、マイナー競技であるテコンドーにとって、この国での競技の普及・発展を図るための、ほとんど唯一の財産である。

 競技団体はまた、政治家との相互依存性を強くもっている。テコンドーは全日本協会と日本連合に分裂している。このうち多数派である全日本協会の会長には、衛藤征士郎代議士(自民)が就いている。衛藤氏は、五輪代表派遣の決定権をもつJOCを所管する文部科学省の河村建夫大臣に対して、競技団体分裂問題とは関係なく岡本選手を五輪に派遣するよう要請している。

 この要請は、河村大臣から、「岡本選手の派遣と組織一本化は切り離すべきだ」との発言を引きだした。この大臣発言がJOCの方針変更に大きく影響したことは明らかである。衛藤氏の政治力がJOCの『超法規的措置』を引き出した。

 テコンドーに限らず、この国の競技団体の多くは、政治家を会長職に就けている。中央の団体なら国会議員、地方の団体なら県議や自治体の首長である。政治家を会長職に就けない競技団体は例外的でさえある。政治家と競技団体との関係は長く、そして根深いものがある。

 政治家は、競技団体とそこに所属する現役・引退選手の知名度と、上の立場にある者の命令には逆らわない『上意下達』的組織を最大限、選挙に利用する。各種選挙において、競技団体は、保守系政治家の『集票マシーン』になる。建設業界や農協組織など従来の集票マシーンが解体状況に陥った現在では、競技団体は政治家にとって、それぞれの婦人部組織とともに、より重要な集票機能を果たす存在になっている。

 競技団体はまた、政治家に対し、補助金など公的支援や大会運営に関する仲介、便宜を期待する。公的支援なしには競技は運営できない。大会運営や選手の育成・強化にも国と地方公共団体の支援が必要である。どの競技団体でも、役員の中には政治家との『パイプ』役が存在する。そして、彼らが政治家との付き合いを通して競技団体の実権を握ることになる。

 テコンドーの五輪代表選手派遣問題では、国会議員である衛藤氏は、文部科学大臣を通してJOCに圧力をかけるのではなく、分裂した組織の統一に彼の政治力を使うべきだった。しかし、衛藤氏は本来とは違う目的のために政治力を使ったのである。

 この国のスポーツ界は、選手と競技団体・役員との関係の倒立性、そして競技団体と政治家との相互依存性を正さない限りは、本来の主役である選手とファンのために存在する、透明性をもった組織に生まれ変わることはできない。(2004年4月11日記)

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