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20世紀の偉大な写真家 米国カンザス州生まれ。 「ライフ」誌に発表した 「スペイン村」 「慈悲の人シュバイツァー」などのフォト・エッセーで世界的な評価を得る。 日本とのかかわりも深く、第二次世界大戦中は従軍記者としてサイパン島、沖縄などの戦闘も撮影した。 1960年代初頭の「日立」、 七〇年代の「水俣」 世紀の報道写真家が撮り続けた高度成長の“光と影” ▲患者たちのチッソへの憤怒を象徴する「怨」の字を染め抜いた旗。 「この言葉が患者さんたちの心を社会的、政治的に拡大するメッセージだと、ユージンは理解していました」(アイリーン・スミス) ▲有機水銀を垂れ流してきたチッソ工場の排水口。この悲劇の源を、スミスは水俣に入ってほぼ最初に撮影した。 ------------------------------------------------------------------------ 未来に絶望しない水俣の人々、それがユージンの故郷だった アイリーン・M・スミス 私たちが水俣で取材を始めたのは、ユージンが五十二歳、私が二十一歳の時。年齢差はかなりありましたが、精神的には彼の方が若々しかった。日本語はちっともおぼえず、もっぱら私が通訳兼マネージャーでしたが、自分から患者さんたちの中へ入り、一緒に笑い、悲しいことがあれば子供のように泣きました。 『水俣』は彼の最後の作品ですが、自分でもその自覚があったようで、全身全霊で打ち込みましたね。 とぼしい収入のほとんどをフィルムと印画紙に注ぎこみ、残りは牛乳とウィスキー。従軍記者として沖縄で負傷した顎の古傷が痛み、固形食がとれなかったからです。まるで無頼派の作家のように、自分の身を削って仕事をしました。 ユージンは、水俣を自分の故郷と考えていました。 『水俣』の序文に「過去の誤りをもって、未来に絶望しない人びとに捧げる」と書いたように、悲惨な経験から立ちあがり、たくましく生きている患者さんたちを心から尊敬し、共感していました。そういう未来を共有できる人たちのいる場所が、彼の故郷であり、力の源泉でした。 |
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記事の写真家の生きる目標は、写真でありのままの社会を
伝え、人に訴えかける事により、世の中を良くしたいという
事だったようですね。
世の中には、こういう人々も必要ですね。
2010/4/30(金) 午後 1:51 [ yositune ]
yosituneさん、世のため人のために生きている人って、とても辛い経験により形成されているんでしょうね。
2010/5/6(木) 午後 2:10
水俣のチッソは、7年間も放置していたダイオキシン汚染土壌や底質について、おおさかATCグリーンエコプラザ 水・土壌汚染研究部会が、水俣へ見学ツアーに行く直前に無害することを発表しましたね。
次は底に溜まっていたり、埋立地の土に含まれている水銀の無害化が必要ですね。
いつまでも土壌汚染を放っておくと企業の立場が悪くなるばかりですね。
時代は環境の世紀、国土のクリーンアップによるグリーンニューディールです。水俣における環境と経済の好循環が実現して欲しいと思います。また、エコツーリズムも大切ですね
2010/5/23(日) 午後 7:47 [ 小鳥が丘団地救済協議会 ]
小鳥が丘団地救済協議会さん、コメント遅くなりましてすみません。
そのとおりですね。環境の時代ですね。
情報ありがとうございます^^
2010/11/1(月) 午後 8:16