《電気自動車》三菱アイ・ミーブの静音性対策を試す! 毎日新聞昨年5月、国土交通省のガイドライン策定を受けて、電気自動車(EV)やハイブリッドカーメーカー各社が静音性対策「車両接近通報装置」を搭載したモデルを発表、同省主催で聴き比べの体験会を開催した。電気自動車はガソリンを使わず環境にやさしいことから普及が期待される一方で、走行音が静かなため、視覚障害者や高齢者が接近に気がつかず危険という指摘が出されていた。 体験会では、ワーンという深みのある音が特徴的なトヨタのハイブリッドカー「プリウス」の識別しやすさが際立っていたものの、その後、他社でも改善が加えられている。
今月初め、試乗した三菱自動車の4人乗り電気自動車「i−MiEV(アイ・ミーブ)」=写真=は、昨年、キーンという金属的な高音が特徴だったのが、最新モデルでは車両接近通報装置を入れると(デフォルトはオン)、やや深みのある掃除機のような音が響いた。これでも十分、接近が聴き取れる印象を受けた。 通報音は25キロ以下での走行時に鳴り、それ以上になると走行音が大きくなり、通報音は出なくなる。
また同社広報担当者の説明では「電動ポンプで風圧を発生させており、脚力の弱い人も楽にブレーキペダルが踏める」という。
【岩下恭士】
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ナパーム弾攻撃を受ける朝鮮半島の戦場(1951年) 1950年、すなわち昭和25年の6月30日。コメディアンの古川ロッパは日記に「またこの字が日記帳に出てくるのか」と嘆息して書いている。その字とは「空襲警報」である。この月25日の日曜日、朝鮮戦争が突発し、北朝鮮軍が大波のごとく南下した。29日夜「国籍不明機が接近」の報で福岡の米軍板付基地(現福岡空港)で空襲警報が鳴り響き、迎撃機が急発進。小倉、戸畑、門司(以上は現北九州市)と神戸にも警戒警報が出て灯火管制が敷かれた。不審機は姿を消したとかで間もなく警報は解除されたが、戦後わずかに5年足らず、多くの人々には大空襲の恐怖がまだ生々しかった。それから60年。記憶ある人はめっきり減った。この戦争が歴史のかなたで終わった出来事ではなく、今なお「休戦」状態であることさえ私たちは忘れがちだ。海の向こうの、遠い昔話ではない。
このシリーズ<その36 東京湾の波高く>で、初期の海上保安庁に掃海任務、つまり危険な機雷除去の仕事があった(今は海上自衛隊の任務)ことに触れたが、朝鮮戦争では国連軍(米軍)要請で朝鮮半島水域に出動、事故による死傷者も出た。当時このことは公表されなかった。
1948年発足の海上保安庁の初代長官だった大久保武雄氏の著書「海鳴りの日々−−かくされた戦後史の断層」に詳しい。
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仁川上陸作戦を見るマッカーサー元帥(中央)(1950年9月) それによると、戦争は当初北朝鮮軍の猛攻に韓国軍側は後退したが、9月、米軍のマッカーサー元帥は半島の西海岸中部、仁川の上陸作戦に成功し、戦局は大きく転じた。さらに米軍は東海岸の要衝・元山の上陸作戦を進めるべく、機雷除去を米軍指揮下で行うよう保安庁に言ってきた。GHQ(連合国軍総司令部)は日本占領時に戦争中の敷設機雷を日本が処理するよう命じており、旧海軍のエキスパートらがこれに当たっていた。 しかし、今度は進行中の戦地に近接した水域への出動である。事は重大だ。大久保長官は吉田茂首相に報告し、指示を仰いだ。首相は「国連軍に協力するのは日本政府の方針である」と出動を認めた。だが、当時は日本独立をかけた講和条約締結を前に微妙な外交時期であることから、出動は秘密裏に行われることになったという。 この特別編成の掃海隊が出動する10月6日、大久保長官は指揮官や船長を集めて政府の考えを伝え、こう言った。
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前線で交戦中の米海兵隊員 「日本が独立するためには、私たちはこの試練をのり越えて国際的信頼をかちとらねばならない。諸君の門出にあたって、唐戸(山口県下関市)の岸壁に日の丸の旗を振る人はいないけれど、後世の日本の歴史は必ず諸君の行動を評価してくれるものと信ずる」
