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以下は東京新聞(6月16日)「あの人がいた街」に掲載された記事をまとめたものです。
東京都の多摩都市モノレール線に程久保駅があり、今ではその辺りは日野市になっていますが、江戸時代は小宮領程久保村でした。程久保駅から1,2分のところに、六地蔵がいまでも鎮座しています。
文化2年(1805年)、六地蔵斜め後方の家で、久兵衛を父、しづを母として、「藤蔵」は生まれました。数え年2歳で実父を亡くした藤蔵自身も6歳の冬、疱瘡(天然痘)で短い生涯を終えました。
それから5年後、文化12年(1815年)程久保村から5キロほど離れた柚子領中野村(現八王子市東中野)に住む小谷田源蔵に次男が生まれ勝五郎と命名されます。勝五郎は8歳のとき、姉、兄との遊びの中で自分の前世について語り、驚いた両親が聞きただしたところ、「前世は程久保村の久兵衛さんの子どもで藤蔵である」と答え、藤蔵の生家へ行きたがるので、連れて行ったところ、情景描写をはじめことごとくが的中します。
このことが世間に知られるようになり、池田冠山(鳥取藩支藩藩主で娘をやはり疱瘡で亡くす)や、中野村の領主による事情聴取も行われるようになりました。さらに聴取した内容を、幕末の国学者・平田篤胤は「勝五郎再生記聞」に、小泉八雲は明治32年、米英で出版した「仏の畠の落穂」第10章で「勝五郎の転生」に採録。
八雲は日本人の佛教観を重視しましたが、篤胤は復古神道を唱え、明治以後の国家神道、廃仏棄釈に大きな影響を与えたとあって、勝五郎(明治2年55歳で死去)は僧侶嫌いになり仏教の輪廻転生を批判、転生の要因として産土神の導きを強調したそうです。何はともあれ輪廻転生という事実はあったのではないでしょうか。海外でも「前世をを記憶する20人の子供」(イアン・ステイーヴンソン編 米国ヴァージニア大学出版局刊)があり、勝五郎に似た例が載っています。
私自身佛教を信仰する以前は、輪廻転生を一笑に付していましたが、いまは信じています。科学がもっと進んだ時代になると、おそらく科学的にも証明される時が来るであろうと推測しています。
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