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幕臣に小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)と言う人がいた。 多分、幕末ファンのの中でもマイナーに分類されると思う。 頭脳明晰で、徳川幕府のさまざまな職務に着いた。 咸臨丸でライバルの勝海舟が太平洋を越えて、サンフランシスコについてしばらくしてから、小栗たちをのせたポーハタン号もアメリカに到着する。 米国の繁栄ぶりをみて、帰国後に行った数々の改革をいくつか列挙してみると・・・
1 世間が攘夷で騒がしいのにもかかわらず、米国文化を日本で紹介し、政治・軍事・商工業など外国を模範としなけらばならないと、幕臣たちに説いた。
2 横浜、横須賀に造船所をつくった。(碑が横須賀に残っているそうだが、現在は米軍基地があって近づくことができない。)
3 外国為替を研究史、不当な扱いを受けていた小判の価値を三倍にひきあげた。
4 フランス仕官を招き、その軍制を採用して、洋式訓練をおこない、近代陸海軍を創設した。
等々、ものすごいことをたくさんやっているのだが、世間ではなかなか脚光をあびないね。 理由の一つは彼は強弁に主戦論をとなえ、薩長軍を排除することを考えていたことかな? 改革は必要である、だが、それを行うはあくまで徳川幕府である、といった思想で柔軟性がなかった。
結局、勝海舟の和平論にやぶれ、知行地の上州(現在の群馬県)に移り住んで、戊辰戦争の様子をうかがっていた。 彰義隊の頭取に曰く、「今、主君は恭順の意を示して、江戸はよそ者のものになろうとしている。 もはや、仕方がない。 会津藩などが東北諸藩をひきいて官軍と戦っても、せいぜい数ヶ月の命脈であろう。 しかしそのあと、勝者側は、勲功を争って内輪もめになる。 そうして群雄割拠の時期となってあらためて天下に檄(げき)を飛ばせば、国内再統一もそれほどむずかしくはない。」
みごとな読みだ。 戊辰戦争のてん末から、士族の反乱までの流れを、新聞やテレビのない時代に見事に読みきっている。 彼は、軍用金については「私が責任をもって調達する。」といっている。 ここからあの有名な徳川埋蔵金伝説が生まれた。 彼が上州に移る際に、徳川の軍用金を持ち出し、赤城山ろくにうめたのではないか?というものである。 さてさて、彼は、血気盛んな薩長軍にひったてられ、殺されてしまったので真相は闇の中である。
そんな彼の自宅に遺されていたのは、将軍慶喜から与えられた大判二枚だけだったそうだ。 彼が遺したもの − やはり再統一されたあとのビジョンというものだろう。 倒幕に必死だった官軍は、その後どのように日本を作っていくかということはあまり考えていない。 後に、国づくりの最中の明治政府の重鎮曰く、「われわれが今やろうとしていることは、結局、小栗がやろうとしていることなのではないか?」 生き残っていたなれば、そして、明治政府にとりたてられるようなことがあれば、彼はものすごい活躍をしたかもしれない。
小栗がアメリカからもち帰ったもののひとつに、ねじ、がある。 今の世界ならどこにでもありそうな一本のねじだが、当時の日本にはなかった。 このねじはいまでも、とあるお寺に遺されている。 彼の夢とかいっぱいつまってそうなねじである。 自宅でまじまじとながめながら、いろんなことを考えていたんだろうなと思う。
彼のお墓は東京、雑司が谷霊園の一角にある。 ここの霊園には、幕末にかかわる方々がいっぱいねむっているので興味のある方はどうぞ。 ただ、かなり広い。 案内所で100円を寄付して地図を手に入れることをお勧めする。 管理人が訪れたとき、彼のお墓は草ボーボーだった。 幕末の立役者は、現在の人気によって扱いが違う。 彼に関してはもうちょっと評価されてもいいんじゃないかなと思う。 お参りしたあと、気持ち、お墓をきれいにしておいた。
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こんにちわ。ノーシンです。私も歴史ブログコーナーを作って第1回に小栗さんを選びました。ホント凄い人だと思います。日露戦争の英雄東郷平八郎が「海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰」と絶賛したことから、脚光を浴びた様ですね。コメントを頂いた方から今や横須賀のキャラクターにまでなってる事を教えて頂き、さっすが偉人は時代を超ると思ひました。
2005/10/1(土) 午後 8:37
こんにちは、ノーシンさん。 海戦の勝因は東郷平八郎の作戦だけではない、ということですね。 日本海戦前に横須賀の造船所で船を修理したんでしたっけ? こういう話を聞くと、歴史は微分してはいけないなと思います。 面白い! そうですか。 小栗がいつのまにやらそんな人気者に。 すばらしいことですね。 お墓もきれいにしてあげてほしいです。
2005/10/2(日) 午前 6:18