どういうことかというと、長崎への原爆投下の、つまりこの日の原爆投下の当初目標地点は福岡県小倉市(現:北九州市)だったのです。
この日、原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B−29)は6機です。
6機は別々に飛び立ち、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところが4機にエンジントラブルが発生し、2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。
ところがその2機は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えました。
これによって、長崎が被災地となったのです。
なぜ、突然、投下目標地点が変わったのでしょうか。
理由は簡単です。
飛来したB−29に、小倉造兵廠にいた陸軍守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。
そのあまりに激しい応射によって空中には煙幕ができ、B−29は原爆投下目標地点の目視ができなくなってしまったのです。
それでもB-29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しました。
その3度目が失敗したとき、陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、
同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進やってきたのです。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念し、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えて小倉の空から去り、結果として長崎に原爆が投下されたのです。
このことは、三つの点で、たいへん重要な意味を持ちます。
1 当初の目標地点が小倉市
2 抵抗の重要性
3 情報の重要性
です。
ひとつ目の「当初の目標地点が小倉市」であったということは、重要な事実です。
当時の小倉市の人口は30万人です。
そして小倉市は、長崎以上に平野部が広がっています。
つまり遮蔽物となる山がないのです。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに及びます。
ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上、その後の被爆による死者が10万人以上、合わせて40万人という途方もない被害者が発生した可能性があったのです。
ぞっとします。
ふたつめは、日本側の「抵抗の重要性」です。
先日、広島の原爆についての記事の中で、日本に何故原爆が投下されたのかという設問に対して、当時の日本側に米国への反撃能力がなかったことを挙げさせていただきました。
それでも、実際に原爆を投下しようとするB-29に対し、陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたために、B-29は原爆投下のために必要な高さに高度を下げられなくなり、また猛烈な弾幕とそれによる煙幕で目標地点を目視しようにもできなくなりました。
日本の軍隊は、戦時中であっても、物資が不足する中で、めくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。
それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、当時の陸軍が、どれだけ広島への原爆投下から、強い危機感を持っていたのかということです。
さらにそこに陸海軍の戦闘機が飛来しました。
おかげでB-29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済んでいます。
軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り国民の命を守ることになるのか。
このことは私たちは、原爆による実際の被害を受けた経験を持つ国民として、しっかりと認識すべきことですし、学校でもしっかりと子供たちに教育すべきことです。
ましてや「侵略国家である日本を懲らしめるために米国は原爆を投下してくれた」などと、まことしやかな嘘を教えるなど、もってのほかです。
「そういうあんたが原爆を受けてみろ!」と言いたくなります。
みっつめは、情報の重要さです。
あとに書きますが、長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、結果として十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けています。
長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、
「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」というものや、
「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。
まったくの妄言です。
どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され宣伝されたものですが、残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多いです。
けれど、それが妄言であり嘘であることは、ちょっと調べたらすぐにわかることです。
小倉上空を離脱したB−29が長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後、午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い「夏の雲」です。
これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。