幕末の遺跡をたずねて

日本全国の幕末遺跡を巡り歩く管理人。 遺跡めぐりを始めてからこの3年間で撮りためた画像を少しずつアップしていきます。

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函館五稜郭決戦!

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次々と精鋭たちが、明治新政府軍の近代兵器の前に倒れて、榎本武揚(えのもとたけあき)率いる、旧徳川幕府の残党たちは北海道の南端、函館の五稜郭に追い詰められた。 勝敗はもはや歴然としている。 榎本武揚は幕府の命令で1862年から1866年の間、オランダに留学していた。 幕府に大恩がある。 留学から帰ってきた榎本は、あまりの幕府の弱体化ぶりに驚きながらも、主戦論をもって、その存在を維持することを主張し、8隻の船を奪って、江戸を出発し、転戦しながら、この五稜郭までやってきたのである。

対する明治新政府軍を率いる後の内閣総理大臣、黒田清隆(くろだきよたか 薩摩藩)は、勝利が確定的になったところで、自軍の兵力の消耗を嫌って、榎本に対して降服勧告を出した。 榎本はこれを拒否し、「一同枕をならべて討ち死に覚悟である。」と抗戦を続ける決意を伝えた。 つづけて、「ただ、オランダから持ち帰ったこれら2冊の本は、将来の日本に必ず役に立つ。 戦火で灰になってしまっては惜しまれるので、もらってくれないか。」と、海上国際法についての本を二冊黒田清隆に贈った。 黒田は、返信で、「義を重んじて必死に篭城することに、実に感動した。 兵糧、実弾がたりなくはないか? 必要ならば、送っても良い。」と伝える。 敵軍の将に感服するなど、歴史上稀だ。 戦争は殺し合いである。 血気が盛んになって当然。 黒田も感情だけで物事を判断しない、客観的判断ができる人物であったといえるだろう。 これに対し、榎本は感謝しつつ、丁重に断った。 代わりに、黒田は酒五樽、まぐろ五本を送って、国際法の2冊について感謝の意を表した。 まさに敵に塩を送ろうとする行為。 幕末に関係ないがふと上杉謙信と武田信玄を思い出した。

それからしばらくして、榎本たち幹部のものだけが責任をとるという条件に降服を受け入れた。 打ち首はまぬがれない。 そのとき、黒田は頭を丸め、新政府に榎本たちの助命嘆願書をだした。 これが、榎本たちの運命を変えた。 榎本武揚は二年間、入牢した後、出獄して、新政府に仕えることになる。 後に、黒田が内閣を組織したときに逓信(ていしん)大臣として榎本が名前を連ねている。(ちなみに逓信省→郵政省→現在の総務省だ) 

戊辰戦争終着後、数年がたってから、榎本は函館に帰ってきて、血碧碑(けっぺきひ)を建てた。 国を想い国のために死んだ戦士の血はやがて碧玉になるという中国の故事からきているそうだ。 函館を含む、各地の戊辰戦争で死んでいった者たちの霊を沈めるためのものである。 まだ、旧幕府の者たちへの風当たりが強いときの話だ。 降服した卑怯者として、土方歳三ら最後まで戦って死んでいったものとよく対比されて語られるが、管理人には彼の気持ちがよくわかる。

実は管理人は函館には行ったことがない。 が、うちの姉が去年函館旅行に行くことになった。 それを聞いた管理人は、姉の旅程に血碧碑を入れるようお願いしたら、ぶつぶつ文句いいいながらも血碧碑の写真を撮ってきてくれた。(笑) でも、山中よっぽど暇だったんだろうね。 みせてもらった写真10枚ほどの9枚は、山道で見つけた猫とか花とかの写真で、血碧碑の写真はたった一枚! 話によると、そんなものを観光している人は一人もいないらしい。(笑) いつか、管理人も函館に行こう♪ 自力で撮った写真をそのうちアップしますのでお楽しみに。


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