出動船艇は戦時中に急ぎ造られた木造船のようなもので、老朽化した機関の整備は大変だったらしい。
1隻の掃海艇の触雷沈没事故は、その月17日午後3時21分、元山の永興湾で起きた。北朝鮮は、多数のソ連製機雷を各港沖や上陸想定地沖に敷設していた。1隻が触れて爆発、艇はたちまち沈み、1人が死亡、18人が負傷した。当時の新聞には載っていない。
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日本では空襲こそなかったが、開戦間もなく、兵士が集団脱走して略奪などをするという大事件が、北九州の小倉で発生した。松本清張は後にこれを素材に小説「黒地の絵」に書いた。しかし、発生時は米軍によって厳しい報道管制が敷かれ、現地以外のほとんどの国民は、この「黒地の絵」が世に出るまで事件を知らなかった。 戦争が始まって2週間余りの7月11日のことである。ちょうど夏祭り、小倉祇園の季節で名物の祇園太鼓があちこちの街角で打たれていただろう。
朝鮮半島の最前線に送り込まれようとしていた黒人部隊の兵士たち約250人が武装して小倉の補給基地から脱走し、民家に押し入ったり、略奪行為を働いたりした。当時、戦況は極めて悪く、送られる最前線は危険だった。兵士たちのこうした恐怖や不満が背景にあるといわれる。
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朝鮮半島の前線に移送される米軍25師団(1950年9月、小倉駅) MPだけでは抑えきれず、鎮圧の部隊が出て脱走兵を捕らえたという。一部は足立山に逃げ込んで山狩りも行われた。この脱走兵士たちは後に前線でほぼ全滅したといわれている。死地に追いやられたのかもしれない。
小倉は当時、中心街を外れると田園が広がっているような土地だった。清張はこのころ、小倉にあった朝日新聞社の広告図案の仕事をしており、現場に近い借家に暮らしていた。8人家族の生活は楽ではなかった。自伝「半生の記」(新潮文庫)で事件をこう回想している。
<私は社を夜の八時ごろに出た。よくおぼえていないが、多分、将棋か何かをさして、遅くなったに違いない。/私は、社から自分の家までは鉄道線路を歩くのが直線コースなので、いつもそこを往復していたが、夜は危険なので電車で帰る。降りるところは三郎丸という停留所だが、そこから家までは一キロ半ぐらいあった。その道の横が米軍補給廠(しょう)の裏側に当るわけだが、家も少く、九時ごろともなれば、夏でも戸を早く入れて灯が見えない。田圃(たんぼ)の向うには農家が点在していた> こんな風景の土地だった。清張は米兵1人に会うこともなく、帰宅して寝た。
<翌(あく)る朝になって、なんとなく表が騒々しい。近所の人がほうぼうに不安そうな顔で立ってひそひそと話をしている。まわりには警官がうろうろしていた>
被害に遭っているのは日本人たちなのに、日本の警察は手も足も出ない。ほとんど発表はなく、情報は耳から耳へと伝わるしかなかった。占領下日本の現実だった。
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朝鮮特需景気が興り、ホステス600人を抱えるキャバレーも誕生、「社用族」も登場した(1951年) 数年後、上京した清張は小倉の米兵集団脱走事件を知っているかと周囲に聞いたが、誰もまったく知らなかった。彼はこう書いている。
<この騒動が動機になって、私は占領時代、日本人が知らされなかった面に興味を抱くようになった>
それは、戦後裏面史の発掘取材と検証で反響を呼んだ「日本の黒い霧」シリーズなどに生きているのかもしれない。(専門編集委員)
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福岡板付基地から発進する米軍戦闘機。農民の姿が見える(1950年6月) |
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