日々の韜晦

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八雲立つ 出雲八重垣

ともすれば、わたしたちは神話を前にして逆立ちした時間の経過を見守っている。神話においては国産みの天つ神からはじまり、国つ神を媒介してというのは、国つ神が同時に天つ神になることで、今度は、この国つ神が天つ神として国つ神を従えるという順序に見誤ってしまう。しかし、ほんとうの歴史はその真逆で、国つ神が天つ神になり、同時に国つ神でもありながら、その上に天つ神を仰ぐという二重構造なのである。しかし、『古事記』編纂の時代には、すでに天つ神が国つ神であった時代の記憶がぼやけてきており、いきなりどこからともなく現れた神を天つ神そのものとして仰ぎみたにちがいない。いったん、こういう錯誤が生まれてしまうと、あとは、この出生不明ではあるが確固たる天つ神が国つ神を平定するだけの単調な過程にすり替わる。ただ、スサノオが土着農耕民の祖であると同時に天つ神であるところに、わずかに倒錯の名残りが見えるだけだ。その倒錯の断片は、スサノオが降り立ったといわれる「出雲」の意味自体が多義的になっていることからも推測できる。記紀の最初に、スサノオは出雲の須賀の宮を築殿する際、歌ったとされている有名な歌がある。

≪八雲立つ 出雲八重垣 妻隠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を≫

『古事記』の中の説明では、出雲の須賀の宮を作るとき、そこに雲が立ち上っていたのを見て歌ったとされている。だが、いちばん普通に、古人になりきってこの意を解釈したのは本居宣長である。彼が普通にというのは、「出雲」を国の名とみなさなかったことである。『出雲風土記』にも国の名はこの歌よりのちに作られたとされており、「八雲立つ」は「出雲」の枕詞ではないという。むしろ、たくさんの雲が沸き立ちのぼる八重雲を強調するため、「出づる雲」を見渡したとしなければならない。そして、重なった雲の被いが、わが妻を隠しておく垣根にたとえられる。だから、実際に垣根を作るのを見ながら歌ったのではなく、雲にふさがれているさまを、あたかも垣根をされたかのように詠んでいるのである。本居宣長は、須賀の宮の垣の意ではなく、ただの雲の様子にちがいないと言い切っている。彼にとっても、歌は神代という天上界からうまれたのではなく、あくまでもこの地上の国において、はじめて歌われたことにちがいがなかった。ただ、記紀の神代の物語そのものは、変な疑いをはさまず、そのまま受けいれて読むべきとの信念は崩さなかった。

しかし、この歌をもっと大胆に切り刻んだのは、折口信夫である。折口になると、この歌のできたのは、もっと時代を下るとされている。なぜなら、この歌の意が単純明快な上、そのイメージがストレートに読者に伝わってくることをあげている。スサノオが存在したと信じられた時代より遥かに後、短歌が盛んにつくられるようになってから、作り手はわからないが、スサノオが歌ったにふさわしいということでとり入れられたと考えられた。したがって、「八雲立つ」という枕詞と「出雲」には特別な因縁があることになり、しかも、出雲の人が作った屏風(びょうぶ)や帳(とばり)は結婚した祝いに幾重にも囲んで、妻を迎えていることだという風に、具体的な風景としてとらえられている。その枕詞と出雲が結びつく具体性からもわかるように、結婚に際して新しい家を建てる誉め言葉になっていると同時に、新婚の幸福を祈る祝いの歌と解釈するのだ。地の物語の部分と歌の成立年次がちがうという見方に関しては本居宣長と同じだが、折口の場合、それがより具体性をもって風景に結びつけられていることが、歌の成立年次を大幅に後の世に向けて更新させることになった。

両者とは反対に、歌の成立を大和王権誕生からもっと未開に向けて遡らせる方法もある。吉本隆明が三角寛の『サンカの社会』から引用した伝承では、この歌はまったく相貌を異にする。それによると、元歌をたどれば、「八雲立つ」は「八蜘蛛断滅」、つまり暴漢をやめさせるということであり、何の暴漢かというと婦女子を手込めするような乱脈な婚姻関係を、掟(八重垣)をつくって絶ったことが歌われていると理解した。出雲地方の古歌としてこのような掟をつくった伝承があり、それをもとに改ざんされ記紀に取り込まれたのにはそれなりの理由があった。つまり、天皇の支配権がおよぶ前に、それぞれの未開の部族国家のあいだにある婚姻形態が存在し、それがあまりにも乱脈なものであったから、それに対して制限を加えた過去が存在していたと想像するのである。しかも、その掟は農耕に関する掟ではなく、一夫一婦制を定めたものであるから、農耕法としての天つ罪の概念ではなく国つ罪の概念に含まれている。こういう国つ罪の痕跡が、このようにスサノオの場所にでてくること自体、スサノオが天つ神と国つ神の接合面にあらわれてくる出自を示している。

こうして、天つ神と国つ神の交点にたったスサノオから大国主神(オオクニヌシノカミ)への足どりは、まだ、天つ神でありながら国つ神でもあるそれらの間の距離感を整える過程であるようにおもえる。たとえば、一つの胴体に八つの顔があり、八つの尾がある八俣大蛇(ヤマタノオロチ)は、水の神である地霊神の象徴であり、その征伐譚においては、暴風の神のスサノオとどちらが神格化されてもいいような関係をたもっている。スサノオはこの大蛇にまもなく生贄にされようとしていていた櫛名田比売(クシナダヒメ)を救おうと酒を用意させ、大蛇が飲み寝いったところを剣で切り散らし退治した。その尾からは草薙の刀(クサナギ)を取り出し、アマテラスに献上したとある。こうして、スサノオはクシナダヒメと結ばれ子供をもうける。

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八雲たつ=八つの愚かな厄(旧習)を断ち、八つの新しい役(制度)を建てた、という解釈はいかがですか。

2012/6/10(日) 午後 6:17 [ kamuiwakka28 ] 返信する

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kamuiwakka28さん、訪問ありがとうございます。これから活字をおおきくします。ありがとうございます。八雲たつについての解釈はいろいろあるんですね。8つの制度というものがどういうものか、勉強しようとおもいます。

2012/6/10(日) 午後 9:01 [ かんとりー ] 返信する

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