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1966年に書き下ろされ、新潮社から出版された「沈黙」は、発表された当時世間の大きな話題となり、当然筆者も目を通した。しかし、当時、宗教について関心も知識もなかった筆者には理解し難い点も多く、特に感動を覚えることもなかった。その後、五十歳を過ぎてから不思議な縁で佛教に帰依し、僧籍を得てからでも二十年になる。信仰について個人的に感じることもあり、最近、再読してみた。共鳴する点も多かったが、賛同しかねる点もあった。
筆者が特に注目した個所を先ず引用させていただく。(116ページから119ページまで)
「もらいたくもなき品物を押しつけられるを有難迷惑と申します。切支丹の教えはこの
押しつけられた有難迷惑の品によう似ておる。我等には我等の宗教がござる。今更、異国の教えを入れようには思い申さぬ。わしも神学校(セミナリオ)にて、パードレ(筆者註 司祭)たちのエンテンジメンを学んだが、はてさて、今更、われらに入用なるものとは一向に思いませなんだ」
「私たちは、考えが同じではないようだ」司祭は声を落として静かに言った。「でなければ、遠い海を渡って、この国を訪れはしない」
これは彼が日本人と始めてやる討論だった。フランシスコ・ザビエル以来、このような言葉のやりとりから多くのパードレが、日本の仏教徒たちと討論をはじめたのだろうか。ヴァリニャーノ師は日本人の頭を馬鹿にしてはならぬ。彼等は論争の仕方をよく心得ていると言っていた。
「ならば伺おう」通詞は扇子を閉じたり、開いたりしながら、押しつけるように言った。「切支丹たちは”デウス“こそ大慈大悲の源、すべての善と悪との源と申し、仏神はみな人間であるからこれらの徳義は備わっておらぬと言うておるが、パードレ殿も同じお考えかな」
「ホトケも我々と同じように死を免れますまい。創造主とは違うのです」
「仏の教えをよう知らぬパードレ殿なれば、さよう思われようが、しかし、諸仏、必ずしも人間ばかりとは限っておらぬ。諸仏にはな、法身、報身、応化の三身があって応化の如来とと申すのは衆生を救われ、利益を与える方便のために八相を示されるが、法身の如来は、始めもなく、終わりもなく、永久不変の仏であられるから経にも如来常住、無有変易と説かれている。諸仏を人間とばかり思うのはパードレ殿、切支丹だけで、我々はさように考えてはおらぬよ」
日本人はまるで、この答えを暗記したもののように一気に言った。おそらく彼は今日まで、
さまざまな宣教師たちを取り調べるうちにどのように相手を屈服させるかを考え続けたに違いなかった。だから彼は、ほとんど自分には理解できぬむずかしい言葉を選んだのだろうと司祭は思った。
「しかし、あなたたちは万物は自然に存在し世界には始めもなく終わりもないと」司祭は逆襲するために相手の弱点を狙った。「そう考えているとか」
「その通り」
「しかし命のないものは他物がそれを動かすのでなければ、自分から動くことはできぬ。ホトケたちはどうして生まれたのか。 またそのホトケたちは慈悲の心があるのは, わかりますが、しかしその前にこの世界はどうして創られたのか。 我々のデウスは自らを創り、人間を創られ、万物にその存在を与えたものだが」
「ならば切支丹のデウスは、悪人どもをも創られた、そう申されるわけか。しからば悪もデウスのなせる業じゃ」
通辞は勝ちほこったように、小声で笑った。
「いやいや違うでしょう」司祭は思わず首をふって、「デウスは万物を善きことのために創られた。この善の為に人間にも智慧というものを授けられた。ところが、我々はこの智慧分別とは反対のことを行う場合がある。それを悪というだけだ」
蔑むように通詞が舌うちする音がきこえた。司祭も司祭で自分の説明が相手を説得したとは思っていなかった。こうした対話は、もう対話ではなく、むしろ言葉じりを掴まえて無理矢理に相手をねじふせるようなものだった。
「詭弁を弄されるな。百姓、女、子供ならともかく、わしは、さような釈明に惑わされはせぬ。まあいい、今一つ設問しよう。デウスにまこと慈悲の心があらば、なにゆえ天国(パライソ)に行く道に至るまで、さまざまの苦しみやむつかしき事を与えると思わるるか」
「さまざまな苦しみ? 誤解していられるようだ。もし人間がデウスの掟をそのまま実行するなら、平安にくらせる筈。我々が何かを食べたい時に、デウスは飢えて死ねなどとは決して命ぜられぬ。ただ創り主であるデウスを祈れ、これだけ守ればいいのです。また我々が肉の欲望を捨てることができぬ時はデウスは女を遠ざけよなどと強制されはせぬ。ただ一人の女をもちデウスの意志を行えと言われるだけです」
この返事は、うまく運んだと、語り終わった時、思った。小屋の暗がりの中で通辞がしばし言葉を失って黙りこんだのが、はっきり感じられた。
「もうよか。いつまでも水掛論じゃ」不機嫌に相手は日本語で、「こげん話ばしにここに参ったのではなか」 (引用終わり)
上記引用部分は仏教とキリスト教の根本教義に関わる部分で、小説の中でも重要な役割を果たしている。
仏教上のホトケについて筆者の得た知識によれば、法身仏(この世に働く真理・法)、報身仏(教化面で生み出されたさまざまな仏・菩薩など)、化身仏(修行の結果、現実に仏となられた釈尊。応身仏とも言う)の三仏が存在する。デウスはキリスト教での神(この世の創造主)。ウイキぺディアによればフランシスコ・ザビエルは日本での布教当初、大日如来に模してデウスを大日と呼ばせたこともあるが、程なくしてそれは正しくないと取り止めたようだ。
キリスト教を禁教とした幕府に逆らって、デウスを信じた熱心な信仰者は火あぶりの刑、水磔刑、釜茹での刑、十字架に縛られ槍で突かれるなど極刑に曝された。苦痛に耐えいのちを落とす信仰者にデウスは沈黙するばかりであった。信仰とは何か、を問う書「沈黙」に、宗教者の一人として筆者も深く考えさせられるものがあった。
信教の自由が保証されている今日、上記の法論に関して筆者の見解(個人的直観であるが・・・)を述べさせていただくと、法身仏とは、この世に働いている目に見えない大きな力で、その本質は慈悲であると筆者は信じている。人間がこの世に存在し得るのは、地球があってのことだが、地球と言う天体の誕生も、因があり、それが縁に触れて、果として有り得る(つまり「空」の法理により)と言えるのではないか。其処に生命が誕生する確率は10の4万乗分の1と云われており、正に奇跡に近い確率なのだそうだ。数多の天体の中で唯一地球のみに生物が存在する事実は、目に見えない大きな力の働きの存在と筆者は認めざるを得ない。
人がこの世に生命を享けることは、我慾を充たすためでなく、自分の存在が他者の為に、また他者の存在が自分の為になる自他相和する目的が在るからと自ずと解釈されるのである。人間が幸せになる道(法華経)を、理を尽くして説かれた釈尊の存在が人類にとり如何に有難いことか、筆者は「沈黙」を読了して改めて感じている。
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