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「ある」という錯覚→知識→役に立たない→失敗
我々が持っている「花が(変わらずに)ある」という認識は「錯覚」です。
この錯覚が「知る」ということになって、自分の「知識」となるのです。
つまり、「ある」という錯覚→知る→知識です。
しかし花は変わり続けるので、知識は常に過去のものです。
「花を知っている」といっても、その花はとっくに変わってしまっています。
したがって知識は過去のもので、役に立ちません。
だから知識をあてにすると失敗するのです。
「知識と失敗に何の関係があるの?」「何が問題なの?」と思いますか?
あなたが一年前にAさんに会って、大喧嘩したとします。それで「Aさんは
嫌な人だ」という知識が生まれます。それで久しぶりにAさんと会ったら、
「あ、嫌な人と会ってしまった」と思うでしょう。
一年のうちに、Aさんは変わっているかもしれません。
けれどもあなたが「Aさんは嫌いだ」と思って接すると、Aさんは嫌な反応を
するでしょう。するとあなたは「やっぱりAさんは嫌な人だった」と思うのです。
本当は自分のせいなのに。このように「知識」が失敗を招くのです。
知識は錯覚の寄せ集め
「変化→知る」が正しいのです。
それなのに人間は「知る→ある」と錯覚してしまうのです。
順序が逆だし、変化にも気づかないのです。
「知識」のひとかけらひとかけらには、
こうした「花がある」「音がある」「人がいる」というった錯覚が入り込みます。
この錯覚がすなわち「固定概念」です。
我々の知識は錯覚です。客観的な事実、真理ではありません。
「知識がたくさん=錯覚がたくさん」なのです。
「知識、知識、知識」「錯覚、錯覚、錯覚」なのです。
「無常の見方」より抜粋
スリランカ初期仏教長老 アルボムッレ・スマナサーラ
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